黒神由貴シリーズ

幻丞色街退魔行 3


6.幻丞、リリスの正体に気づく

 安部由加里の姿をしたリリスと対峙したあと、幻丞は「ザ・インペリアル」に戻った。リリスに捕まって危うく殺されるところだったサラリーマンは、「ザ・インペリアル」に入ったようだ。邪魔をしたわびということで、店長の奢りにしたらしい。サラリーマンはホクホク顔だったそうだ。

「よくご無事でしたね」

 下戸の幻丞のために、店長が出前のコーヒーを出す。

「思いがけず相手とおだやかに話ができましたので助かりました。むこうがその気なら、あのお兄さんの代わりに私がやられていたと思いますよ」

「そんな。先生だったら、そう易々とは」

「いやいや。向こうは男の本能に狙いを付けてきますからね。成人男性だったら、あらがうのはむずかしいでしょう。まして私なんぞ、風俗に目がない俗物坊主ですしね。それよりも、逃げた女のあとを追いましたら、そこで仲嶋氏を見かけましたよ」

「仲嶋を」

 店長が目をむく。

「ビルの間の路地で、何をするでもなくぼーっとして立っていて、心ここにあらずという感じでしたね。私にも気づいていないようでした。と言っても、仲嶋氏は私の顔を知らないわけですが」

「仲嶋が関係しているのでしょうか?」

 不安げな表情で、店長が訊く。

「仲嶋氏が連続情交殺人に関係しているかと言われるなら、それは違います。ただ……」

 幻丞は口を濁した。

「いえ、ちょっとまだわからないことがありますので、私の方でもう少し調べます。今日はおそらく、もう何もないと思いますので、今日のところはこれで失礼いたします。ミカちゃんにもよろしく言っておいてください」



『あんたが負けそうになるって、よほどすごい妖気だったんだなあ』

 電話口のむこうで神代冴子が笑った。結局、神代冴子に連絡した幻丞であった。

「あのときばかりは、自分の理性を誇ってもいいと思いましたね。しばらくは勃起が収まりませんでしたよ。なのに、身体と精神は緊張しているんです。まいりました」 

『どうせそのあと、どこかの風俗に行ったんだろ』

「それはノーコメントで。あのときは命拾いしたと思いましたが、今にして思うと、奇妙なことに、妖気は感じても殺気は感じませんでしたねえ」

『ふうん……。で、どうする? 何か手伝おうか?』

「いえ、それには及びません。まだいくつか不明なこともありますので、もう少し私の方で追ってみます。解決しましたら、またお嬢に連絡いたしますので」

『念のために訊くけど、うちの子たちには何も言っていないだろうな』

「うちの子って……黒神由貴さんや榊真理子さんですか」

『そう。風俗がらみの妖しとか、そんなことにうちの子を巻き込んだら、ケツに独鈷杵ぶち込むぐらいじゃすまねーぞ』

「恐ろしいこと言わんでください。そんなことはいたしません。それではまた」

『ちょっと待て』

 神代冴子がそう言ったので、幻丞は通話切断ボタンを押しかけていた手を止めた。

「何か?」

『その妖し、リリスという淫魔だが』

「はい」

『洋の東西を問わず、妖しってやつは、勝手にうろうろするもんじゃない。何か要因があるんじゃないのか』

「ご明察。さすがお嬢です。リリス自身もそう言っていましたよ。私もそれが気にかかっておりまして。そのあたりも調べてみますよ」

 都内の自宅に戻った幻丞は、これまでのことをあらためて考えた。
 あのときに対峙した妖しは、確かにこれまでの連続情交殺人の犯人であった。それは断言できる。
 だが、なぜリリスは仲嶋氏の従姉妹である安部由加里の姿を取っていたのか。別にどこの誰の姿でもいいはずだ。なんなら、あの界隈をうろついている頭と股の緩い女に憑依してもいいだろう。いやむしろ、その方が姿をいくらでも変えられて、犯行には便利なはずだ。
 ふと幻丞は、なぜ最近になって事件が起き始めたのか、気になった。
 何かきっかけがあるのか。
 店長から聞いた話のメモ、興信所の調査結果、所轄刑事から聞き出した事件の経過などを照らし合わせる。
 幻丞はあることに気づいた。
 腑に落ちた。
 リリスの正体がわかった。


7.幻丞、真実にたどり着く






 新宿・歌舞伎町、午後3時。
 歌舞伎町に数え切れないほどあるラブホテル、その一軒の入口前に、ミカはいた。ほぼ約束時間通りに、クラッチバックを脇に抱えた仲嶋氏がやってきた。ホテル前に立つミカに気づいた仲嶋氏は、ミカの顔を見て息を呑んだ。

「え、由加里……?」

 仲嶋氏は安部由加里の名を口にした。一瞬、ミカを安部由加里と見間違えたのだった。

「違いますよお」

 ミカが無邪気に笑う。

「ミカと言います。昨日、店長からお話は聞かれていると思いますけど、今日はよろしくお願いします」

 ミカはそう言うと、ぺこりと頭を下げた。

「ああ、あいつから話は聞いてるけど、君、本当にいいの。あいつから、商売抜きだと聞いたんだけど」

「はい」

 ことさら明るく、不自然とすら思えるほどに、ミカは答えた。

「店長から、仲嶋さんが落ち込んでるからなぐさめてあげてくれって言われて。でも、そんなことは関係なしで、今日は楽しみましょう?」

 ミカは言って、まだ戸惑いの色を隠せない仲嶋氏の手を取り、ホテルへといざなった。
 そのラブホテルには、入ってすぐに電光パネルがあり、ホテル内の各部屋の価格と室内写真が表示されている。客は好みの部屋をチョイスして、パネルのボタンを押す仕組みだ。光っている部屋は空室、消灯している部屋は使用中ということになる。
 ミカはどれにしようかと迷うこともなく、305号室のボタンを押した。

「じゃあ行きましょうか」

 再び仲嶋氏の手を取り、小さなエレベーターに乗り込む。
 3階で降りると、305号室の場所を示す矢印ランプが点滅している。それに従って進んでいくと、迷うことなく305号室にたどり着く。
 廊下を曲がると、部屋の掃除とメーキングをしていたのか、作業着姿の女性がいた。仲嶋氏とぶつかりそうになり、作業着の女性は「失礼しましたっ!」と頭を下げた。

「もうしわけありません」

 そう言いながら、仲嶋氏よりも長身の女性は、仲嶋氏が「いや、いいからいいから」と言うにもかかわらず、仲嶋氏の肩や胸をハンカチではたはたと軽く叩いた。
 それを横に立って見ていたミカだったが、係の女性がポケットから何か取り出したのに気づいた。
 金色に光る、両端が尖った道具。
 その道具を、係の女性はクルクルとバトントワリングのように器用に回し、仲嶋氏の胸に、つん、と当てた。
 仲嶋氏の身体が硬直した。
 係の女性が、ミカを見た。






 305号室に入室する。
 ベッド、ソファ、テレビ、テーブル、冷蔵庫、浴室とトイレ。ごく一般的なラブホテルの部屋であった。
 仲嶋氏が脱衣するのを、ミカがアシストする。上着とその下の長袖ポロシャツを脱がせると、あとはミカが自身の服を脱いでゆく。

「ごめんなさい。ブラのホックを外してもらえます?」

 仲嶋氏に背を向け、ミカが言った。
 仲嶋氏はテーブル上のずっしりと重いガラス製灰皿を持ち、ミカの側頭部に叩き付けた。

「えぶっ」

 奇妙な声を上げ、ミカがベッドの上に倒れる。
 ミカの肩に手をかけ、仰向けにする。こめかみのあたりから少し出血しているが、致命傷にはならなかったようだ。目を見開き、身体が震えているのは、傷のせいと言うより、ショックと恐怖のためだろう。
 抵抗される恐れはないと判断した仲嶋氏は、クラッチバッグから刃渡り10センチほどの果物ナイフを取出した。

「うがおああああ!」

 叫び声を上げて、仲嶋氏は果物ナイフをミカの身体に振り下ろした。

「この淫売があ!」
「くそったれがあ!」
「お前のせいで、どれだけ苦しんだと思ってやがる!」
「くたばりやがれ! 男に股開くしか能のない肉便器があ!」
「死ねえっ!」
「地獄に行きやがれっ!」
「お前さえいなければっ!」
「お前さえいなければっ!」

 涙を流し、口を極めてなじりながら、仲嶋氏は何度となく果物ナイフを振り下ろした。
 ドアを蹴破って、制服の警察官が305号室に飛び込んできた。
 警察官たちは、そこで繰り広げられている光景を見て、息を呑んだ。



「犯人は、仲嶋だったのですか」

 翌日の夕刻。「ザ・インペリアル」内の応接室。
 店長と幻丞が話している。

「違います」

 幻丞が短く答える。

「仲嶋氏の犯行ではありません。ですが、事件を招いたのは仲嶋氏でした」

 店長は、それはどういう意味か、という表情を浮かべる。

「俗に淫魔と呼ばれる妖しがいます。直接の犯行はリリスという名の淫魔がやったことです。そのリリスを呼び寄せたのが仲嶋氏でした」

 店長の不思議顔は変わらないままだ。

「半年ほど前に、仲嶋氏は従姉妹さんの夢を見た。その夢で仲嶋氏はこれまで抑えていたものがフラッシュバックしたんですね。伴侶として自分を選ばず、あまつさえ不倫してシングルマザーになり、男を渡り歩いて荒んだ生活を送る従姉妹さんに、仲嶋氏は憎悪をぶつけたかった。
 しかし、そのときすでに従姉妹さんは孤独死していて、復讐しようがない。その、持って行きようのない想いが淫魔を呼んだのです。連続情交殺人も、ちょうど半年ほど前から起きています」

「それで、その化け物は若いときの従姉妹の姿をしていたのですか」

 店長が言い、幻丞はうなずく。

「そういうことですね。性的に乱れている従姉妹さんの姿を実体化させて、ああいうひどい娘だったのだと自分を納得させようとした。最終的には、自身が産み出した妄念である従姉妹さんを殺すつもりだったのでしょう」

「あ、それでミカちゃんを」

「はい。私としても、これは賭けでした」

 幻丞はそう言って、横に座るミカの肩を抱いた。

「怖かっただろ。いやなことさせて、ごめんな」

 あのときのことを思い出したのだろう。身体を震わせながらも、ミカは言った。

「でも、あの女の人が助けてくれたから」

「あの方は、先生のお知り合いですか」

 幻丞から聞いて、ラブホテル内での顛末をすでに知っている店長が訊く。

「私の師匠の孫娘にあたる女性です。性格にはいささか問題がありますが、腕は超一流です。305号室に入る直前に仲嶋氏に暗示をかけて、ミカちゃんと二人で入室したように思わせました。仲嶋氏はミカちゃんを──というか、従姉妹さんを殺しているつもりだったのでしょうが」

 305号室に飛び込んだ警察官が目にしたのは、号泣しながら空のベッドに果物ナイフを突き刺し続ける仲嶋氏の姿だった。ミカは、ベッドメイク係に扮した神代冴子に保護され、すでにその場から離れていた。

「仲嶋は何かの罪に問われるのでしょうか」

 店長が言った。

「ベッドがボロボロになりましたから、強いて言うなら器物損壊でしょうか。あとは銃刀法違反ぐらいですかね。せいぜい厳重注意じゃないでしょうか。連続情交殺人の方は、仲嶋氏がやったという証拠はありませんし」

「ホテルの備品については、先生からあらかじめうかがっていたので、私の方で新品を納めることで話はついておりますが……」

「仲嶋氏の方は、その後いかがですか」

「心療内科を受診させましたところ、精神的にかなり疲弊しているということで、この一件が一段落したら、郷里に戻ることになるだろうと思います」

「それはよかった」

「しかし先生。これで問題は解決したのですか。先生が言うところの化け物は、退治できたのですか」

「淫魔リリスが仲嶋氏の妄念から産まれたものである以上、仲嶋氏の妄念が消えた今はもう、いなくなっていると思います」

 幻丞の言葉を聞いて、店長はほっと息をついた。

「ありがとうございました。このたびは、本当に先生にはなんとお礼を申し上げればいいか。つきましては、些少ですがお納め下さい」

 店長はそう言って、厚い封筒をテーブルに置いた。

「ミカちゃんもありがとう。お礼は何がいい? ボーナスはもちろんはずむけど、それ以外に何かないかい。怖い思いをさせたんだから、なんでも言ってくれ」

 ミカの方を見て、店長が言う。

「それじゃあ……」

 ミカが思案顔になる。
 ミカが考えている間、幻丞はずっと気にかかっていたことを店長に訊いた。

「それにしても店長。ずっと不思議だったのですが、どうしてここまで仲嶋氏に肩入れしたのですか。幼なじみというだけが理由とは考えにくいのですが」

 店長は一瞬、ばつが悪そうな顔をした。

「もう10年ほど前になるのですが、都内のちょんの間で遊んだとき、たまたま当たったのが仲嶋の従姉妹だったんです」

 そんな偶然が、と幻丞は目をむく。

「それ以前から仲嶋から従姉妹の話は聞いていましたので、出てきた女と世間話をしているうちに、おや、と思いまして。はっきりと名前を聞いたわけではありませんが、あれこれと話を聞いて確信を持ちました。そこで仲嶋のことをその女に言うなり、女がちょんの間にいることを仲嶋に言うなりしていれば、こんなことにはならなかったのかもしれませんが、結局何も言えずに、女を抱いて帰りました。その頃にはすでに、若い頃の面影はみじんもありませんでしたね。……そんなことがあったので、どうもその、寝覚めが悪いと言いますか、罪悪感を持ったと言いますか」

「そんなことがあったのですか」

 そう言えば店長は以前、安部由加里のことを「ぶくぶくと醜く肥え太った」と言っていた。見ていなければ、そんな言い方はできないだろう。

「ですので、今回のことは、私なりの罪滅ぼしということで、一つ」

「わかりました」

 そう言って、幻丞は立ち上がった。

「それにしても先生」

 幻丞を見送るために立ち上がりながら、店長は畏怖と感嘆の混じった表情で幻丞に訊いた。

「先生はいったい、どういう方なのですか」

「え、私ですか?」

 幻丞は笑った。

「私は、風俗好きの、ただの生臭坊主ですよ。……どうミカちゃん。ご褒美は思いついたかい?」

 幻丞が言うと、ミカは大きくうなずいた。


8.幻丞、再びリリスと対峙する

 店長に見送られて「ザ・インペリアル」を出た幻丞は、数メートルほど歩いたところで、ぎくりと立ち止まった。
 目の前に、安部由加里の姿をしたリリスが立っていた。

「こんばんは」

 さすがに驚き、とっさに懐に手を入れて独鈷杵を握りしめた幻丞であったが、相手に殺気も色情気もないのに気づき、警戒心を解いた。

「仲嶋氏の妄念が消えたので、君も消えたと思っていたんだが」

 幻丞が言うと、リリスはうなずいた。

「うん。もう少しで消える。でも、その前に幻丞さんとお話ししたくてね」

「光栄です」

「質問いい?」

 リリスが訊いてきた。

「どうぞ、なんなりと」

「幻丞さんって、あたしみたいな存在を滅するのがお仕事じゃないの? あたしのことはこのままでいいわけ?」

 いたずらっぽく、だがいくぶんかは本気で不思議そうに、リリスは訊いた。

「前にあったときに君自身が言ったように、君は仲嶋氏に呼ばれた存在だからね。君が何人か死なせたのも事実だが、君がやらなくても、同じような事件は歌舞伎町では腐るほど起きているし、今回は仲嶋氏を救うことが最優先事項だったからね」

「変なお坊さん」

 リリスはクスクスと笑った。

「また会えるかな。今度会うときは、あたしは違う顔だろうけどね」

「私からも、一つ質問いいかな?」

 幻丞は言った。

「なに?」

「仲嶋氏が妄念を産んで君を呼び出したのは、仲嶋氏が従姉妹さんの夢を見たのがきっかけだったわけだが、もしやその夢は、君が仲嶋氏に見せたんじゃないのかな? 何しろ君は、夢の中に棲む淫魔だ。──それと、仲嶋氏は一度、君の姿を目撃しているが、それも偶然ではなく、君はわざと姿を見せたんじゃないのかい? 君の姿を見たことで、仲嶋氏は君の存在を確信した」

 幻丞は続ける。

「君は、仲嶋氏の妄念に便乗する形で情交殺人したわけだが、その一方で、仲嶋氏の長年にわたるトラウマに終止符を打つきっかけになった。君が仲嶋氏を救ったとも言えるんだが、元々そのつもりだったのか?」

 リリスは肩をすくめて笑っただけで幻丞の質問には答えず、「じゃあね」と言って手を振ると、黄昏の光の中に、その姿が薄れていき、やがて消えた。
 そばを歩いていた男性が、幻丞を二度見する。さっきまで幻丞と向かい合っていた若い女が突然消えたので、首をかしげていた。






 事件は解決した。連続情交殺人は証拠不十分で迷宮入りとなるだろうが、それは幻丞が関知する問題ではない。
 問題なのは、ミカが求めた「ご褒美」だった。

「ちょっとお休みが欲しい」

 ミカは言った。

「そんなのでいいの」

 店長が、なんだそんなものか、という顔をする。

「もう一つ」

「なんでも言っちゃいな。今だったら、多少の無理でも、聞いてもらえるよ」

 幻丞がけしかける。

「──先生とお泊まりデートしたい!」

 幻丞と店長は、「えーっ!」と声を上げたが、なんでもいいと言った以上、あとの祭りであった。

「プランができたらメールしますね。お願いしまーす。ミカのお願い♪」



「仕方ないよなあ……」

 幻丞はぼやきながら、歌舞伎町の雑踏に消えていった。
 歌舞伎町の夜は、これからだ。


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