単品怪談

母の手の感触


「痛い痛い痛いぃ!」

「はいまだいきんじゃだめよー。呼吸して呼吸してー。はい、ひっひっふうー」
「ひっひっふうー」

 分娩室の中、分娩台に横になって、私はわめき散らしていた。
 「案ずるより産むがやすし」なんて、誰が言ったんだろう。
 その「産む」のが大変なのに。

「先生、痛いー!」

「はい頭見えてきてるよー。がんばってー」

 助産婦さんが言ってくれるが、まともに頭に入らない。
 ただもう、骨盤が砕けるような激痛だけだ。

 その激痛の中、ふと、お母さんのことを思った。
 お母さんもこんな痛みに耐えて私を産んだのだろうか。



「お母さん」というのは、私が1歳8ヶ月のとき、33歳の若さで死んだ母のことである。
 お母さんは、若いときから心臓が悪かったらしい。
 手術も何回かしたということだ。
 今、私も子供を産む立場になってつくづく思うが、よく子供を作ろうと思ったものだ。
 出産に伴う生命の危険は、少なからずあったと思うのだ。
 大きくなってから、父にそのことを聞いてみた。

「お母さんが、どうしても欲しいって言ったんだよ」

 父はそう言った。
 できてしまったので、やむを得ずがんばって産んでみたわけではない、と父は強調した。
 私のせいで身体に負担がかかり、結果としてお母さんの命を縮めることになったのではないか。
 お母さんの病気のことを私なりに勉強し、そんなことを思ったりもして悩んだこともあった。
 これもまた、父の答えはNOであった。
 出産に関しては、医者もOKを出したのだと。
 お母さんが死んだのは私のせいではなく、残念ではあるが寿命であったのだと。



痛みがさらに激しくなり、もはや「痛い」とわめくこともできなくなってきた。

「はいがんばってー。もう少しですよー」

「う~~~~~~うう~~~~~~~!」

 目を固く閉じるな、股間部分を見ていろ、などと分娩前に言われていたのだが、とてもそんな余裕はない。
 ただもう、こめかみに血管を浮かび上がらせて、うなることしかできなかった。
 と、私はついさっきまで握りしめていた分娩台の握り棒をうっかり放してしまった。
 握り棒がどこにあるのかわからなくなって、私は手のひらをあちこちにさまよわせた。

 その手を、誰かが握ってくれた。

 ──助産婦さんが握ってくれてる……

 私は思った。
 相変わらずうーうーうめいてはいたが、横目で、握られた手を見てみた。
 ほっそりとした手が、私の手をしっかりと握ってくれていた。
 それで安心できて、幾分かは楽になった。

「頭が出てきましたよー。もう少しだからねー」



「はい、もういきまなくていいからねー。力を抜いてー。もうすぐだよー」

 そういう声が聞こえたかと思うと、何か大きなものが引き抜かれるような感覚があって、次の瞬間、私は母親になっていた。

「19時35分、2890グラム、女児ですー」

「おめでとうー。女のお子さんですよー」

 私の胸の上に、生まれたばかりの赤ちゃんが載せられた。
 その子を抱こうとして、私はもう手を握られていないことに気づいた。
 握ってくれていたのは、誰だったのだろう。
 ずいぶん強い力で握りしめたから、さぞ痛かったと思うのだ。
 あとで謝ろう。



 インターネットの仲間にとって、お母さんの死はあまりにも突然だった。
 お母さんの死の知らせがインターネット上に載ってからの騒ぎは、すさまじいものであった。
 お母さんの死をいたむ書き込みが次々に書き込まれた。
 その中で、お母さんのことを私に伝えようという提案もあった。
 そう。だから私は、お母さんのいろいろを知ることができたのだ。
 もちろん、直接私に対してお母さんのことを話してくれる人も多くいた。

 だがそれでも──私には強い実感はなかった。
 お母さんにとっては残酷なことであるのだが、1歳8ヶ月の私に、お母さんの記憶はほとんど無かった。
 大事に思っていてくれたことはよくわかったが、それでも、やはり──



 病室と新生児室に分かれた親子が再び顔を合わせるのは、初授乳のときだ。
 うーん、なかなか恥ずかしいものがあるな。
 看護師さんに連れられて、新生児室横の授乳室へ行く。
 看護師さんが、ベビーを連れてきてくれた。
 恐る恐る抱く。
 そのとき、今まで忘れていたことを思い出した。
 あのとき手を握ってくれたのは、誰だったのだろう。
 私は無邪気に、看護師さんに訊いた。

「私、つい力一杯握りしめちゃって──かなり痛かったと思うんですけど、どなただったんでしょう。謝らないと──」

 だが看護師さんは、

「は?」

 という顔をして固まってしまった。
 今度は私がうろたえる。

「えっと、──さん?」

 しばらくして、看護師さんが言った。

「それって、生まれる瞬間のことだとしたら──いえ、その前からだけど、誰もあなたの手は握っていませんよ? 特に生まれる瞬間は、処置とかで手一杯で、妊婦さんの手を握っている余裕なんてないのが現実ですから──」

「だって──」

 確かに私見たんです──と言いかけて、私の脳裏にある考えが浮かんだ。
 ばかげた考えだった。
 ばかげているのはわかっていたが、考えれば考えるほど、確かなものに思われてきた。

 あれは──あの手は──もしかしたら、お母さんだったんじゃないだろうか。

 そのとき、私の肩に、誰かが手を置いた。

 私が座っている椅子は、授乳室の壁に背もたれを付けて置かれている。
 つまり、私の後ろから私の肩を抱くのは不可能なのだ。

 私の身体を衝撃が走り抜けた。

「お母さん──」

 私は小声で言っていた。
 突然、堰を切ったように、涙があふれてきた。

 そうだ。
 なぜ今までこの手の感触に気づかなかったのか。

 おなかが大きかった頃、駅の階段で人にぶつかって危うく転びそうになったとき。
 道を歩いていて気分が悪くなり、ふっとよろめいたとき。
 誰かが手を伸ばし、支えてくれた。
 まだある。
 私は覚えていないが、きっと、まだまだあるはずだ。

 お母さんは、ずっと私を守ってくれていた。
 お母さんは、ずっと私のことを思ってくれていた。

 私は、顔も覚えていないのに──写真やビデオでしか顔を知らないのに──

 今──もしかしたら今振り向いたら、お母さんに会えるかもしれない。
 一瞬、そんな考えが頭をよぎった。

 でも、振り向いてしまったら、肩に置かれた手の感触が無くなってしまいそうで、それが怖くて、私は振り向けなかった。

「お母さん──」

 再び、私は小声で言った。

 心配しなくてもいい──とでも言いたげに、肩の手に力がこもった。

 お母さんの手は温かくて、そして優しかった。




愛嬢を残し若くして逝ったきんぎょさんと、
彼女の人柄を愛したすべての方々に、
本編を捧げます

(推奨BGM:夏川りみ「涙(なだ)そうそう」)


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