単品怪談

飛蚊症


 ひぶんしょう、と読むのだそうだ。
 それを知ったのは、森田からの電話でだった。
 医学関係書などで、症状と「飛蚊症」という病名は知っていた。
 ただ、その読み方を知らないでいたのだった。

 森田は学生時代からの友人だ。
 季節の便りのやりとりの他、ごくたまに電話で世間話をしたりする。
 その森田が、最近、飛蚊症に悩まされているという。

「読み方を知らなかった俺がわかったようなことは言えないけどさあ。飛蚊症ってわりとよくある症状で、さして気にすることはないと聞いたような」

 電話口で、私は言った。
 その程度の知識はあった。

 飛蚊症。
 明るいところや白い壁を見たとき、目の前に糸くず状の浮遊物が飛んでいるように見えることがある。
 視線を動かしても一緒に移動するように感じられ、まばたきをしても眼をこすっても消えない。
 原因は眼球内の「濁り」で、老化による物が多いという。

「それはわかってる。俺だって、その程度は調べた」

 森田は言った。

「これは普通の飛蚊症じゃない」

「どう普通じゃないんだ?」

「それはつまり、その……」

 森田は言いよどんだ。

「なあ……俺の言うこと、信じてくれるか」

「内容にもよるわなあ」

「その……飛んでいるように見えるのが、糸くずとか虫とか、そういうんじゃなくて……」

 そこで、またも言いよどむ。
 私は何も言わず、そのまま次の言葉を待った。
 面と向かって話していたら、「フンフン?」というところだ。

「首なんだ」

「え?」

 意外な単語が出てきたので、耳を疑った。

「くび……?」

「ああ。人の首。……人の頭が飛んでいるように見えるんだ」

「えっと、その……どんな顔してるのかな。知った顔?」

「いや……知らない顔だな。男、女、大人、子供……いろいろだ。それが、眼の前を飛び回るんだ。別に、血まみれってわけでもない。普通に街中を歩いているような顔で、ただ、首だけなんだ」

「…………」

 私は、何も言えなかった。
 何かの悩み相談室とか、インターネットの質問サイトに載っていたのなら、「頭がおかしいんじゃないのか」と思うところだ。

「何かに祟られるような覚えもないしな。……言っとくが、頭はまともだぜ」

 読まれてる。図星であった。

「眼医者にも行ったが、普通の飛蚊症の説明しかしなくて、らちがあかん。……とにかくもう、うんざりしてるんだ」

 それから少しのやりとりの後、電話を終えた。
 電話での会話で解決できる問題ではなかった。
 実際に顔を見て話していれば、眼の動きとか身体の動作とかで、本当に森田が精神的に不安定な状態かどうか、判断できたかも知れない。
 だが、私は精神科の医者でもなんでもないのだ。
 それっきり、森田から電話はなかった。



 1ヶ月ほど過ぎた頃、森田の父親から電話があった。
 森田が死んだという知らせであった。
 私にはあれから電話はかからなかったが、例の「飛蚊症」の症状は続いていたらしい。
 かなりひどいノイローゼ状態だったという。
 それが高じて、ついに首をつって自殺したのだそうだ。

 ……だが、実を言えば、森田の父親からの知らせを聞くまでもなかった。
 私はすでに、森田が死んだであろうことを確信していたのだ。
 実は数日前から、私も飛蚊症を自覚していた。
 おそらく、その頃に森田は死んだのだと思う。

 今ならわかる。
 森田は本当のことを言っていた。
 おそらく、本当に森田は自分の周囲を飛び回る首を見ていたのだ。
 今の私なら、森田の言葉を信じられる。
 現に今、私の周囲にも首が飛び回っているのだ。
 ただ、森田の話と私の場合が違うことが一つ。
 私の周囲を飛び回っているのは、森田だった。
 森田の首だった。
 森田の首は、何か言いたげに口をぱくぱくしながら、私の回りを漂っている。

 さて、どうしたものか。






本作は以下のリンク先で朗読が聴けます
https://www.youtube.com/watch?v=blMXW0j-Tmo
朗読:ビストロ怪談倶楽部様

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