1ヶ月前、最新アルバムのレコーディングや取材などで、ミチルは少々「煮詰まって」いた。
アメリカでのびのび過ごしていた少女が、突然、マスコミの寵児になったのだ。
うっかり外出もできない。ストレスが溜まるのも当然であろう。
「ドライブに行きたい」
ある夜、ミチルは安倍に言った。
「だめだって言ったら、もうレコーディングしない」
ちょっと困らせるつもりで言っているとは思えない声色だった。
「安倍ちゃんのZに乗せて」
安倍が所持している、フェアレディのことを言っているのだ。
断ったら、本当にレコーディングも何もかも、ぶちこわしにしかねない。
それに、安倍もミチルがストレスをためているのは承知していた。
「わかった。じゃ、ちょっとだけ走ろうか」
ミチルの送迎用に使っているセンチュリーを走らせ、安倍のアパートへ向かう。
そこでフェアレディに乗り換え、首都高から、少し郊外へ足を伸ばした。
峠のワインディングロードにさしかかったとき、ミチルが運転をせがんだ。
「ちょっと待ってよ。ミチルちゃん、免許持ってないじゃないか」
「アメリカで乗ってたもん。日本の免許は持ってないけど」
言って聞く娘ではない。
確かにミチルは、車の運転経験があった。
だがそれは、ストレートな道が多いアメリカでの話で、しかもオートマチック車だ。
ひるがえって、ここはコーナーが続く峠道で、安倍のフェアレディは右ハンドルのミッション車だ。
──やはり安倍は、ミチルのわがままをはねつけるべきだったのだ。
そう思ったときには、フェアレディはオーバースピードで道を飛び出し、立木に激突していた。
シートベルトが肩や胸に食い込み、しばらくは呼吸ができなかった。
「ミチルちゃん……怪我はない──」
運転席のシートに、ミチルはいなかった。
ハンドルにのしかかるような体勢になって、フロント・グラスを突き破っていた。
ミチルはシートベルトをしていなかったのだ。
「ミチル!」
安倍はミチルの身体を運転席に戻した。
頭頂部から、激しく出血している。
口からもおびただしく吐血していた。
ハンドルで下腹部を強打したのだろう。内臓が破裂したのかも知れない。
ミチルの身体が、ときおりけいれんする。瀕死の状態だ。
安倍はミチルを助手席に移し、自分は運転席に座った。
車体の損傷は意外に少ない。
キーを回すと、あっけなくエンジンがかかった。
安倍は自分のアパートへフェアレディを走らせた。
安倍のアパートに着いたとき、ミチルはすでに事切れていた。
自室に運び込んだミチルの遺体を前にして、安倍は決断を迫られていた。
やるしかないのだ。
禁じられた法を使うしかないのだ。
その秘法 ──「反魂(はんごん)の術」
安倍は、真実、安倍晴明の血筋の者であった。
だが、陰陽師としての修行など、何一つしてはいない。
話として聞き、実家の蔵にあった古文書を読んだだけだ。
それでも、やるしかないのだった。
「……だって、あたし、生きてるじゃないの」
話し終えた安倍に、ぶすっとした顔で、ミチルは言った。
「うまくいったと思っていたんだ。……でも、効力が切れかけてる」
安倍は、今も室内を飛んでいるハエを目で追いながら、言った。
「さっきから気にはなっていたんだけど、この臭い……。
あのハエは、この臭いに引かれて来たんだ。──死臭なんだよ、君の。
さっきファンデで消したのも、シミじゃない。皮膚が変色してきているんだ」
「じゃあどうしろって言うのよ。もう出番なのよ」
「だから、今日はキャンセルするんだよ。まだ間に合うかも知れない。
もう1度、術をやってみよう。だから、早くここを出よう。事務所は、僕がなんとかごまかすから」
ミチルが、鏡の前から立ち上がった。
安倍の前に立つ。
「ふざけるな」
言うと同時に、安倍の首を片手でつかんでいた。
「勝手なことを言わないで。あたしは絶対に、今日出るんだから」
ミチルは安倍の身体をドアに押しつけた。安倍の足が床から持ち上がっていた。
17歳の少女の力ではなかった。
「ま、待ってくれ……」
自分が死んだら、もう誰もミチルを生きながらえさせることができない……
安倍はそう言おうとした。
だが、その前に、ミチルの手が安倍の首の骨を砕いていた。
げぶげぶと血反吐を吐きながら、安倍がくずおれる。
ミチルは鏡の前に戻り、簡単にメイクのチェックをして、メイクルームを出た。
安倍の死体には、一瞥もくれない。
5スタの裏側から入る。そこで待機し、イントロと同時にセット中央から登場する段取りである。
セット裏には、さっきのADがいた。
「あ、倉本さん、こっちです。はい、これマイクで……うぶっ」
ミチルにマイクを手渡したADが、鼻と口を押さえた。
信じがたいものを見る目で、ミチルを見る。ものすごい臭いがしたのだ。
セットでは、サングラスをかけた中年男性タレントが、スタジオ見学の客を盛り上げていた。
「さあああ! おっまたっせいたしまし、たっ! テレビ初登場! 倉本ミチルちゃんっ!
歌は、『ファースト・コンタクト』! どぞっ!」
イントロが流れ始めた。
ミチルは、セット中央に足を踏み出した。
観客が歓声を上げた。
東央テレビ前の公園、そこにあるベンチに、黒神由貴は座っていた。
──他に方法はなかったのだろうか……
もっと早くわかっていれば、今日のこのときにタイムリミットを迎えることもなかっただろうに。
たとえ、2度目の死が避けられないことだったとしても。
外法(げほう)はしょせん外法だ。
目的がなんであったにしても、最終的には悲劇しかもたらさない。
責めを負うのは禁を破った者であって、あの少女には罪はない。
──結局、私は彼女を救うことはできなかった……
自分の力不足を痛感した。
黒神由貴はベンチから腰を上げ、肩を落として、立ち去った。
スポットライトが強すぎるな……これじゃ、汗かいちゃう。
イントロが流れる中、セット中央へ歩きながら、ミチルは崩れつつある脳髄で考えていた。
でも、「汗」って、こんな茶色い色だったかな。
こんな、腐ったような臭いだったかな。
ミチルはマイクを口に近づけた。
だが、口から出たのはゴホゴボという泡立つような音と、何か汚らしい、ドロドロしたものだった。
スタジオにいる誰一人、声を出す者はいなかった。
皆、息をするのも忘れ、その場に固まって、ミチルを見つめていた。
マイクが指からすり抜けた。
ゴオンという、とんでもなく大きな音が、スタジオ中に響き渡った。
指に力が入らなくなっているのだ。
指が、1本また1本と、掌から落ちてゆく。
顔の横から、何かが落ちた。
耳だった。
1ヶ月の時間が一気に戻ろうとしているのだ。
生出演のその日、約150人の見学客と、20人のテレビスタッフ、
そして数百万人の視聴者の目前で、
倉本ミチルは、「崩壊」していった。