市内を走る都市交通電車内。
朝の通勤ピークは過ぎていたが、座席はすべて埋まり、立ち客もそれなりにいた。
私も座席を確保できず、ドアの横に立って、文庫本を読んでいた。
フリーライターのありがたさ、ラッシュ時に乗る必要がないのは助かる。
晩春、それとも初夏……まだ冷房を入れるほどの暑さではなく、窓からの風で十分ではあった。
耳障りな携帯の会話もなく、かしましいオバハン連中のしゃべりもない。
静かな、午前の車内であった。
……それが、破られた。
赤ん坊がむずかる声。
声はすぐに泣き声になった。
私と同じように、ドア付近に立つ若い母親。
───その腕に抱かれた赤ん坊が、泣き声を上げていた。
乗客の目がいっせいに泣き声の方を向く。
「よしよしよし」と言いながら赤ん坊をあやす母親だが、赤ん坊の機嫌は直らない。
それどころか、泣き声はさらに大きくなってきた。
赤ん坊のことであるし、母親のせいでもない。
誰も文句を言うものはいない。
……だが、耳を刺す泣き声に、乗客の間に少々いらだちがつのり始めているのも事実であった。
なんとかならないものか。
……と。
「もうほんとに若い人は仕方がないわねえ」
よく通る声が車内に響いた。
泣き声のときのように、乗客の目がまたもいっせいにそちらを向いた。
いかにも「世話好きなおばさん」といった風な初老の女性が、若い母親に近づいていった。
「若いお母さんは大変よねえ。慣れないことばっかりだもんねー」
かすかな「おびえ」の表情を浮かべていた若い母親だったが、初老の女性の悪意のない言葉に、緊張をゆるめた。
「ほらほら。ちょっと貸してごらんなさいな」
と、ごく自然に母親の手から赤ん坊を受け取った。
関心ないふりをしているが、乗客のほとんどがこのやりとりに注目していた。
もちろん私も例外ではない。
独り身ではあるが、初老の女性がどうするのか、興味があった。
「よちよちよち。いい子ねー」
そう言いながら、初老の女性は赤ん坊の頭を右手でわしづかみにした。
そのまま、ぐいとひねる。
指の関節を鳴らすような、軽い ポキポキッ という音がした。
「クッ」と小さな声を上げ、赤ん坊は沈黙した。
息を詰めて見守っていた乗客の間に、「ほお~~~っ」というような空気が流れた。
緊張が解け、安堵感が広がってゆく。
「はい。これで大丈夫。がんばってね。お母さん♪」
初老の女性は、ぐんにゃりとなった赤ん坊を若い母親に手渡した。
「ありがとうございますう。おかげさまで助かりました」
赤ん坊を受け取りながら、若い母親は何度も頭を下げた。
そのとき、ちょうど若い母親の目的駅に着いたようで、車内のあちらこちらに頭を下げながら、下車していった。
初老の女性は満足げな笑みを浮かべ、若い母親に手を振った。
下車した若い母親は、ホームにあるダストボックスに、赤ん坊の死体を投げ込んだ。
若い母親が消えた後の車内には、暖かな感動が広がっていた。
まだまだ世間も捨てたものでもない……
車内の誰もがそう思っているようであった。
初夏の陽気のような優しさを乗せて、電車は次の駅へ向かった。
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朗読:ビストロ怪談倶楽部様