私──榊真理子のクラスの担任が、出産が近づいたため産休を取った。
学校からの「お知らせ」を聞くまでもなく、担任がいずれ産休を取ることはわかっていた。
「ホルスタイン」と称される胸と腹なので、ギリギリまで確信が持てなかったのも事実ではあるが。
当然、クラス内では担任教師を揶揄(やゆ)する言葉が飛び交った。
「あの牝牛(めうし)、30すぎて結婚したんだよね? 産めるうちに産んでおこうってハラかな」
「年食ってから結婚してエッチの『あじ』を覚えたから、ゴム無しでやりまくったんだろな」
「ダンナが気の毒だー」
「二人目でしょ? よくやるよね」
「あ、二人目じゃないよ。三人目三人目」
「うっそ。あたし入学してからずっと牝牛が担任だけど、ハラボテは2回目だよー」
「バスケ部の先輩から聞いたから間違いなし。おととしの担任が牝牛だったんだってよ。
そのときも産休取ったって、聞いたもん。先輩もさすがにあきれてた」
「ひやあ。ホントに三人目かあー」
「他に楽しみないのかねー」
……そんなこんなで、次に話題になるのは、臨時でやって来るのがどんな教師か、ということである。
臨時教師が到着するのは、6時間目が終わってからということであった。
私たちの期待はあっさりと裏切られ、やって来るのは女性らしい。
しかも、若いそうだ。
……大丈夫かなー。
たとえ臨時にしろ、若い先生に女子校はきっついんじゃないかなあ。
というわけで、クラス内はその日一日、気もそぞろであった。
6時間目が終わりに近づいた頃、教室前方のドアの外に、誰かが立つ気配がした。
(来たんじゃない? 牝牛の代理)
(来た来た。外に立ってるよ)
(さっさと終わらないかなあ。化学の授業なんて、誰も聞いてないのにさ)
「……さてと。代理の先生が到着されたようだから、ちょっと早いが終わろうか」
教室内に漂う『さっさと終わりやがれオーラ』を感じたのか、化学の教師が言った。
手早く教科書類を片づけ、教室を出る。
入れ替わりに、その臨時教師が入ってきた。
数瞬の間、私たちは無言だった。
……きれい……
そのわずかな間、おそらくクラスの誰もがそう感じたと思う。
服装は、ごく普通だった。
白いブラウス、紺のタイトスカート。ほどほどの高さのヒール。
学園マンガによくあるような、バカみたいにケバい格好というわけではない。
年齢は二十代半ばぐらいだろうか。
髪は肩より少し長いぐらいで、軽いウエーブのかかった濃い茶色であった。
きりっとしたつり目気味の大きな眼が印象的なぐらいで、全体に、ごく普通の若い女性教師と言った風情である。
それでも、言葉を発するのを忘れてしまうほどに、きれいだと感じたのだ。
すらりとした、それでいてきっちりと出るところは出たプロポーションがそう感じさせたのだろうか。
身長は私と同じぐらいか、少し高いというところか。170センチぐらいと見た。
ここが共学校か男子校だったら、今夜の男子生徒の「オカズ」は決まったようなものだな。
……って、私は「おやぢ」か?
その女性臨時教師は黒板に自分の名前を大きく書いて、生徒の方、すなわち私たちの方を向いた。
「産休を取られました浦沢先生に代わりまして、これからしばらくの間皆さんの担任となる、神代冴子です。担当教科も、浦沢先生と同じ国語です。どうぞよろしく」
臨時教師──神代先生は、そう言って頭を下げた。
一瞬遅れて、クラスの生徒がいっせいに拍手した。
「それでは、今日はごあいさつということで、これで終了します」
「起立」「礼」
生徒たちが礼をし、その後いっせいに帰り支度を始める。私も同様だった。
「えっと……榊さん。榊真理子さんはいますか?」
神代先生のその声で、帰り支度をしていたみんなの手が止まった。
私もまた、同様だった。
とまどいながら、返事をする。
「……はい」
「ああ、あなたが榊さん? あのね、悪いんだけどあとで第2会議室に来てもらえないかしら。
……大したことじゃないんだけど、ちょっと聞きたいことがあって。お願いね」
言うだけ言って、神代先生は教室を出て行った。
呆然としている私やクラスのみんなは置いてきぼりだ。
帰り支度の手を止めたまま、みんな神代先生が出て行った教室の戸を見つめていた。
「真理子……あんた、何したの」
クラスメートの一人が私に言って、その声で私も我に返った。
「ちょっと。人聞きの悪いこと言わないでよー。何もしてないわよー」
「いーや違うね。ヘタに隠し立てしないで、さっさとゲロした方がいいぜ?」
「いきなり呼び出しだもんねー。よっぽどのことじゃないとねー」
「知らないってばー」
そりゃもう大騒ぎ。
第2会議室の戸を恐る恐る開ける。
「……失礼しまーす」
長テーブルに着いていた神代先生が振り向き、ほほえんだ。
「わざわざごめんなさい。こちらに座って?」
言われるままに、長テーブルの角をはさんだ斜め向かい側に座る。
椅子にかけたとき、ふっと、いい香りがした。
神代先生の付けている香水だろうか。でも、香水とは違うような気もする。
「びっくりさせてごめんなさい。わざわざ来てもらったのは、実は学校のこととは関係ないの。
──榊さん。あなた、ちょっと前に怖い目に遭ったわよね? ほら、この近くで起きた殺人事件」
思ってもいない話題だったので、私はまたしてもとまどった。
(思い当たる話題があったのかというツッコミは無しだ)
わけがわからないながらも、私はうなずいた。
「そのときのことを聞かせてもらえない? まず……どういう風にあの殺人鬼と遭遇したの?」
で、私はあの朝のことを話した。
登校途中、住宅街の中をうろついていると悲鳴が聞こえ、声のほうに行くと、あの殺人鬼がいたこと。
殺人鬼が私に向かってきたとき、警官が発砲したこと。
「ふうん……。
ところで榊さん。あなたは星龍学園前駅から学校に通ってるわよね?
通り道とは言っても、住宅街の中に入るというのは、なんか妙な気がするけど?」
「それは……犯人が住んでいた家を見ようと思って……」
「『家を見ようと』って、あなたがそう考えた時点で、事件のことは知らなかったわけでしょ? なのにどうしてわざわざそこへ?」
神代先生の疑問はもっともだった。
私は「塩の家」に対して感じた、そもそもの疑問から話した。
「塀にずらりと置かれた塩、ね。確かに奇妙だわ。
……でも、どうしてそれが『結界』だと思ったの?
ちょっと飛躍しすぎじゃないかしら。あなたはそういうことに詳しいの?」
「それは……なんとなく、です」
「あらそう……」
神代先生は首をかしげ、続けた。
「犯人の名前は知ってる?」
「あとでニュースで見ました。『あしや』とか……って」
「そう。こういう字ね」
言いながら、神代先生は自分の手帳に「芦屋」と書いた。
「でも、本当はこう書くの」
今度は、手帳に「蘆屋」と書いた。
「どう? なんかピンと来ない?」
今度は私が首をかしげる。ピンと来ないかと言われてもなー。
「あそこは、もともと蘆屋道満(あしやどうまん)という陰陽師の血筋だったのよ。陰陽師って、知ってる?」
「聞いたことあります。てゆーか、映画にもなったし」
「ああそうか。ちょっとしたブームにもなったものね。
……でね、榊さん。犯人を撃った警官だけど、あなたが呼んだの?」
「とんでもないですー。そんな余裕なんてありません」
私は激しく首を横に振った。
「でしょうね。……でもね。だとすると、ちょっとタイミングが良すぎると思わない?
朝、あんな住宅街の中を、普通、制服警官が巡回なんてしないわよ。
──ね? おかしいでしょ?」
おかしいだろって言われても、事実そうだったんだもんな。
内心ではそうぼやいたものの、神代先生の疑問ももっともではあるので、私は何も言わず、ただ困ったような顔をした。
「……でね。事件の後、あの家は更地になったわけだけど」
神代先生は話題を少し変えた。
「あの家の周辺で、気味の悪いことがあったりしたんだけど、それは知ってる?」
「うわさでは聞きました」
「それが、今はそういう話を全く聞かないというのは?」
私はうなずいて、神代先生の話を肯定した。
「それもまた奇妙な話よね。霊能力者と称する連中がお祓いをしたわけでもないし、もしあのままうわさが広まったら、あの住宅街は大騒ぎになったはずだわ。
一過性のブームというには、うわさの広まりと収束があまりにも急なの」
ここで、神代先生は私に顔を寄せた。
「まるで、誰かが何かしたとしか思えないのよね」
「誰かがデマを流したってことですか?」
「ううん、その逆。誰かが、うわさがうわさであるうちに、うわさの元を封印したってことなのよ」
私は内心、 (゚д゚)ハァ? であった。
「もちろん、そんなことができる人間なんて、そうはいないわ。……でね、榊さん」
神代先生は、さらに私に顔を近づけ、ささやくように言った。
「あなた、誰がそんなことをしたか、知っているんじゃない? それとも、もしかしたら、あなたがやったの?」
……もしかして私は、何か問いつめられているんだろうか。
でも私、そんなオカルトマンガみたいな能力はないぞ。
答えようのない質問に私が困り果てていたそのとき、戸が遠慮がちにノックされ、ガラガラと開かれた。
私と神代先生は、同時に入り口を見た。
入り口に立っていたのは、黒神由貴だった。
「神代先生。教頭先生がお呼びになってますけど……」
「あ、はい、わかりました。ありがとう。
──いけない、もうこんな時間だ。
ごめんなさいね榊さん、長々と引き留めちゃって。どうもありがとう。
また話を聞かせてもらうかもしれないけど、今日は帰ってね。それじゃ」
神代先生はそそくさと第2会議室を出て行った。
入れ替わりに入ってきた黒神由貴から私の通学鞄を受け取り、私たちも会議室を出た。
「くろかみー、感謝。なんかわけのわからないこと言われてさあ。困ってたんだー」
「シェイク一杯でどお?」
そう言って、黒神由貴はニヤッと笑った。
廊下の向こう、カツカツとヒールの音高く、教頭室へ向かう神代先生の後ろ姿が見えた。
その姿を見ながら、黒神由貴がすっと右手を挙げた。
手刀みたいにそろえた指先を、神代先生の後ろ姿に向けて、何かを送るように振った。
私は、黒神の目が鋭くなっているのに気づいた。
ん。
私は思わず目をこすった。
黒神由貴が手を振ると、その手のあたりから神代先生の方に向けて、何かもやもやとしたよく見えない「もの」が飛んでいくのが見えた。……ような気がした。
もやもやが神代先生のあたりまで行くと、突然神代先生がふらつき、壁に左手をついた。
神代先生は右手でショルダーバックの中を探り、何か金色に光る、尖った物を取り出した。
それをくるくるとバトン・トワリングのように回して持ち直し、横、縦、横、縦……と何回か動かすと、「もやもや」はふわっと散るように、見えなくなった。
「九字……!」
黒神由貴がぽつりと言った。
続いて神代先生は、金色に尖る物の先端を、こつんと壁に当てた。
同時に、校舎が轟音をたてて揺れた。
あまりの衝撃に立っていられず、私は廊下にへたり込んでしまった。
(地震? 飛行機が落ちた? トラックが突っ込んだ?)
パニクりかけている私の手を取り、黒神由貴が立たせてくれた。
「ね、今、今、すっごい揺れたよね?」
「大丈夫? もう帰りましょ」
ふと神代先生のことを思い出し、廊下を振り返った。
神代先生の周りにさっきの「もやもや」は既に無く、先生は何事もなかったかのように遠ざかって行った。
校舎を出てしばらくした頃、黒神由貴が言った。
「……さっきの揺れだけどね」
「うんうん。すっごく揺れたよねー。なんだったんだろ、あれ」
「あれ、人には言わない方がいいと思う。多分どこもぴくっとも揺れてないはずだから」
「だあって! あんなに揺れたじゃない! あたし、立ってられなかったんだから!」
「いいから」
いつになくぶっきらぼうな調子で、黒神由貴は言った。
心ここにあらずといった感じだ。
「真言密教か……」
また、黒神由貴はつぶやいた。
その意味を問うことは、私にはできなかった。
声をかけにくい雰囲気が、今の黒神由貴にはあった。
本人は自覚していないだろうが、ずっと、例の鋭い目のままなのだ。
そのとき、ふっと気づいた。
神代先生から漂っていたあの香り。
あれは香水ではない。
お香だ。
それもかなり高級な。
ともあれ、今日はっきりしたことが一つ。
神代先生なんて嫌いだ。