黒神由貴シリーズ

観月会のできごと


「お月見?」

 思わず私は声を上げた。

「『かんげつえ』って、お月見のことなの?」

「そうよ。『観る』『月の』『会』って書くでしょ」

 何を驚いているのかと言いたそうな顔で、黒神由貴が言った。

「なんだと思ったの?」

 黒神由貴は不思議そうな顔で、さらに言った。

「いや、ほら、こないだの慈光電機の件で、お祖母様に呼び出しを食らったと思って……」

 ここでついに黒神由貴が吹き出した。キャッキャと笑いながら、私の肩をバンバン叩きながら、

「そんなわけないじゃないの。今度の週末、天気もよさそうなんで、神代先生も招待して観月会をしようって」

「そうかあー」

 私はほっと肩をなで下ろした。──と、黒神由貴がポツリと言った。

「あーでも、あのとき真理子が出した不思議な技とか、八咫烏のことは訊かれるかも……」

 なんでそういう風に人を不安におとしいれるかなあ!



 で、当日。
 夕方6時に、黒神由貴のお母さんが我が家まで車で来てくれた。むろん黒神由貴もいる。
 ちょっとうちによってもらおうかと思ったのだが、約束時間に遅れ気味ということで、私が乗り込むとすぐに出発となった。
 以前、黒神由貴の家にお泊まりしたとき、すれ違うようにして顔を合わしただけだったので、黒神由貴のお母さんはここぞとばかりに、「いつもお世話に」とか「仲良くしていただいて」とかを並べ立てた。
 この前は黒神由貴は照れ隠しにお母さんをエレベーターに押し込んでしまったが、車に乗っている今日はそうもいかず、半ばあきらめ顔だ。
 やがて車は黒神神社に到着し、黒神由貴のお母さんは神社隣の黒神邸玄関前の広い駐車スペースへ乗り入れた。駐車スペースには、すでに先客の車が停められていた。
 国産スポーツカー、HONDAのS2000だ。

「神代先生、もう来てるみたい」

 車から降りながら、私は言った。黒神由貴もうなずく。

「さあ行きましょうか」

 黒神由貴のお母さんは言って、私たちは黒神邸に入った。

「お母様。早苗です」

 黒神由貴のお母さんが奥に向かって声をかけると、ドスドスと、心なしか荒っぽい足音が近づいてきた。

「遅いよ。何してたの。おかげで私が手伝わされるはめになっちゃったじゃないの」

 足音の主は神代先生だった。
 神代先生の姿を見て、私は笑いが浮かぶのを抑えきれなかった。

「先生。エプロン似合ってません」

 神代先生は、明らかに高級品とわかるデザイナーズ・ブランドのスーツに、花模様があしらわれた可愛いエプロンを着けていた。

「うっさいな。そんなの本人が一番わかってるわよ」

 神代先生はそう言って、回れ右して奥へと向かった。
 通されたのは、何度か来たことのある拝殿の間ではなく、客間であった。中央に大きな座卓があり、大きなお弁当箱が並べられていた。お弁当箱というか、30センチ四方はある会席弁当だった。

 「はいはいはい。どこでもいいからさっさと座って。上座は黒の婆さんが座るから空けといて」

 そう言いながら、神代先生がお吸い物の椀を席に置いてゆき、並べ終えると、そのまま席に着いた。
 私たちが席に着くと、お祖母様が登場し、上座に着いた。
 座卓の長手方向に、黒神由貴と黒神由貴のお母さん、その向かい側に私と神代先生という位置関係、そして上座にお祖母様が座った。お祖母様はいつも通り、ピシッと和服を着こなしている。

「本日はようこそ。お食事がデリバリーの間に合わせでもうしわけございません」

 いえいえいえ、本日はお招きいただき、と私たちも頭を下げる。冷めないうちにということで、まずは食事をいただくことに。
 食事しながら、四方山話に花が咲いた。
 席に着いているメンツが、お祖母様をはじめとする「それなりの人」ばかりだから、いきおい話題はそっち方面になる。この中で、黒神由貴のお母さんだけがどの程度わかっている人なのかがわからなかったので私は聞き役に徹していたのだが、交わす会話の内容から察するに、黒神由貴のお母さんもお祖母様や黒神由貴に勝るとも劣らない人らしいとわかった。

「……そう言えば、榊さんは最近、うちの由貴の影響で見えるようになったり、守護神鳥ができたとか、なんだか妙なことに巻き込んでしまってもうしわけありませんね」

 黒神由貴のお母さんがそう言って、頭を下げた。海老天をかじっていた私は、あわててそれを飲み込んで、同じように頭を下げる。

「とんでもないです。私の方こそ、くろかみや神代先生がいなかったら危なかったことが何度もあって」

「そうでした。神代先生にも、いつも手助けをしていただいていて、なんとお礼を申し上げたらいいか」

 黒神由貴のお母さんが続いて神代先生にも頭を下げて礼を述べたので、神代先生も若干あわて気味に、「いえこちらこそ」と頭を下げた。
 いつもの神代先生だったら、私や黒神由貴、ひょっとしたらお祖母様にも「わかってるなら、もっと感謝しろ」と言いそうだが、黒神由貴のお母さん相手だと、さすがにちょっと勝手が違うようだ。

 これまでに私たちや神代先生が関わった事件を話題にしつつ、食事は終わった。頃合いを見計らい、黒神由貴のお母さんが、「それでは外の用意を」と立ち上がった。どうやら、このあとのお月見は外でやるらしい。



 黒神由貴のお母さんに「それでは、観月会の準備が整いましたので、庭へどうぞ」と案内されたのは、黒神邸の中庭だった。てか、中庭という言い方でいいんだろうか。小ぶりな児童公園と言っても通用しそうな広さだ。黒神邸を囲む塀があるので、四角い形をしている。
 手入れの行き届いた庭木がバランスよく植えられ、地面には芝生。
 黒神邸から見て左手の隅に、神社らしく小さなお社がある。一方その右手、反対側の隅に、奇妙なものがあった。
 両手で抱えるほどのサイズの岩をアーチ状に積み上げて、何かの入口のようにしている。ぱっと見は洞窟の入口かトンネルの入口のように見える。
 もちろんトンネルであるはずがない。岩が積み上げられているのは、コンクリート製の塀のすぐ手前なのだから。実際、塀が見えているし。
 なんなんだろうな。何か黒神神社とか神道に関係するものなんだろうか。
 そんな庭の中央に、緋毛氈がかけられた縁台が二つ、平行に並べられて置かれている。縁台の一つには小さな座布団が五つ、もう一つの縁台には、敷紙が敷かれたお盆が五つ、並べられている。

「ああそうか。今日はあれか」

 縁台に腰を下ろしながら、神代先生が言った。

「そういうことです。たまにこういうものを見ておくのもよろしいでしょう」

 お祖母様が答える。
 なんのこっちゃ。と、私は頭の周りを?マークが飛び交う状態で黒神由貴の顔を見る。
 黒神由貴は、

「見てればわかるから。別に怖くはないから大丈夫だよ」

 と言った。
 そうなんだ。と納得しかけて、私は息を呑んだ。
 ちょっと待て。「怖くはない」ってなんだ。
 何かあるのか?
 何か出るのか?
 ただのお月見ではなかったということか。
 それってどういうこと、と黒神由貴に訊こうとしたが、黒神由貴は縁台には座らずに、家の中に戻っていった。お母さんの手伝いをするんだろう。
 黒神由貴のお母さんと黒神由貴がお茶とお茶菓子を持ってやってきて、席に並べ終えると、自らも席に着いた。

「いいお月様ですねえ」

 空を見上げ、ほどよい温度に淹れられた煎茶を飲みつつ、黒神由貴のお母さんがおっとりと言った。
 縁台に座る私たちの真正面の空に、絵に描いたような満月が昇っていた。
 しばし、無言でお月様を眺める。確かに、たまにはいいものだなあ。神代先生が「酒があればもっといいんだけどなー」とつぶやくのが聞こえたが、みんな聞こえないふりをした。

「お母様。そろそろではないですか」

「そうですね」

 月を見上げながら黒神由貴のお母さんが言い、お祖母様が答えた。

「真理子。お月様をよく見てて」

 私の横に座る黒神由貴が、ささやいた。

「えっなに。何があるの」

 意味がわからず、私は黒神由貴とお月様を交互に見る。

「ほらあれ」

 黒神由貴がお月様を指さした。言われるままに、お月様を見つめる。

「別に何も……きれいな満月で……え、あれ?」

 最初はわからなかった。
 お月様の真ん中あたりに、何か黒い点が見えた。その黒い点が、みるみる大きくなってきた。
 雲ではない。お月様の真ん中以外に、それらしいものは見あたらないし、雲よりももっと黒っぽい感じだ。誰かが墨でお月様を塗りつぶそうとしているようにも見える。言うまでもなく、月食でもない。真ん中から欠けていくような月食があるものか。
 不思議なのは、月食のようにお月様がどんどん消えていくにもかかわらず、庭は月明かりで明るいままなのだ。だからこれは、本当にお月様が消えているわけではないのかも、と私は思った。
 やがてお月様が完全に塗りつぶされた。
 真っ黒になったお月様を呆然と眺めている私の肩を、黒神由貴がつついた。

「あっち見て」

 黒神由貴が指さす先を見る。黒神邸から見て右手方向にある、あの、岩を積み上げた、目的不明のトンネルの入口みたいなの。
 その入口が、すぐ向こうにコンクリートの塀が見えていたはずの岩積みの奥が、ぼうっと白い光を放っていた。
 その白い光の向こうから、何かが出てくるのがわかった。霧に包まれているような、光が強すぎてハレーションを起こしているような、そんな中から現れたものも、やはり白く光っていた。
 ふわふわと漂っているそれは、形ははっきりしない。モヤモヤと動いて、絶えず形が変わっている。その状態で白く光っているので、なおのこと全容がはっきりしない。
 そんなわけのわからないものがトンネル入口から出てきて、ふわふわと漂いながら私たちの前を横切って、左手にある小さな社の前まで来ると、シュルシュルと小さくなって、お社の中に消えていった。

「次も来るよ」

 再び黒神由貴が右手のトンネル入口を示す。
 次に白い光の奥から出てきたのは、さっきとは真逆の、黒いものだった。
 それは、黒いものとしか言えない。煙のように輪郭がぼやけているが、手で触れるとはっきりとわかるのではないかと思えるほどに、存在感がある。
 その黒いものも、さっきの白いモヤモヤと同じようにお社の前にたどり着くと、お社の中に消えていった。

「次」

 今度出てきたのは、水だった。
 いや水じゃない。水じゃないのはわかるんだが、水としか言えない。あえて別の言い方をするのなら、中にアンコが入っていないくず饅頭。ブルブルと震える、ゼリー状の固まり。そんなのだ。
 そんなのが、白い光の奥から、のたのたと這いずってきた。
 お社の前まで来て、お社の中に消える。

 トンネル入口の白い光の中から出てくるのは、そういう不定形のものばかりではなかった。
 巨大な蛇もいたし、巨大な亀も、巨大なムカデもいた。見たこともない鳥、虎、ライオン──というか狛犬みたいなの、そんなのが、トンネル入口の白い光の中から、あとからあとから、ぞろぞろと出てくるのだった。
 トンネルから出てくるものみんな、私たちの前を横切っていくだけで、こちらをチラリとも見ないので、私もしまいにはテニスのラリーを見るように首を左右に動かすだけになってしまっていた。
 また巨大な蛇が出てきた。と思ったが、その蛇には足があった。頭も蛇のようにつるんとしていなくて、ツノと、長い一本ヒゲが一対、生えていた。要するにそれは、龍だった。
 これまでと同じように私たちの前をのしのしと横切って、私たちの前まで来たところで立ち止まり、私たちをじっと見つめた。しばらくそうしていて、やがて顔を進行方向に戻して、またのしのしと歩き、お社の中に消えていった。

「今ので終わり」

 黒神由貴がささやいて、空を見上げた。
 つられて私も見上げると、黒く塗りつぶされていたはずのお月様は、元の満月に戻っていた。

「お疲れさまでした。観月会はとどこおりなく終わりました」

 お祖母様が言って、頭を下げた。黒神由貴、黒神由貴のお母さん、神代先生、みんな「お疲れさまでした」と頭を下げた。私だけが意味がわからずにキョロキョロしていて、バカ丸出しだ。



 庭の縁台とか緋毛氈、お茶碗をみんなで片付けて、すべて終わったところで再び客間に集まり、お疲れさまのお茶タイムとなった。

「……お母様。先ほどから、真理子さんがいろいろ訊きたくてウズウズされているようですけれど」

 黒神由貴のお母さんが笑いを浮かべながら言った。それを聞いて、黒神由貴や神代先生も笑う。

「何を訊きたいのです?」

 と、お祖母様も笑った。わかってるくせに。

「お月様が真っ黒になって、さっきの、あの、トンネル入口みたいなのからなんか変なのがゾロゾロ出てきて、目の前を横切って、お社の中に消えていったあれって、いったい、あの」

「それがわかったというのは、やはり大したものですねえ、真理子さん。来ていただいて正解でした」

 お祖母様は、感に堪えぬというように、顔を左右に動かした。

「普通の人は、何もわからなかったはずですよ。月も満月のままに見えていたはずです」

「やっぱり素質があったんだろうなあ」

 神代先生がポツリと言う。

「あれは、黒神神社で昔からおこなっている神事でしてね。年に一度、秋の満月の夜に、あのように岩戸から出てきて社の中に入ってゆく、それを私どもが見届ける役目を担っておりますの」

「あれは……お化けなんですか」

 私の質問があまりに俗物的だったのか、お祖母様は一瞬目を見開いた。

「お化けではなく、まあ、聖なるものですわね。守護神だったり、神聖なものだったり、様々ですが」

「岩戸……あのトンネル入口みたいなのは、どこかにつながっているんですか」

「宗教的な言い方をするなら、『常世』ということになりますね」

 正直、お祖母様に説明の8割ぐらいは理解不能だった。
 観月会が終わって帰る前に、私は庭のトンネル入口のそばに行き、中に見える塀に手を触れてみた。
 ペタペタと何度触っても、それは普通のコンクリートの塀だった。

 帰りも、来た時と同様に黒神由貴のお母さんが運転する車で、家まで送ってもらった。
 ひと言ご挨拶を、と黒神由貴のお母さんが言ったのだが、私は何か気恥ずかしくて、「いえ今日はここまでで」と、家の前でお別れした。
 まあ、いいお月様だったし、ご飯もすごく美味しかったし、いい日だったんじゃないかな?


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