明かり一つない岩浜で、そいつはゆっくりとぼくに近づいてきた。岩場に仰向けになって頭だけを少し起こした格好で、ぼくは数メートル先にいるそいつを見つめていた。
ああ。渡船の船長が言っていたのは、これのことだったのだ。
「もしものときのために、弁当は少し残しておいた方がええで」
船を下りるとき、船長はそう言った。今にして思えば、もう少し切迫感のある言いようはなかったのか。
「イソガキが出たら、それをやりゃええ」
それを聞いたとき、岩牡蠣のことをこのあたりではそう言うのか、美味いのだろうか、などとのんきなことを思った。
昨日の夕刻、夜釣りとしゃれ込んで、港近くの孤島へ渡船で渡った。孤島とは名ばかりの単なる大きめの岩礁なのだが、これがなかなかの良漁場という評判だった。
島に渡る前に港の定食屋で夕食を取り、零時を回る頃に、コンビニで買っておいた巻き寿司を食べた。
巻き寿司を食べて小一時間ほどした頃、妙に腹が減っているのを自覚した。いや、ついさっき食べたばかりではないか。満腹になるほどの分量ではなかったが、小腹を満たす程度には食べたはずだ。
きゅうっ、と胃が引き絞られるように痛んだ。食あたりの痛みではなかった。
おかしい、と折りたたみ椅子から立ち上がろうとしたが、ふらついて岩場に倒れ込んでしまった。全身に力が入らない。
なんだ。自分に何が起こっているのだ。
ぴちゃり、と波の音とは異なる音が耳に入り、そちらに目をやった。波が打ち寄せるあたりに、ぼんやりと光る、人の形をしたものがいた。
それが磯餓鬼だった。
なけなしの知識を探る。食べ物。何か食べ物を与えれば。だめだ何もない。弁当は平らげた。釣り上げた魚はどうだ。さばいて刺身に。いや包丁も何も持ってきていない。焼き魚にしようにも、火の気はない。
携帯で助けを呼ぼうにも、手が震えて、コールどころか携帯を手に取ることもできない。迎えの船が来るのは夜が明けてからだ。
磯餓鬼がさらに距離を縮めてくる。
起き上がって逃げるだけの体力は、すでになくなっていた。身体をよじり、うつぶせになって這いずった。
──胸ポケットに違和感があった。
取り出してみる。暗くてわからないが、手触りは何か小袋に入ったつぶつぶの……
その小袋が何か思い出した瞬間、ぼくはそれを磯餓鬼に投げつけていた。磯餓鬼がそれをむさぼり喰う音が聞こえた。
磯餓鬼の気配が消え、ぼくは明け方にやってきた迎えの渡船に拾われ、港に戻った。
ぼくを救ったのは、コンビニで巻き寿司を買ったときにオマケでもらった、試供品のバターピーナッツであった。