黒神由貴シリーズ

ママと母親が出会ったら


母親帰宅

 家に帰ると、誰もいなかった。
 星龍学園から帰ってくるこの時間、母親はすでに買い物を済ませて戻っているはずだったが、今日はまだのようだった。
 珍しいこともあるなと思いつつ、自分の部屋に入ってラフな部屋着に着替え、ダイニングに戻って何かおやつでもないかと探していると、母親が帰ってきた。

「あら真理子、もう帰ってたの」

 買い物用のエコバッグを提げて、母親がダイニングに入ってきた。

「時間かかってたね。お店が混んでたの?」

 私がそう訊くと、母親は微妙な顔をした。

「ううん、買い物はいつも通りだったんだけどね。なんか不思議なことがあってね……」

 母親の物言いに、私は内心で首をかしげた。
 どんなことであれ、母親の琴線に触れるような出来事があって、それを目撃するか聞くかしたら、こんな風ではないはずだ。息せき切って、帰って来るなり「ねえねえねえ真理子真理子真理子、すごいの見ちゃった!」とかなんとか、そんな感じになるはずだ。

「なんかあったの?」

 いつもとは違う母親の様子が不思議で、私はさらに訊いた。

「えっとね……」

 母親が語り始めた。


ママ帰宅

 黒神由貴が自宅に帰ると、誰もいなかった。
 いつもなら、買い物を済ませたママが、夕食の準備を始めている頃なのに。
 自室に入って着替えていると、玄関ドアが開く音がした。
 ダイニングに行くと、ママが買い物袋をテーブルに置くところであった。

「あら由貴、もう帰ってたの」

 黒神由貴に気づき、ママが言った。

「時間かかってたの? お店が混んでた?」

 黒神由貴が訊くと、ママは笑いながら、

「そうじゃなくてね、買い物していたらややこしいことになっちゃって」

 あー、と黒神由貴は思った。ママがこんな言い方をするということは、事故にしろ何か騒動にしろ、「通常レベルの出来事」ではなかったということだ。

「もう解決したの?」

 ママだったらたいていのことは大丈夫とわかっている黒神由貴は、口元に笑いを浮かべながら訊いた。

「うん。それは大丈夫。ただね、ママ一人だったらよかったんだけど、よその奥様がいらしたので、ちょっとあせっちゃった」

「へー」

 黒神由貴が目を丸くする。

「えっとね……」

 買い物袋から商品を取り出しながら、ママが話し始めた。






母親の話1

 その日、母親はいつも利用する近所のスーパーではなく、電車で数駅のところにある、比較的大きなスーパーにいた。特にそのスーパーが目的だったわけではなく、別件で出かけて、用事が済んだところでそのスーパーに気づき、ついでに買い物して帰ろうと思い立ったのだった。
 スーパーに入るとき、母親は何気なく空を見上げた。

──妙に薄暗い。

 別に曇っているわけでもないのに、何か違う。早朝か日暮れか、とにかく満足に陽が照っていないような薄暗さだ。
 でも晴れている。陽もちゃんと照っている。

(変なの)

 なんでこんなに暗いんだろうと空を見上げていた母親は、ふと、何かが空で動いたような気がした。
 ヘリとか飛行機とか、そんなのが遠く小さく見えたのではない。
 何かが空で動いたのではなく、あえて言うなら、空が動いたように思えたのだ。

(んなわけないよね)

 奇妙に思いつつも、そのまま店内に入る。
 夕食メニューはすでに考えていて携帯にメモってあるので、買い漏らしすることはない。見たところ近所のスーパーと大きく売値も変わらないようだ。
 支払いを終え、サッカー台でエコバッグに移し替える。
 さあ帰るか、と外へ出る。
 外へ出て、絶句した。固まった。

 空が真っ暗になっていた。

 つい買い物に時間を取られて、日が暮れてしまったか。
 腕時計を見る。2時半。真理子が学校から帰ってくる時間まで、まだ充分ある。
 そして母親は気づく。これは日が暮れてしまった暗さではない。
 雨が降りそうな暗さでもない。
 空は黒かった。空全面に墨でも流したように、真っ黒になっていた。
 なのに、あたりは薄曇りぐらいには明るい。
 どういうことなんだろう。
 それでも、「早く帰らないと」という意識が働き、駅へ向かって歩き出す。周辺にいる人たちも、何が起きているのかという顔で、空を見上げたり、あたりを見回したりしている。
 そんな人々の中に、自分よりもかなり若いと思われる女性が、空を見上げて立ち尽くしているのが目に入った。
 突然の、この空の状況におびえているのだろうか。
 自分と同じように、ここで買い物したあとらしく、手にスーパーの袋を提げている。ごく普通の普段着姿だか、上品な身なりだ。どこかの若奥様といった風情であった。

「どうされました?」

 その女性の背中に声をかけようとしたとき、暗黒の空が裂けた。
 同時に、背中を向けている女性が空の裂け目に向けて両手を突き出し、「はあっ!」と叫んだ。


ママの話1

「えー、そんなことがあったの」

 黒神家のダイニング。
 マグカップの紅茶を飲みながら、黒神由貴が言った。

「いきなりだからびっくりしちゃった。買い物中だったから、呪符や護符なんて持ってないしね」

 こちらも紅茶を飲みながら、ママが答える。

「『虚空鬼(こくうき)』だったのかな?」

「たぶんねー。たまたま何かのはずみで、そこに出てきたんじゃないかしら。でもそのときは、なんなのか、ゆっくり考えてる暇がなくって」



 ママは印を結び、気を放った。
 これでしばらくは時間が稼げる。これをすると周辺の人の意識も10分ぐらいは飛んでしまうが、今はむしろ好都合だろう。その間に呪符を書いて、虚空鬼をなんとか排除できれば。
 そう考えたママだったが、「あのう」と背後から声をかけられて、飛び上がった。
 あわてて振り返る。
 ちょっとふっくらした、主婦らしき中年女性が立っていた。自分が急に振り返ったので驚いたのか、びっくりした目で固まっている。

「あの、大丈夫ですか?」

 女性は言った。それで、この女性が自分のことを心配してくれているのだとわかった。
 そうか。気を放ったとき、この女性は自分のすぐそばにいたから、気の影響を受けなかったのだ。

「あの、いったい、何があったんでしょう? なんか周りにいる人、みんなどうかなってしまったようだし、空が……」

 そう言って女性は空を見上げた。ママも空を見上げる。
 裂けた空、その裂け目の向こう側は、毒々しい赤だった。空にできた切り傷。
 その傷口から、血が流れ出した。
 否。
 異界の存在、ママや黒神由貴が「虚空鬼」と呼ぶものであった。
 虚空鬼は決まった形を持っていない。
 空の裂け目からズルズルと出てくる虚空鬼は、腹からあふれ出す臓器のようにも見えた。見ていて気持ちのいいものではない。

「奥様、こっちへ!」

 ママは女性の手をつかむと、スーパーの中に駆け込んだ。
 スーパーの中は静かだった。大勢いるお客は、倒れてこそいないが、どろんとした目をして、棒のように突っ立っている。
 ママは女性をサッカー台まで連れて行き、身をかがませた。

「奥様。しばらくここにいてください。私が戻るまで、身動きしないで。よろしいですね」

 ママの勢いに飲まれたのか、女性はこくこくとうなずいた。

「あのでも奥さん。奥さんはどうされるんですか」

 女性はママに訊いた。

「私は大丈夫です。あれをなんとかしたら、すぐに戻りますので」

 言いながら、ママはレシートの裏に呪符の文様を書き綴った。






母親の話2

「その女の人、レシートの裏に何を書いたの?」

 私が訊くと、母親は肩をすくめた。

「わかんない。字だか絵だかよくわからない、変な呪文みたいな。それをあわてて書いたら、またスーパーの外に出て行って」

「呪文……?」

 私は首をかしげた。



 スーパーの外へ出て行った女性は、スーパー前の車道まで出て、そこで立ち止まった。普通ならそこを行き来しているはずの車も、すべて止まっていた。動いているのはその女性と、母親だけだった。
 母親はサッカー台の影から身を乗り出して、空の裂け目を見た。
 形のはっきりしない、真っ赤な色のグニャグニャしたものが空の裂け目からあふれ出て、道路の上に盛り上がりつつあった。
 女性はその気味悪い化け物の前に立ち、何度か指を組み合わせた。何か声を出したのかもしれないが、母親のいる場所からはわからなかった。
 やがて女性は手を振り上げて、サイドスローの形で、何かを投げるポーズをした。いや、ポーズではなく、さっき何か書いたレシートを投げたのだと気づいた。
 レシートはひらひらと漂うでもなく、まっすぐに化け物に向けて飛んで行った。レシートが化け物に当たる寸前、女性はまた「はあっ!」と叫んで、右手を突き出した。つきだした右手は、人差し指と中指が真っ直ぐ伸びて、あとの指は固く閉じられていた。
 レシートがパッと散って、細かな紙吹雪状になり、化け物の周囲を取り囲んだかと思うと、化け物がみるみる縮んでいった。空気が抜けていく風船のように小さくなって、やがて化け物の姿は見えなくなった。
 ふと見ると、空の裂け目も閉じていくところだった。
 そこまで見たところで、母親はスーパーを出て、女性の元に駆けよった。

「奥さん、大丈夫ですか?」


ママの話2

「とっさに、よくそんなむずかしい退魔呪符が書けたねー。さすがママ」

 黒神由貴がそう言って笑うと、ママはちょっと得意げな顔をした。

「昔取った杵柄というやつね」



 なんとか虚空鬼を異界に戻すことができてほっとしているところに、女性が駆けよってきた。

「奥さん、大丈夫ですか?」

「ありがとうございます。おかげさまで、うまくいきました」

「あの、とりあえず、これ」

 女性はママが買い物したスーパーの袋を手渡してきた。

「まあ。ありがとうございます。私ったら、うっかり置きっぱなしにしちゃって。これを持って帰らなかったら御夕食ができなくて、娘に怒られるところでしたわ」

「お嬢さんがいらっしゃるんですか。もう大きいんですか? 小学生の高学年ぐらい?」

 女性が言った言葉を聞いて、思わずママは笑ってしまった。

「いーえー。もう高校生ですの。一人っ子なもので、わがままで」

「そんなに大きなお嬢さんがいらっしゃるようには見えませんわあ。うちも下の娘が高校生なんです」

「まあ奇遇ですこと。機会があれば、娘も連れて、お茶でもご一緒したいですわね」

「えー、本当に」

 そのとき、周囲が明るくなってきたことに、ママも女性も気づいた。見上げると、墨を流したように真っ黒だった空は、ごく普通の晴天の空に戻っていた。

「あ、もうこんな時間。もうしわけありません、もう娘が学校から戻ってきますので、帰りませんと。失礼いたします」

 虚空鬼の退魔行に時間を取られたママは、挨拶もそこそこにその場を立ち去った。
 ママが放った気のために意識が飛んでいた人々が、我に戻りつつあった。長居は無用であった。


母親の話3

「……で、結局その奥さんの連絡先とか、聞けずじまい。見た目はおっとりしているようだけど、案外ウッカリさんなのかも」

「高校生の子供がいるようには見えない、若い奥さんだったんだ」

「うん。助けてもらったお礼にお茶でもと思ったんだけど、一方的にしゃべって、あっという間もなく帰っちゃって。どこの誰だかわからないから、お礼の言いようもないよね」

「また偶然会うこともないかな」

「どうだろー。ご近所ならともかく、たまたま出かけた先で会った人だから」

「そっかー。じゃあ仕方ないね」

 私は言って、母親の湯飲みにお茶を注いだ。
 ふーふーと熱いお茶に息を吹きかけて冷ましていた母親が、ふいに「あ!」と声を上げた。

「どうしたの」

「その奥さん、なーんかどっかで見たような雰囲気だなあと思っていたのよ。思い出した。あんたがしょっちゅう連れてくる黒神由貴さん。あの子にそっくりだったのよ。話し方とか雰囲気とか」

 私はとっさに返事ができないでいた。
 母親の話を聞いている間にずっと頭に浮かんでいたのは、黒神由貴のお母さんのイメージだったのだ。母親はわかっていないようだが、その場で書いたのは、どうも呪符っぽいし。

(もしかしたら、その人って……)

 明日学校に行ったら、黒神由貴に訊いてみよう。


ママの話3

「えー、携帯の番号とかメルアドとか、言うの忘れてたの」

 黒神由貴はあきれて言った。

「だってー」

 と、ママは口を尖らせる。

「早く帰って夕飯の準備をしないとって思って。由貴だって、遅くなったらむくれるじゃない」

「そんなことないもん」

 ほおをふくらましながら言った黒神由貴だったが、ママが語るその中年女性のイメージと、実際に黒神由貴が知っている、ある女性のイメージが重なっていた。

(真理子のお母さんみたいな人だな……)

 明日、星龍学園に行ったら真理子に訊いてみよう。



 そして翌日、お互いの話をすりあわせた私と黒神由貴は真相を知ることになり、教室内で爆笑して、クラスメートたちから注目を浴びることになる。

「こないだの観月会のとき、やっぱりうちに入ってもらったらよかったね。だったらこんなややこしいことにならなかったのに」

 私が言うと、黒神由貴もうなずいて、笑った。笑いすぎて涙さえ浮かべている。

「ほんとよねー」







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