黒神由貴シリーズ

冥婚 3


8.外法絵馬(げほうえま)

 翌朝。
 琴美は本当に久しぶりにぐっすりと眠り、そして、すがすがしい朝を迎えた。
 このところずっと、いやな夢を見ることが多かったのだ。
 自覚してはいないが、おそらくうなされてもいただろう。

 昨日の夜、でん姉は琴美をいつも寝ているベッドではなく、部屋の真ん中に布団を敷かせ、部屋の四隅に盛り塩をした。
 でん姉自身はその横で結跏趺坐(けっかふざ)の体勢を取り、香を焚いた。本来ならばきちんとした香炉を使うべきところではあったが、間に合わせとして小鉢を使った。
 結局、でん姉はそのまま徹夜したようであった。
 あった、というのは、琴美自身は床に入ると間もなく寝入ってしまったからであった。

「……あたしが寝てる間、何かありました?」

 朝食代わりにインスタントのポタージュ・スープとコーヒーを飲みながら琴美が訊くと、でん姉は「まあなんやかやとね。でも、大したことはないから、気にしなさんな」と、こともなげに言った。
 だが琴美は、でん姉が盛り塩をした小皿を片づけるとき、盛り塩がドロドロになっているのを見た。
 昨日何があったのか……そして、今まで何が起こっていたのか……
 今更ながら、琴美の背に戦慄が走った。

「昨日電話で聞いた寺に行きたいんだけど、足はある?」

「あ、はい。車持ってますから、大丈夫です」

「じゃ、これ食べて身支度したら、出ようか」



 でん姉が聞いた寺の住所を、琴美はカーナビに入力した。

「天童市の……若松寺にわりと近いですね。でも、こんなところにお寺あったかな?」

 琴美は言った。

「もしかしたら、もう廃寺になってるという可能性もあるけどね。ま、行ってみましょ」

 琴美は車をスタートさせた。

 国道13号をしばらく走り、カーナビは若松寺への道を指示した。
 ゆるい上り坂を少し走って、横道にそれ、カーナビは「目的地付近に到着しました。ナビゲーションを終了します」と言って、案内を終えた。

「何もないですね」

 ポツンポツンと家が建っている細い道をトロトロと車を走らせながら、琴美は言った。

「そば屋や食堂じゃあるまいし、いきなり更地になってるなんてことはないと思うんだけどね」

 きょろきょろと左右をながめつつ、でん姉は言った。──と。

「ちょっと待った。バックして」

「何かありました?」

 言いながらギアを切り替え、琴美は車を後退させた。

「そこそこ。そこの、細い脇道」

「あー。何か案内がありますね」

 琴美はその道に車を乗り入れた。

 本当にこの先に何かあるのかと思いながら10分ほど走らせていると、ぱっと視界が開け、門が見えた。
 琴美は門の脇に車を停めた。

「……ここですか?」

 琴美が言う。

「……たぶんね。降りてみましょ」

 案内板もそうであったが、門に書かれた寺名も、風雪に削られて判読不能であった。
 門をくぐった先にあったのは、小さな観音堂であった。
 数段ほどの階段を昇り、でん姉は中に入っていった。琴美も続く。
 中に入ると正面に観音像が祭られていたが、それよりも目を引くのは、観音堂の内側にびっしりと掲げられたムカサリ絵馬であった。

「うわ……うわあー」

 思わず、琴美が感嘆半分畏怖半分の声を上げた。

「ムカサリ絵馬を見るのは、初めてじゃないんでしょ?」

 でん姉が訊く。

「初めてじゃないですけど……小さい頃に見たきりだったから、よく覚えてなくて……。ここ、なんだか怖いです」

「怖がってる場合じゃないのよ。探すよ」

「何をですか」

「百済雄一郎とあんたの名前が入った、ムカサリ絵馬よ。似顔絵じゃないから、花嫁花婿の顔は当てにならないわ。名前を探すの」

「はい」

 琴美とでん姉は、端から順に堂内に掲げられたムカサリ絵馬を確認していった。
 が、どのムカサリ絵馬も、ごく普通の、どちらかだけの名前が入った物ばかりだった。

「おかしいな……ここにあると踏んだんだけど」

 堂内の真ん中、観音像に背を向けて、でん姉は周りを見回した。

「ここじゃないとすると、あとは百済の家ぐらい……」

 周りを見回していたでん姉の目が、ふっと入り口の上で留まった。

「……あった」

 でん姉の声に、琴美もでん姉の視線の先を見た。

 絵柄その物は、他のムカサリ絵馬と同様だった。
 ただ、そこに描かれた花嫁花婿のそれぞれに、名前が添えられていた。
 花婿の横には、百済雄一郎。
 そして、花嫁の横には、水越琴美、と書かれていた。
 絵馬の左隅に、「百」と書かれた署名があった。

「ひゃく……『百済』の百を雅号にしたのね」

 でん姉が絵馬を見上げてつぶやいた。

「……こういうのを外法絵馬って言ってね。ま、種類はいろいろあるんだけど」

 背を伸ばして壁から問題の絵馬を外しながら、でん姉は言った。

「神社やお寺にかかってる絵馬なんて、よく見たら物騒なのが結構あるの。『誰それが不幸になりますように』なんてね。厳密に言えば、そういうのも外法絵馬ってことになる。……ただ、もちろんそんなこと書いたって、なんの効果もないけどね」

「……その絵馬は、どうなんですか?」

「これはある。たぶん中に……」

 でん姉が言いかけたとき、琴美がひゅっと息を呑んだ。
 でん姉が顔を上げると、観音堂と門の間に、いつの間に入ったのか、中年の女性が立っていた。


9.母親と息子

「来たな」

 でん姉がぽつんと言った。

「絵馬を戻せ」

 その中年女性は言った。

「しかる後、雄一郎の嫁となれ」

 ──じゃあ、あの人があいつの母親。そして、加藤さんがトラックに轢かれたときに美智子ちゃんが見たと言うのもきっと。

 琴美は思った。
 目の前に立っている中年女性は、本当にどこにでもいるような感じだった。
 ちょっと腰のあたりに肉が多めに付いた感じの、そのあたりのスーパーで買い物をしているような、普通のおばさんだった。
 ただ、ぎらぎらとした目が、普通ではなかった。
 そして、首のあたりから腹部ぐらいまで、血まみれであった。

「いやだと言ったら?」

 そう言いながら、でん姉はショルダーバッグに手を入れ、中を探った。

「……あっ」

 かすかに狼狽したような声を、でん姉は上げた。
 どきっとして、琴美は思わずでん姉を見る。

「やべ。独鈷杵まだできてなかったんだった」

 でん姉の言葉の意味はよくわからなかったが、何か、今必要なものがないということだけはわかった。

「しゃあないな。ちっと強引だけど、やるか」

 そう言うと、でん姉は持っていたムカサリ絵馬を足元に叩きつけた。
 派手な音を立てて、額縁のガラスが飛び散った。
 中年女性は両手で顔を覆い、すさまじい叫び声を上げた。
 砕けたガラスを足で払いのけ、でん姉はムカサリ絵馬を額縁から取り出した。
 裏返す。
 何で書いたのか、真っ赤な太い文字で、裏面いっぱいに文章が書かれていた。





一子百済雄一郎と水越琴美が冥土にて夫婦と相成らん事を我一命を捧げて願わん
南無宗祖根本伝教大師福聚金剛



「こんな呪文を血文字で書いて……こんなことしてたら、あんただって成仏できないわよ」

 中年女性に向かって突き出すように左手でムカサリ絵馬を掲げて、でん姉はとんでもないことを言った。

 ──「成仏できないわよ」って……じゃあ、この人、もしかして。

 琴美の背中に、ぞっと寒気が走った。

 あの血は、だから。
 でもあの人、自分の足で立ってるし。

 あまりの非現実感に、琴美は混乱した。
 こんな日中、まだ昼前なのに。
 あの人は死んでるの? 幽霊なの?

「いいかげん、あきらめな」

 でん姉はそう言いながら、ジッポを取り出した。
 右手のワンアクションでジッポに火を点け、左手で掲げたムカサリ絵馬にその火を近づけた。

「やめろおおおお!」

 中年女性が再び叫んだ。
 でん姉はそれを無視し、絵のあちこちに点火していった。
 ゆっくりと、だが確実に絵が燃え上がった。
 やがて手のあたりまで炎が上がり、でん姉はムカサリ絵馬を放した。
 地面に落ちたムカサリ絵馬は、そのままゆっくりと灰になってゆく。
 中年女性は叫び声を上げながら、その場にくずおれ、のたうち回った。
 その姿が徐々に薄れてゆく。
 ムカサリ絵馬が燃えるのとシンクロするように、絵馬が完全に燃え尽きると、中年女性の姿も消えていた。






 中年女性がいた場所をしばらく眺め、完全に消えたことを確認してから、でん姉はムカサリ絵馬の燃えかすを踏みにじった。

「でん姉さん……」

 絵馬が燃え尽きたあとに立つでん姉のそばに、琴美は歩み寄った。
 不安げに見上げる琴美に、でん姉は門の方を指で示した。
 すなおにその方向を見た琴美は、さっき中年女性を見たときと同じように、ひゅっと音を立てて息を呑んだ。
 でん姉と琴美、二人の視線の先に、細身で長身の男性が立っていた。

「あれが……百済雄一郎ね」

 琴美はこくこくとうなずいた。無意識のうちに、でん姉の腕を握りしめている。
 その手をぽんぽんと叩きながら、でん姉は言った。

「そんなに怖がらなくても大丈夫。彼は何もしやしないわよ」

 どうしてそんなことがわかるのか……と言いかけたとき、百済雄一郎が、ゆっくりと頭を下げた。
 琴美の眼には、それがわびているように見えた。
 そして、さっきの中年女性と同じように、ゆっくりと姿が薄れ、やがて消えた。

「とりあえず……これで終わったけど」

 でん姉がぽつんと言った。

「けど?」

「一応念のために確かめておかないと……」

 (何を?)と琴美は目で訊いたが、でん姉は何も言わずにスタスタと門へ向かった。


10.孤独な死

 車に乗り込むと、でん姉はメモを取り出した。

「この住所をカーナビにセットしてくれる?」

 でん姉が読み上げる住所を、琴美は入力していった。
 今いる場所から、けっこう距離があるところだ。

「これは……どこなんですか?」

「百済雄一郎の家」

 でん姉はぽつりと言った。

 そこに行ってどうするのか……琴美は訊こうと思ったが、やめた。
 怖かったからだ。



 山形市内から小一時間、人家がポツンポツンとしかないようなところに、カーナビは案内した。

「目的地近辺に到着しました。ナビゲーションを終了します」

 というアナウンスをして、カーナビは現在位置表示になった。
 あたりは、森というほどではないが、竹藪や雑木、雑草が生え茂った土地であった。
 その間に、申しわけ程度の細い道がある。
 琴美はその道にそろそろと車を走らせた。

 やがて、一軒の家が現れた。
 築後かなりたっているようで、廃屋と言われても納得しそうな家であった。
 家の前に車を駐めさせ、でん姉は車を降りた。
 続いて琴美も降りようとするのを見て、でん姉は言った。

「無理についてこなくてもいいよ? いやなもの見るかも知れないし」

「いえ、行きます」

 玄関のドアは鍵がかかっていた。
 ドアはベニヤ合板製で、中央部分には縦に細長い形に、すりガラスがはめ殺しになっている。
 でん姉はドアを見つめながら、言った。

「割っても誰も聞いてやしないだろうけど、一応用心しとこうか。──琴美ちゃん、朝買ったペットボトルのお茶、持ってきて」

「はい? ──はい」

 面食らいながらも、琴美は車にとって返し、まだ冷たさの残るお茶を手に取った。
 玄関に戻ると、でん姉はドアのガラス部分に

(以下、防犯上の見地により、5行削除)

 あっさりとドアを解錠したでん姉の手際に、琴美は目を丸くして言った。

「でん姉さん。どうしてそんな方法知ってるんですか」

「生活の知恵よ」

「あの、えっと……勝手に入っていいんですか」

「そりゃよくないけど、誰もいないから大丈夫」

 でん姉の言葉に、琴美は「はあ……」とうなずいたが、でん姉がそのあとに小声で「生きている人間はね」と言ったのは聞き逃した。

 ドアを開けたでん姉は、玄関に足を踏み入れかけて、一瞬顔をしかめた。
 琴美を振り返って、言う。

「ハンカチで鼻と口を押さえておいた方がいいわ」

 でん姉の言うことの意味がわからないまま続いて玄関に入った琴美は、強い異臭を感じて顔をしかめた。
 あわててハンカチを取り出し、でん姉の言った通りに鼻と口を押さえた。

 外のおんぼろさとは違って、家の中は意外にきれいだった。
 靴を脱いで、上がる。
 入ってすぐは居間兼キッチン、その奥の部屋が絵馬師としての仕事場のようであった。
 そして、異臭はその仕事場から強く臭っていた。
 仕事場に入りかけて、でん姉は足を止めた。

「入らない方がいい」

 仕事場の中に目を向けたまま、琴美の方を見ずにでん姉は言った。
 でん姉の後ろから仕事場をのぞき込んだ琴美は、「うっ」と小さくうめいて、あらためて鼻と口を強く押さえた。

 部屋の中央に、人が倒れていた。体型と服装から、女性らしいと察しが付いた。
 服装は、さっき観音堂で見た中年女性と同じであった。
 正座した状態のまま、前方に突っ伏している。
 両手は胸の下に隠れて見えない。
 そして、身体の下から流れ出たと思われる大量の血が、その人物を中心にして、部屋中に広がっていた。

「さっきの外法絵馬を描き上げて、裏側に自分の血で呪文を書いて、観音堂に奉納したあと、ここに戻って自殺した──ってことよ。
話を聞いたときは生霊かと思ったけど、それにしては念が強力すぎたんでね。さっきの観音堂で姿を見たときに確信したわ。もうすでに死んでるって」

 でん姉が身体をひるがえした。

「行こ。ここにいても、どうしようもない」



「タチが悪かったのは、あの母親のほうなのよ」

 琴美の運転する車で山形市内に戻る道すがら、でん姉は言った。

「我が子可愛さのあまり、あんたを巻き添えにしようとした。あんたのお客さんをトラックに轢かせたのも母親ね。その前にホテルで感じた視線も、そう。このまま行けば、いずれあんたに直接被害が及んでいたでしょうね。
百済雄一郎が割と思いこむタイプだったということ、その彼が想いを残したまま死んだこと、彼の母親がムカサリ絵馬の絵馬師だったこと、大陸系の呪術師の血を濃く受け継いでいたこと、悪い偶然が重なったのよ。このどれが欠けていても、こういうことにはならなかったでしょうね。
百済雄一郎のほうは……たぶん、あんたのことを心配して姿を見せていたんだと思う。彼自身は、誰も殺したりしていない。……でも、どうせなら母親を止めればいいのにねえ」

 突然、琴美は車のスピードを落とし、車道の端に停めた。
 ギヤをパーキングにし、サイドブレーキを引く。

「ん? どした?」

 でん姉が琴美を見ると、琴美はハンドルに顔を伏せて、しゃくり上げていた。

「あたしが……」

 ハンドルに顔を伏せたまま、琴美は言った。

「……あたしが悪かったんですかあ?」

 ひくひくとしゃくり上げる琴美の肩に、でん姉はその呼び名には似つかわしくない優しさで、手を置いた。

「……あんたは、ぜんっぜん、悪くない」

 琴美の肩をなでながら、でん姉は言った。

「言ったでしょ。悪い偶然が重なっただけだって。誰に恥じることもないし、責任を感じる必要もない。がんばって、今の仕事続けなさい」

 ハンドルに顔を伏せたまま、しかし、琴美はこくんとうなずいた。


エピローグ

 山形駅。11時31分発、「つばさ」112号の発車時刻が迫っている。
 新幹線改札口前に、でん姉と琴美、そしてママの姿があった。

「サエちゃん、せっかくこっちに来たんだから、銀山温泉にでも泊まっていけば良かったのに」

 ママが言った。

「そうしたいのは山々だけど、貧乏ヒマ無しで、もう東京に戻らないとね。また機会があったら、今度はゆっくりと」

「でん姉さん。荷物になってもうしわけないですけど、これ、おみやげです」

 言いながら、琴美が細長い箱が入った手提げ紙袋を差し出した。
 それを受け取りながらちらと中を見たでん姉は、感嘆の声を上げた。

「これ、出羽桜の無濾過生原酒じゃないの。よく手に入ったわね」

「気に入っていただけるかと思って、がんばって探しました」

「こんな気を遣わなくても、ママからお礼はたっぷりもらったのよ。いいの? もらっても」

 琴美がうなずくと、でん姉は相好を崩した。

「それじゃ、そろそろ新幹線が来るから。ママもお元気で」

「サエちゃん。東京が暮らしにくかったら、いつでもこっちに戻ってくればいいからね。あんただったら、すぐにナンバーワン間違いないし。こっちは食べ物もお酒も水も空気も温泉も、いいんだからね」

 ママの言葉を背に、でん姉は改札口を通り、ホームへ続く階段を下りていった。


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