榊真理子 16:00~
星龍学園の授業が終わり、黒神由貴と視聴覚室でちょいとインターネットをのぞいて、校門を出たのは4時少し前だった。
ちょうど帰るところだったらしい神代先生と出会った。
「あら。今帰り? 遅くない?」
「視聴覚室でインターネットをちょっと。先生こそ、今日は早くないです?」
「今日はもう、特に用事もないんでね。買い物でもして帰ろうかなって」
神代先生が徒歩で校門を出ようとしていることに今さらながら気づき、私はおちょこでお酒を飲むジェスチャーをした。
「……これですか?」
「鋭いな。気をつけて帰んのよ」
神代先生が苦笑する。
「はーい」
神代先生と校門前で別れ、黒神由貴と星龍学園前駅へ向かう。
途中、サイレンを鳴らして猛スピードで突っ走る救急車とすれ違った。
救急車は「救急車が通行します。道を空けてください」と連呼しながら、すっ飛んで行った。
「事故かな」
救急車が来た方向、つまり駅の方を見ながら、私は言った。
「なんだか駅の方に走っていく人が多いなとは思ってたんだけどね」
同じように駅の方を見つつ、黒神由貴が言った。
駅のロータリーのそば、幹線道路にそれはあった。
事故っていたのは、ファミリー向けの小型車だった。
どういう加減でそうなったのか、歩道に立つ電柱に正面衝突したようで、フロントグラスのところまで電柱がめり込んで、ぐちゃぐちゃになっていた。
もちろんフロントグラスも粉々に砕けている。
気がつきたくはなかったが、ダッシュボードや座席が血まみれになっていることに、私は気づいてしまった。
両方の座席に、空気が抜けてしわしわになったエアバッグがシーツのように広がっていた。言うまでもなくエアバッグも血まみれだ。
エアバッグは正常に作動したようだが、この状態では、無事に済んだとは思えない。もしかするとシートベルトをしていなかったのかも知れない。
「うわあ……」
あまりの惨状に、私は言葉を失っていた。野次馬気分で見物するには、あまりにヘビーな状況であった。
「こりゃあ、乗ってた人、やばいかもねー」
絶対死んだよなあと内心で思い、私は無意識に手を合わせていた。
「──あ」
私が手を合わせて拝むのを見て、黒神由貴が何か言いかけた。
「なに?」
顔を上げて私が訊くと、私を見る黒神由貴の目が一瞬泳いだ。
「えっとその……ごめん、なんでもない」
少しあわてたように、黒神由貴は言った。
「?」
凄惨な事故現場に長居しても気持ちのいいものではないので、私たちは駅へ向かった。
いつも通りの電車に乗り、乗換駅で黒神由貴と別れた。
神代冴子 19:30~
繁華街から一つ路地を入ったところにある小料理屋が、最近の神代冴子のお気に入りであった。
中年を少しすぎた年齢の夫婦が切り盛りしている小さな店だが、気の利いた料理を出し、日本酒の品揃えが豊富なことが、神代冴子のツボに入った。
あれこれと小うるさく詮索されたわけではないが、何度か通ううちに、女子校の教師であることや和歌山の出身であることまで、こまごまと話すことになってしまった。
たいしたものだと、神代冴子は内心で舌を巻いている。
もちろん、自分が高野山に深く関わりのある人間とまでは話していない。
そこまで話すと、あとあとやっかいなことが多くなるのが、神代冴子は経験でよくわかっていた。
「冴子さん、今日は買い物帰り? 荷物は何もないみたいだけど」
料理の準備で手を動かしつつ、女将が訊いた。
「久しぶりに買い込んだんで、配送を頼んだのよ。今日は車じゃないし」
「じゃ、今日は本気呑み? 御夕飯は?」
「面倒なんで、ここでいただいて帰ろうかと。──何かよさげなものある?」
神代冴子が言うと、店主がいたずらっぽく笑って、用意していたらしい皿を神代冴子の前に置いた。
「今度来てくれたときに食べてもらおうと思ってさ。本場の味にはかなわないだろうけど」
皿の上には、串団子よりは幾分大きめなサイズの丸い食品が四つ載っていた。青菜らしいものにくるまれて、中が何かはわからない。
だが、神代冴子は一目でその正体がわかった。
「めはり寿司だー♪」
「これだけでお腹がふくれてしまうと他の料理を食べてもらえないんで、かなり小さめにしたけどね」
めはり寿司は神代冴子の郷里である和歌山の地元料理である。
握りこぶし大の白米のにぎりめしに、高菜漬けの漬け物を大きな葉のまま巻いたものだ。
食べる際に目を見開いて大口を開けて食べることから、その名がある。
ちょっと凝った店では、にぎりめしに細かく刻んだ高菜を混ぜたりもする。
さっそく一つをほおばった神代冴子に、店主が思い出したように言った。
「そう言えば今日、冴子さんの学校の近くで、すごい事故があったよね。見た?」
「ううん、私が通ったときはもう、事故検分も終わっていて。親父さんは見たの?」
「んにゃ。俺が通ったときも、もう救急車が行ったあとだったね。でもありゃあひどい事故だったねえ。たぶん、乗ってた人はだめだったろうなあ。成仏できりゃあいいけどなあ」
「お父さん。亡くなったと決まったわけでもないのに、縁起でもない」
女将が店主をたしなめたが、それよりも、神代冴子には気がかりなことがあった。
「親父さん。もしかして、事故現場を通ったとき、手を合わせたりした?」
「いや。仕入れの帰りで、自転車に乗ってたんで、事故現場を横目で見ながら通っただけで。手を合わせないといけなかった?」
不安げな表情を浮かべ、店主が訊く。
「ううん。むしろ手を合わせなくて正解。手を合わせたくなるのは山々なんだけどね。なんと言うか、そのお……たまーに頼ってきたりするんだわ。死んだ人がね。助けてくれると思って」
「怖いわねえ」
「おっかねえなあ」
店主と女将は同時に言った。
「冴子さん、よく知ってるわねえ。そういうことに詳しいの?」
女将が感心したように言った。
「前にどっかで聞いただけ」
危ない危ない。
榊真理子を相手にしているように、うっかりレクチャーをはじめるところであった。
神代冴子は二つ目のめはり寿司をほおばった。
榊真理子 22:00~
夜のニュースに、帰りに見た事故のことが出た。
乗っていたのは二十代のカップルで、やっぱりほぼ即死状態だったらしい。
晩ご飯を食べ終え、お風呂にも入って、ノンカロリーコーラのペットボトルを自分の部屋に持ち込んだ。
机の上のノートパソコンを開き、起動する。
ネットに接続し、だらだらとネットをさまよう。
おもしろサイトを見てへらへらと笑い、ホラーサイトを見てドキドキする。
ま、いつも通りの日常だ。
いつも閲覧しているサイトをざっと見て、次のサイトへ移動しようと操作しかけた私の手が止まった。
首筋から背中にかけて、言いようのない違和感を感じたのだ。
わかりやすく言えば、「ぞっとした」のである。
四畳半サイズの洋室。
入り口ドアに背を向けて座る形に勉強机が置かれ、その右側にシングルベッドがある、私の部屋。
何か、いる。
私の背後、ドアのあたりに、何かがいる。
気のせいと言うには、あまりにもその「気配」は強かった。
振り向けなかった。
背中に感じる恐怖感がますます強くなって、振り向く勇気が起きない。
私はノートパソコンのディスプレイのあちこちに目を走らせた。
背後の様子が映らないかと思ったのだが、表示されているネット画像が邪魔で、背後の様子はさっぱりわからない。
机のはしっこに置いた卓上ミラーに気づいた。
おそるおそる、背後を見る。
少し下向きになっているので、背後の「存在」の全貌はわからない。それでも、何かがいるのはわかった。
人間の足が見えた。
足は4本あった。
そのうち2本はスラックスをはき、残りの2本は生足だった。
卓上ミラーには、太ももから下の、二人分の足──おそらくは男女の──が映っていた。
ミラーで見ているため、下の部分しか見えなくてよかったと、心底思った。
振り向かなくてよかったと、心底思った。
どちらの足も、奇妙にいびつで、ぼろぼろの血まみれだった。
鏡に映った部分から上がどんな状態か、考えるのもいやだった。
私は目をぎゅっと固く閉じた。
──自動車事故の、カップルだ。
私は直感した。
絶対に間違いないと思った。
でも。
なんで私なの。
なんで私のところに来るのよ。
私、何も悪いことしてないじゃん。
両手の指をがっちりと組み合わせ、顔を伏せて懸命に祈った。
お願いお願いお願い。
消えて。帰って。どこかに行って。
黒神由貴や神代先生だったら、特効力のある呪文なりなんなり、いくらでも唱えることができるんだろうけど、私には無理だ。
私には、祈るしかできなかった。
お願いお願いお願い。
そうやって懸命に祈り続けていたが、ふと。
背後から感じていた気配が消えているのに、私は気づいた。
顔を上げ、卓上ミラーで背後を確認する。
ぼろぼろで血まみれの足は、いなくなっていた。
消えたのだろうか。
振り向きかけて、私は躊躇した。
怖い存在が消えたと思って油断したら、目と鼻の先にいた、というのは実話怪談本でよく聞く話だ。
私はゆっくりと、何かあったらすぐに前を向けるように準備しながら、ゆっくりと振り向いた。
何もいなかった。
何かがいたような痕跡もなかった。
私は、何かがいたかも知れない入り口付近をぼんやりとながめた。
今のって、なんだったんだろう。
本当に自動車事故のカップルだったんだろうか。
「わ?」
いきなり、顔の前にヒラヒラと何か落ちてきて、私は少し顔をのけぞらせた。てのひらで、それを受け取る。
落ちてきたのは、白い紙でできた、人の形をしたものだった。
「わ」
再度、私は間の抜けた声を上げた。
紙製のそれが、小さな火をあげて、燃えたのだ。
ほんの一瞬だけ燃えて、それは消えてしまった。
手の上で燃えたのに、熱くもなんともなかった。
燃えかすも残っていない。
「?」
私は、ただ首をかしげるしかなかった。
黒神由貴 22:30~
黒神由貴は自室にいた。目を閉じて少しうつむき、その手に印を結んでいる。
部屋のどこかで、パチンと小さな音がした。
その音が合図であったかのように、黒神由貴は目を開いて顔を上げ、印をほどいた。
「やっぱり出たな」
あの事故現場で、気づいたときには、すでに真理子は手を合わせて祈っていた。
まさかとは思ったものの、念のために式神を飛ばしておいて正解であった。
たった今、式神は役目を果たして、燃え尽きた。
あまり考えたくないことであり、本人にはなんの自覚もないようだが、やはり真理子はなんらかの力に目覚めつつあるようだ。
このまま行くと、いろいろと怖い思いをすることになるかも知れない。
何をどこまで伝えればいいものか。
黒神由貴は、小さくため息をついた。