4.お祖母様の依頼って、どうよ?
夕食はまずまずの出来だった。
仕上げのスイーツ(ちょっとおしゃれな感じにデコレートされたババロア)を食べつつ、黒神由貴が口を開いた。
「……さっきの、お祖母様の電話なんだけどね」
「うんうん」
コクコクと、私は頭を縦に振った。
「……えっと、ちょっと怖い話かも知れないけど、いい?」
うなずきつつ、私は内心思っていた。──さんざん怖いことに付き合わせて、今さら何言ってんだか。
「下の階──4階の部屋の一つが今空いてるんだけど、そこにね、ちょっと」
「……もしかして、出る、の?」
「祟るとか呪うとかっていうんじゃないんだけど……」
そう言って、黒神由貴は話し始めた。
4階の402号室に三十代前半ぐらいの夫婦が入居していた。夫婦には2歳になる娘がいた。
三十代の若さで高級マンションに住むくらいなので、暮らしぶりはよく、また夫婦仲も良好であった。
そんな、絵に描いたような幸せな一家だったのだが、ある日、妻が病に倒れた。
不治の病であった。
夫は献身的に看病したが、入院先の病院で、妻は逝った。
妻の死後、夫と娘はマンションを引き払い、夫の実家に戻ったという。
以後3ヶ月、402号室は空き家になっている。
「あ。もしかして、その奥さんが」
私が言うと、黒神由貴はうなずいた。
「別にその奥さんが化けて出て悪いことをするというわけじゃないんだけど、平たく言うとね、ご主人と娘さんがマンションを引き払ったのを知らないのよ」
「気の毒に」
「でまあ……その奥さんを納得させる必要があるわけなのよ」
「ははあ。それを、くろかみがやらないといけないってわけね。──あ」
一つ、思い出したことがあった。
「さっき、誰もいないのに4階でエレベーターが止まったよね。あれってもしかして」
私が言うと、黒神由貴はうなずいた。
「まあ、そういうこまごまとしたことがあるんで……」
不動産では、何か事故があった場合、説明責任があると聞いたことがある。
黒神家がオーナーのこのマンションの場合は、室内で自殺とか殺人があったわけではないので、現実には説明する必要はないはずだが、対処できることはしておこうというわけなのだろう。
「……でね。お祓いの作業そのものはそんなに大変なことじゃないんだけど、他の入居者もいるので、真夜中にしなくちゃいけないのよ。だから……」
「あー。それで、あたしがいちゃまずいってことなのね」
「まずいというか、せっかく来てくれてるのに、もうしわけないじゃない」
黒神由貴は、気まずそうに言った。
「じゃ、あたしがいてもいいの?」
「別に危ないことはないから。大丈夫と思う。お向かいの401号室は、ご夫婦一緒に来月まで海外出張だから」
だったらいいんじゃない? ということで、話はまとまった。
どうせ私はなにもできやしないんだし、黒神由貴のそばで彼女がやることをただ眺めているだけなのだから。──と、私は楽観していた。
それが間違っていたことを、私は数時間後に知ることになる。
5.深夜のマンションで浄霊って、どうよ?
黒神由貴のベッドのそばに、お布団を敷き、私はそこに寝ることになった。
もちろん、まだお布団には入らない。黒神由貴の「作業」は夜0時過ぎにやるらしいので、それまではお布団の上に座り込んで、たわいもないおしゃべりだ。
普通なら、タレント・ファッション・おしゃれ・コスメなんかが話題になるのだろうが、そういうことにはうとい黒神由貴だから、私があれこれと教えながら話すことになる。それもまた楽しからずや。
修学旅行などでもそうだが、いつもは学校内だけで話している友人と、普段着でたわいもないおしゃべりをするのは楽しいものだ。時間なんて、あっという間に過ぎてしまう。
やがて、そろそろ0時が近づいてきた。
黒神由貴が掛け時計をちらっと見たのに気づき、私は言った。
「……そろそろ?」
「うん」
言いながら立ち上がった黒神由貴は、勉強机の上に置かれたキー・ケースと呪符を手に取った。
私も立ち上がる。身体がぶるっと震えた。
武者震いとは思うが、一応おトイレにも行っておこう。
ドアを施錠し、エレベーターを呼ぶ。
常夜灯が点いているが、ここにやってきたときと比べると、暗くて寂しいのは否めない。
「それを貼るわけ?」
私は黒神由貴が持っている呪符を見て言った。
「ただ貼ればいいってわけじゃないけどね。それなりに手順があって」
「……おっかなくない?」
ついてきたものの、やっぱりちょっと。な。
「……大丈夫。私の後ろについてきてくれればいいから」
到着したエレベーターに乗り込む。1階分降りるだけだから、あっという間に到着する。
エレベーターの扉が開き、黒神由貴は私の方をちらりと見て、外へ踏み出した。
私もワンテンポ遅れて、エレベーターを出た。
──誰もいない。
5階と同じように常夜灯が点いているが、誰もいない。
今、一緒に降りたはずの黒神由貴もいない。
たった今、私の数歩先に黒神由貴がいたはずなのに。
4階のフロアに、私一人、ポツンと取り残されていた。
どうすればいい?
私は、軽いパニックに陥りかけていた。
くろかみの家に戻るか?
そう考えた私は、回れ右して、エレベーターの呼び出しボタンを押した。
たった今降りて、しかも真夜中なのだから、まだこの階に止まっているはずであった。自動で1階に降りていても、すぐに上がってくるはずだった。
エレベーターは、いつまでたっても上がってこなかった。
階表示を見る。
どこの階のランプも点灯していなかった。
エレベーターは動いていない。
──階段!
辺りを見回すと、フロア端に防火扉があった。あれを開ければ、階段があるはずだ。小走りで、防火扉の場所までゆく。
ノブをひねる。
開かない。
ノブは回る。でも、防火扉は開かない。
「ちょっ……これって」
私、このフロアに閉じこめられてる?
さっきよりも、パニクり具合が大きくなっていた。
私は防火扉に背中を押しつけ、目だけをあわただしく動かして、フロア内を見渡した。
401号室のドアに目がいく。──だめだ、今は誰もいないんだった。
何か出てくるのかな。
何かに襲われるのかな。
キィ
そんな、かすかなきしみ音がして、私は音が聞こえた方向を見た。
402号室のドアが閉まるところだった。
カ……チャン
ドアが閉じた。
くろかみ……?
もう402号室に入っていたのだろうか?
私はおそるおそる402号室へ向かった。
ドアの取っ手を握る。ひねって、ゆっくりと引くと、抵抗なくドアが開いた。
中に入る。
真夜中の、まして部屋の中だ。真っ暗である。
ただ、カーテンのない窓から入る月光で、うすぼんやりと部屋の様子はわかる。
かすかなかび臭さ……生活臭とは逆の匂い。誰も生活していない家特有の匂い。
玄関横にある備え付けの下駄箱やシステム・キッチンを別にすると、家具や調度品などは何もない。
私はリビングに足を踏み入れた。
──そこに人がいた。
黒神由貴ではない。
白っぽいワンピースを着た女性である。
女性はリビングの中央に膝をついて座っていた。
うつむいているので、表情や年齢はわからない。
──生きた人じゃない。
私は直感した。
以前、ここに住んでいた、奥さんだ。
私は思った。なんの根拠もない。だが、確信があった。
女性がゆっくりと顔を上げ、私の方を見た。
きれいだが、悲しそうな顔をした人だった。
「誰もいないんです……」
その人は、訴えるように私に言った。
「うちの人も、子供も、いなくなってるんです……」
私は黒神由貴が言ったことを思いだしていた。
──ご主人と娘さんがマンションを引き払ったのを知らないのよ
「あの……」
ごくりと息を呑み、私はその人に言った。
「ご主人とお嬢さんは、引っ越されたそうですけど……」
その人は、悲しそうな表情を変えなかった。
私はゆっくりと、正直に言えばおそるおそる、その人に近づいて、その人の正面に膝をついた。
「ご主人とお嬢さんは、ここから引っ越して、実家へ戻られたそうです」
「そこに行って……怖がられないでしょうか」
その人は言った。悲しそうな表情に不安な色も加わっていた。
「……大丈夫と思います。会いに行ってあげれば、お嬢さんもきっと喜びます」
無意識にその人の手を取り、私は言った。こんな安請け合いをしていいものだろうかという思いが一瞬頭をよぎったが、言わずにはいられなかった。
「ありがとうございます……」
自分の手を握る私の手を不思議そうに見つめて、その人は言った。
「ありがとうございます……」
顔を上げて、今度は私の顔を見つめて、その人は言った。
その人のほおに、涙がつたっていた。
その人の姿がだんだん薄れているのに、私は気づいた。
……薄れていって、消えてゆく。
私は殺風景なリビングの中央で、手を握った形のまま、一人で座っていた。
どれぐらいそうしていたかわからないが、玄関の方から鍵が開く音が聞こえて、私は飛び上がった。
鍵が開く音に続いてドアが開く音が聞こえ、すぐに、リビングにやってくる音が聞こえた。
今度は何が来るってーのよ……
パチッ、とスイッチを入れる音がして、リビングが明るくなった。
リビングに入ってきたのは、黒神由貴だった。
黒神由貴は、リビングの中央で膝をついて座っている私を見て、目を丸くした。
「真理子……! 後ろにいたんじゃなかったの? いつ入ったのよ!」
「いやあの……あたしもよくわからないんだけど、くろかみの後ろを歩いてたつもりだったんだけど、エレベーターを降りたら、誰もいなくって。んで、ドアが開いてたんで、くろかみが先に入ったのかなって」
私も状況が理解できず、おどおどと答えた。
「だって今、鍵を開けて入ってきたのに……」
黒神由貴も不思議がる。
「……まあいいか。そんなこともあるかも。ちゃっちゃっと済ませるわ」
あれこれ考えるよりも、用事を先に済まそうと思ったのか、口調を変えて黒神由貴が言った。
呪符を持ってリビング内を見回した黒神由貴は、また不思議そうな顔をした。
あちらこちらを見回しては、首をかしげている。
「どうしたの?」
私は訊いた。
「えっと……なんて言うのか、何もいないみたいなのよ」
黒神由貴は「霊」というストレートな言い方を避けたが、つまりはそういうことなのだろう。
首をかしげつつ、黒神由貴は浄霊の作業に取りかかった。
それからはさほど時間はかからなかった。
最後に黒神由貴は普通では見つけにくい場所に呪符を貼り、作業は終了した。
5階の黒神家に戻った私たちは、手早く後片付けを済ませると、パジャマに着替えて、就寝した。
眠っている間にもしかして何かあるのでは。……という考えが一瞬頭をよぎったが、すぐに私は爆睡した。
翌朝、簡単な朝食を済ませると、私は黒神家を辞した。
このままどこかに遊びに行くことも考えたのだが、「お祖母様」に報告しなければいけないということで、黒神由貴はやたらと恐縮した。
今度はぜひうちに来て。
と、私は言い、黒神由貴はうれしそうにうなずいた。
6.黒神由貴の電話
榊真理子を駅まで送ったあと、自宅に戻った黒神由貴はすぐに「お祖母様」──黒神千代に電話した。
数コールで、千代が出た。
千代の声が耳に入るなり、黒神由貴は電話口に叫んでいた。
「お祖母様っ! ひどいじゃないですかっ! わかっていて、真理子を巻き込んだんですねっ!」
『あなたから話を聞いて、なかなか面白そうな子だと思ったのですよ。早苗から、その榊というお嬢さんが来られると聞いたので、いい機会だと思ったのです』
「だからって! 何かあったらどうするんですかっ!」
『落ち着きなさい』
黒神由貴の剣幕を、千代は気にも留めなかった。
『結果として何もなかったでしょう。それよりも、あなた自身、気がついているはずです』
「何がですか」
『あの部屋に残っていた念を昇華させたのは、あのお嬢さんだということをです』
「……」
黒神由貴は返事をしなかった。
図星であった。
黒神由貴が部屋に入る以前に、すでにあの部屋の浄霊は終わっていたのだ。
それを、榊真理子はなんの道具も用いずにおこなったのだ。
「……あの、お祖母様」
おずおずと、黒神由貴は言った。
『なんです』
「あの……できれば、あまり真理子を巻き込むのは、避けていただきたいんですけど」
『安心なさい』
千代は即答した。
『今回は、あのお嬢さんの力量を見てみたかっただけです。素人さんに無茶なことをやらせるつもりはありません。そもそも、あのお嬢さんは無邪気すぎます。純粋ということなのでしょうが、本格的に退魔行をやってもらうには、危なっかしすぎます』
「そう言っていただいて、安心しました」
『由貴』
「はい」
『いいお友達ができましたね』
「はい♪」
満面の笑みを浮かべ、黒神由貴は電話を切った。