───ん。
我に返ると、私は無惨絵を胸に抱きしめていた。
(やだ。なんでこんなことしてんだろ)
あわてて無惨絵の束をきちんと重ねた。
と、誰かが私の肩に手を置いた。
振り向くと、白く光り輝く女性がいた。
「ふわわわわわわわわっ!」
「ちょっと。どうしたのよ。私よ。わたし」
「く、くろかみっ!? あんたなの?」
「そうよ。大丈夫? なんともない?」
「なんともないわけないでしょっ! 何よ、そのカッコ! おどかさないでよっ!」
私はわめいた。
黒神由貴は、真っ白な着物を着ていたのだ。
「そんなカッコしてたら、まるでさっきの白く光る……」
そこで私は口ごもった。
──あれ?
さっき……何があったっけか……
確か、血まみれになって。
でも、身体のあちこちを見ても、一滴の血もついていない。
記憶がプッツリと途切れていた。
絵を見てて、ふっと頭の中が真っ白になったような気がして……
それでどうしたっけ。
「ごめん。御住職のお手伝いをしていたから。大丈夫? 立てる?」
黒神由貴は、妙に私を気遣った。
変なの。
黒神由貴は、無惨絵を箱に収めると、立ち上がった。
「この絵の浄霊をするの。来てくれる?」
断る理由もない。
黒神由貴の後についてゆく。
ずいぶん奥の方まで歩いた所は、10畳ほどの部屋だった。
部屋の中央に角材を組み合わせて四角く作った囲炉裏のようなものがあり、その中で火が燃えていた。
その前に座って、御住職がなにやら唱えていた。
(後で黒神由貴に聞くと、「護摩壇」というのだそうだ)
私たちに気づくと、御住職は振り返り、深々と頭を下げた。
「お疲れさまでした。このたびは本当に……」
言いかけるのを、
「御住職」
首を小さく左右に振り、黒神由貴がとどめた。
御住職の横に座る。
「それでは……」
御住職は無惨絵の箱を開け、1枚目を取り出した。
再び何かムニャムニャと唱えながら、無惨絵を火の中に入れた。
「あっ」
思わず私は声を上げた。
「燃やしちゃうの?」
「うん。最後の仕上げでね」
「最後って……これから何かするんじゃないわけ?」
かすかに黒神由貴がほほえんだような気がした。
「もう……99パーセントは終わってるのよ。後は絵そのものの処分だけ」
「へえ……いつの間に……」
私がつぶやくと、今度ははっきりと笑いを浮かべ、黒神由貴が言った。
「真理子がやったのよ。無惨絵の浄霊を」
「じょーだん言わないでよ。私にそんなこと出来るわけないじゃないの」
だが、黒神由貴はニッコリと笑うだけだった。
そう言う間にも、御住職は無惨絵を火の中に投じていった。
やがて5枚目が燃え上がって……
「む?」
御住職が不審げな声を上げた。
「これは……?」
御住職は、さらにもう1枚、絵を持っていた。
「こんなものは……なかったはずですが……」
私と黒神由貴は、御住職が持つ絵を見た。
黒神由貴も不思議そうな顔をしていた。
「ああ!」
私は声を上げた。思わず、御住職の手からその絵を奪っていた。
「ちゃんと描いてくれたんだ! 約束通りにっ!」
絵には、若い女性が描かれていた。
質素ではあるが、きれいな着物を身につけ、横座りしている。
その座りかたに、淡く清楚なセクシーさがあった。
伏し目がちで、若干憂いがあるが、充分美しかった。
「約束……通り?」
私は、自分の言葉にとまどった。
今、私はなんて言った?
約束って何。
ちゃんと描くって何。
なんで、無惨絵の中にこんなのがあるの。
黒神由貴が、うろたえている私の手から絵を取り上げた。
「御住職……これは炉で焚かなくてもいいのではないですか」
絵を見つめながら、黒神由貴は言った。
「この絵は延嶺寺で大事に置かれてはいかがでしょう」
「……そうですな。この絵には邪気がない。大切にいたしましょう」
「あのー……」
私は、恐る恐る言った。
「私……どうしちゃったんでしょうか……」
「真理子。あなたのおかげで、この絵に描かれた遊女は救われたのよ」
黒神由貴はそう言って笑ったが、やっぱり私にはよくわからなかった。
5枚目の無惨絵の灰のかけらが、護摩壇の炎の熱気で、天井まで舞った。
御住職、黒神由貴、そして私は、遊女の冥福を祈って手を合わせた。
その後、御住職は私たちにお昼をごちそうしてくれた。
精進料理ではなく、お肉だのなんだのがたくさんあって、豪華版だった。
延嶺寺を出るとき、御住職は門まで出て見送ってくれた。
帰りの電車の中、私は黒神由貴に訊いた。
「ねえ……私たち、絵を『見せてもらいに』あのお寺に行ったんだよねえ?」
黒神由貴は苦笑するだけだった。
延嶺寺美人画縁起
東京──池袋から出ている私鉄に乗って1時間弱、Kという駅がある。
この沿線は都内に通勤するサラリーマンのベッドタウンとして発達し、沿線の駅周辺には住宅やマンションが建ち並んでいる。
その中にあってただ一つ、K駅だけが忘れられたように未開発状態である。
改札を出ても、コンビニ一つあるわけでもない。
あるのは、老婆が店番をしている、小さな煙草店だけだ。
駅前の細い道(乗用車がすれ違うのがやっとだ)を東に20分ほど歩くと、やがて「延嶺寺(えんりょうじ)」という、いささか古ぼけた寺に着く。
この寺に、1枚の絵が保管されている。
絵は肉筆の錦絵(浮世絵)で、江戸時代後期に描かれたと伝わっている。
50cm四方ぐらいのサイズだ。
これを描いたのは当時売り出し中の若手絵師、勝川正慶と伝えられている。
署名がないので、画風からの類推である。
絵は、若い女性を描いたものである。
質素ではあるが、きれいな着物を身につけ、横座りしている。
伏し目がちで、若干憂いがある表情だが、充分美しかった。
絵のモデルとなっている若い娘は、短い生涯だったということだが、それ以上詳しいことは、御住職は笑うばかりで、教えてはくれない。
希望すれば、絵はいつでも拝観できる。