須田真知子の消息を知ったのは、偶然であった。
久しぶりの休日、繁華街をぶらついていたときにたまたま会った、高校時代の元同級生、和美から聞いたのだ。
顔を合わすなり、和美は10年ぶりの同窓会をすっぽかした私をなじった。
……これは私が悪かった。
YESの返事をしておいたのだが、当日になって、仕事が入ったのである。
ま、立ち話もなんなので、手近な喫茶店に入った。
ひとしきり文句を聞かされて、次に出た話題が須田真知子のことだった。
「まあいいわ。あんた仕事が病院関係だもんね。そんな事もあるよね。
……でさ。話変わるけど、あんた須田真知子って、覚えてる?」
20秒ほど考えて、私は首を左右に振った。
「……でしょ。あたしもそうだった。顔と名前合わせて、やっと思い出したのよ。
こう言えばわかるんじゃない? なんとなーく暗くてさ、いるのかいないのかわからない、影の薄い子」
「ああ! あの須田真知子!」
思わず叫んでしまい、和美はケラケラと笑った。
「そう。『あの』須田真知子よ。同窓会に来てたの。誰も思い出せなくてねー。
乾杯してから、一人ずつ挨拶したときに、やっとわかったぐらいなんだわ」
「……で? 彼女がどうかしたの?」
「んー。やけに幸せそうに見えたのよね……」
「なにそれ。けっこうなことじゃないの。なに不思議がるの」
「いえね。風のうわさに、あの子、たちの悪い男に引っかかってるって聞いたから。
ヒモ同然で、そいつを養うのに、人に言いにくいようなこともしてるとか……って」
「なのに、実際会ってみたら幸せそうだったので、意外だった……と」
「うん。顔色は今一つだし、こう言っちゃなんだけど、服装もぱっとしないしで……
でも、なんか、うれしそうだったのよ。……でね。訊いてみたんだわ。
『なんかうれしそうだけど、いいことでもあったの』って」
「やだ、わざわざ訊いたわけ? 悪趣味ー。……それで?」
まあ……私も人のことは言えない。
「なんかね、『もうすぐ、あの人がずっといてくれるようになるから』……って。
さすがにあたしらも、それ以上訊けなくって」
「ふう~ん。だんなが……正式なだんなかどうか知らないけど、
心を入れ替えたってことなのかなあ」
「どうかなあ。あたしには、どうもそうは考えにくいんだけどなあ」
パフェのスプーンをくわえたまま、和美は言った。
それが、1ヶ月ちょっと前のことである。
朝9時をちょっと過ぎた頃。
「先生。岸壁署から要請です。五反田のアパートで男女の遺体。鑑識もすでに向かっているそうです」
電話を受けた私は、コーヒーを飲んでくつろいでいた先生に声をかけた。
ここはある医大の、法医学部である。
私が先生と呼んだのは、ここの准教授で、ちなみに女医。
非常勤で監察医もしているので、時々こういう要請がある。
「OK。すぐ出られるよね? じゃ行こっか」
女優の名取裕子そっくりの先生は、そう言うと、軽いフットワークで立ち上がった。
監察医。普通の人には聞き慣れない言葉かも知れない。
ごく簡単に言えば、変死した人の死体検案、いわゆる「検死」をおこなう医者のことである。
現場で大まかな状況を調べ、場合によっては遺体を病院へ搬送して解剖検査をおこない、組織標本を採るなどして、さらに詳しく検査する。
そんな仕事だ。
たいていの人はそれを聞くと顔をしかめて気味悪がる。
まあ無理もない。
だから私も、和美のような友人には、医者のタマゴとしか言っていない。
現場は、安アパートの1室であった。
入り口に立つ巡査に声をかけ、入ってゆく。
廊下にも、すでにかなりの腐敗臭が漂っていたが、部屋の中の臭いは、そんな生やさしいものではなかった。
鼻の真ん中を殴られたような衝撃だ。
これまでに何件か経験しているとは言え、きついものはきつい。
6畳2間の2K。奥の部屋の中央に布団が敷かれ、そこに、男女の遺体が寝ていた。
男性──と言っても、一見では性別は分からない。服装から判断する限り……である。
そちらの状態は無惨だった。
巨人様顔貌。俗に「赤鬼」と呼ばれる状態で、身体が腐敗ガスでふくれあがり、はち切れそうな状態になっている。
赤褐色をした顔も同様にふくれあがり、口からは舌がはみ出しそうになっている。
ウジも発生し始めている。
ざっと見て、死後1ヶ月といったところか。
腐乱臭が廊下にまで漂うようになって、アパートの住民が通報したのだ。
奇妙なのは、その腐乱死体の横の、女性の遺体であった。
何の損傷もないように見える。
寝ている、と言ってもいいほどだ。
「先生。これっていったい……」
両遺体の状態差に、私は思わず先生に言った。
「あ、だめだめ。先入観は禁物よ。とりあえず検死始めましょ」
「はい」
先生と私は、遺体の両脇にかがんだ。
私はICレコーダーとメモ帳を用意し、先生の検死を記録する。
「男性。年齢は40から50。腹部に、鋭利な刃物によると見られる刺創。上腕部に……」
私たちが検死している近くで、所轄の刑事が携帯電話で報告をしている。
「男は兼松五郎。44歳。尾白組の準構成員。……は? いえいえ、要するにチンピラっす。
女は、内縁の妻で、名前は、えっと……須田。須田真知子。年齢は……」
私は、持っているペンを落としそうになった。
そして、腐乱遺体に寄り添うように横たわる、女性の遺体をまじまじと見つめた……
夕刻、一段落した私たちは、先生の部屋でコーヒータイムを取っていた。
「──ちゃん?」
先生が、私の名を呼んだ。
「はい?」
「五反田のアパートの検案で、あなた、刑事さんの報告を聞いて、なんかびっくりしてたでしょ? どうしたの?」
「あれ……。やっぱりばれてましたか」
「そりゃまあ、警察官を亭主に持つと、多少はね。……で?」
先生の御主人は、警視庁の警部である。
仕事柄、夫婦で派手な論争をすることも多いが、ありていに言って、おしどり夫婦と言えよう。
私は、1ヶ月前に和美から聞いた話を、話した。
先生の目が、驚きに見開かれてゆく。
「……『あの人がずっといてくれるようになるから』……かあ。なんだか気が滅入る話ねえ」
先生はため息をついた。私たち助手も、同様の気分である。
「たとえどういう形であっても、男がそばにいればよかったのかなあ。なんか……わかんないなあ」
今日の死体検案の結果は、すでに出ている。
大まかではあるが、事件の状況もつかめた。
つまり、こうだ。
男──兼松五郎は、1ヶ月前、アパートの室内で、須田真知子に包丁で刺殺された。
現場の血液反応から、それは間違いない。凶器はきれいに洗われて、台所の包丁立てに置かれていた。
動機は──別れ話のもつれか、なんなのか、正確なところはわからない。
そして、須田真知子の死因は、「衰弱死」であった。「餓死」と言ってもいい。
兼松五郎を殺したあと、須田真知子は死体を布団に寝かせ、自らも布団に入り、寄り添った。
そのまま、食事も一切とらず、ただひたすら、死体と共に過ごしたのだ。
須田真知子は、死後数日であった。ほんの少し前までは、生きていたことになる。
和美の話と考え合わせると、犯行の直前に、同窓会に出席したわけだ。
しあわせは人それぞれ……そんな言葉では、あまりにも陳腐だ。
本当に、それがあんたのしあわせだったのか、須田真知子。
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朗読:ビストロ怪談倶楽部様