6.夜の疾走
結局、その日一日、何一つ修行できなかった。
修行をする気には、到底なれなかったのだ。
寺に戻り、幻妙師に「体調が悪いから日課はすべてパスする」と言って、返事を待たずに自室にこもった。
食事を取る気にもなれず、すでに時刻は0時近くになっている。
拓実はどうするつもりなのか。
「常世へ行ってみたい」というあの言葉は、拓実の自殺願望が言わせたものなのか。
いや待て。
拓実の周囲にまとわりつく影があったのは事実だ。
拓実にもそれが見えているような口ぶりであった。
しかも拓実は、影を「あいつら」と呼び、父親を殺した犯人を殺すことを頼んだと言った。
そこまで考えて、神代冴子はようやくあることに思い至った。
拓実は妖しに憑かれているのか。
妖しに憑かれたために「見える」ようになったのか、「見える」から妖しに憑かれたのか。
自分の手に余るのは、考えるまでもない。
幻妙師と幻丞の力を借りるしかないだろう。
だがどう説明すればいいのか。
神代冴子自身、混乱の極みなのだ。
明日。
明日、幻妙師と幻丞に話そう。
対策を練るのはそれからだ。
そこまで考えたとき、携帯電話が着信の電子音を発した。
驚愕して飛び上がり、あわてて携帯電話をつかむ。
「も、もしっ。もしもっ」
『俺。──もう寝てた?』
拓実であった。液晶ディスプレイには『コウシュウ』と出ている。どこからかけてきているのか。
「まだ起きてた。今どこ」
『白浜の三段壁洞窟。そこの公衆電話から』
「ちょっ。なんでそんなところにいるんだよ」
『いやあ。今朝、サエ坊にうっかりしゃべっちまっただろ。あいつらのこと。おめーのことだから、明日あたり、じいさまにチクるんじゃないかと思ってさ』
図星であった。
さすがに幼なじみだ。神代冴子のことをよくわかっている。
『だから、今日出発することにした』
「しゅ、出発って、どこに!」
『──とこよ。あいつらに連れてってもらう』
「ま、待てっ! ちょっと待って!」
神代冴子の声が裏返った。
「こ、これからそっちへ行くから、もう少し待って!」
『えー、これから来るのかあ?』
まるで普通に待ち合わせを約束するように、のんびりとした口調で拓実は言った。
『まあ、気をつけてな。あんまりいつまでも待ってられないぜ』
電話が切れた。
携帯を持つ神代冴子の手が震えていた。
危惧は当たった。
それも、もっとも悪い形で当たった。
拓実は妖しに取り憑かれ、常世へ向かおうとしている。
躊躇している時間も、考えている時間もない。
神代冴子は自室を飛び出した。
「じいさまっ! じいさま起きてっ!」
神代冴子は幻妙師の寝室ドアを力任せに叩いた。
「どうした。こんな時間に、なんだ」
さすがに驚いて、幻妙師がドアを開けた。まだ起きていたようだ。
「じいさま、独鈷杵貸してっ!」
神代冴子は一方的に言った。
「独鈷杵を? どうするのだ」
「いいから貸してっ!」
神代冴子の剣幕に押され、幻妙師は常に懐中に忍ばせている独鈷杵を取り出し、神代冴子に手渡した。
ひったくるように受け取った神代冴子は、幻妙師の部屋を飛び出した。
その後ろ姿に、幻妙師が叫んだ。
「待て冴子! どこへ行くのだ!」
「三段壁洞窟! 拓実が常世へ行くって言ってる!」
振り向きもせず、神代冴子は叫び返した。
続いて、幻丞の自室へ行く。
騒ぎに気づいて、すでに幻丞は廊下に出ていた。
神代冴子の姿を見て、声をかける。
「お嬢。どうしました」
「幻丞。K1200貸して」
幻丞は目を丸くした。
「今から出かけるのですか? それはどうかと……」
「いいから、貸してってば!」
幻丞もまた神代冴子の剣幕に押され、すなおにバイクのキーを手渡した。
キーを持った神代冴子は、裏口へ向かった。
さすがに雪駄ではバイク運転がむずかしいことに気づき、スニーカーを履く。着ている物はいつもの作務衣のままだ。
作務衣の腹部にあるポケットに独鈷杵を収め、BMWの1200ccバイク、真っ赤なK1200RSにまたがった。
セル一発でエンジンがかかった。
「お嬢!」
追いついてきた幻丞が声をかけた。
「和尚と一緒に後から行きます。気をつけて」
うなずいて、チェンジペダルを踏み込むと同時にクラッチをつないだ。
土を巻き上げ、K1200RSは猛然とダッシュした。
奥の院横の道を抜け、高野龍神スカイラインへ入る。
スカイラインと言うと聞こえはいいが、実際はヘアピンなどの急カーブが続くワインディングロードだ。
峠向きではない重い車体のK1200RSを、神代冴子は信じがたいスピードで走らせた。
深夜の地方国道に、路面を照らす街路灯などはない。あるのは、前方を頼りなく照らすヘッドライトだけだ。
グリップを握りしめ、全身の力でコーナーをクリアする。外側ステップに荷重をかけ、絶妙のタイミングでリアタイヤを滑らせる。コーナー出口で、フルスロットルで立ち上がる。
全力でバイクを操る神代冴子の肩に、誰かが手を置いた。
「……行くなよ」
神代冴子の耳に、そうささやく声が聞こえた。
レッドゾーン近くまで回している状態で走行し、かつ、ヘルメットをかぶっていない神代冴子に、ささやき声など聞こえるはずがない。
それでも、そのささやき声は聞こえた。
神代冴子の背中にぞくりとしたものが走った。
高野山に住む妖しが、自分を止めようとしている。
自分が行くと、都合が悪いということか。
こいつらは、拓実に取り入った妖しの仲間なのだろう。
「……行っちゃだめだよ」
再び、ささやき声が聞こえた。
「やかましいっ! 邪魔するなっ、くそったれっ!」
神代冴子は叫んだ。
コーナーを立ち上がって、フル加速する。
身体を後ろに持って行かれるようなGがかかり、それに耐えるため、前傾姿勢を取る。
ハイビームにしたライト内に、突然子供の姿が入ってきた。
幼稚園ぐらいの、男の子だ。
高速で向かってくるバイクに、身体をこわばらせて、道の真ん中で立ちすくむ。
右手と右足が一瞬ぴくりと反応したが、神代冴子はそのまま子供に向かって突っ込んだ。
なんの衝撃もなくK1200RSは走り抜け、子供の姿は消え去った。
危ないところであった。
身体の反応に任せてフルブレーキングしていたら、転倒は避けられなかったはずであった。
こんな場所にこんな時間、子供がいるはずがないと気づいた神代冴子の勝ちであった。妖しどもの仕業だ。
神代冴子はさらにグリップをひねり、白浜へバイクを走らせた。
7.常世へ続く道
三段壁。白浜温泉街から約3キロの位置にある、長さ2キロ、高さ50~60メートルの大岸壁で、断崖絶壁の名勝として知られている。また、自殺の名所という不名誉なことでも有名で、自殺防止の立て札があちこちに立てられ、心霊スポットとしても有名だ。
三段壁洞窟とは、三段壁の地底36メートルに広がる海蝕洞窟のことを言う。源平合戦で知られる熊野水軍の舟隠し場の伝承が残っている。
現在の三段壁洞窟は見学のために整備され、地上には拝観のための受付があり、そこからエレベーターに乗って洞窟まで下るようになっている。
昼間の三段壁洞窟入り口
県道34号線の右側に三段壁の土産物屋が見えた。この奥が白浜三段壁洞窟だ。
高野山からここまで100キロ強。めいっぱい飛ばしたつもりだったが、90分を少し越えてしまった。
神代冴子はフルブレーキングしてK1200RSの尻を振った。県道を横切り、奥へ続く細い道に入る。
いくらも進まないうちに、「名勝古跡 三段壁洞窟」と書かれたのぼりが見えた。
ガラス窓で囲まれた建物がある。そこが三段壁洞窟の受付兼入り口だ。
再びフルブレーキングする。
リアタイヤがズルッと滑り、転倒した。
横になったバイクをそのままにして、神代冴子は建物へ走った。
深夜の2時近くだ。営業しているはずもない。拓実はどこにいるのか。
建物の入り口まで行くと、自動ドアが作動した。
ぎょっとして、思わず身を引く。
建物の中には非常口への案内灯があるだけで、なんとか手探りで歩かずに済むといった程度の明るさだ。
あたりをうかがいながら、建物内に入ってゆく。
形ばかりに並べられた土産物売り場の横に、洞窟へ降りるエレベーターがある。
ポジションを示すランプが点灯している。──エレベーターも生きている。
拓実は下か。
神代冴子は下行きのボタンを押した。
作動音と共に、扉が開く。
中には誰もいない。
頭だけを入れて、左右を見る。やはり、何もいない。
エレベーターに乗り込んで、地下へのボタンを押した。
扉が閉まり、一瞬、身体が浮くような感覚がして、エレベーターのケージが地下へ降り始めた。
30秒ほどで地下洞窟に到着し、扉が開く。
意外にも、地下には照明が点いていた。──と言っても、セピア色の暗い電球だ。正面に、等身大の人形が立っている。記念撮影用の熊野水軍人形だ。
人形に向かって左側に洞窟への順路がある。
神代冴子は洞窟へ入っていった。
三段壁洞窟は観光用に整備されたもので、それほど広くはない。一回りするのに、5分もあれば十分だ。
洞窟内にも、暗い照明が点いている。歩くには不自由はない。
波が打ち寄せる音が絶え間なく響いている。
「拓実。いるのか」
神代冴子は叫んだ。
「来たのかサエ坊。遅かったなあ」
洞窟の奥から、拓実の声がした。
声が耳に入ると同時に、神代冴子は駆けだしていた。
通路の突き当たりは、海蝕洞窟の突き当たりでもある。そこで波は砕け、激しい水しぶきを上げる。
さすがに危険なため、柵によって先までは行けないようになっている。
「拓実」
「おう」
通路の突き当たりに、拓実はいた。突き当たりの柵に座っていた。
だが、いたのは拓実だけではなかった。
柵に座る拓実の周囲を取り囲むように、妖しどもがいた。
いつかの稲荷のときのように?
いや、あのときよりもはっきりとした姿だ。
ガリガリにやせ細った人間。その皮膚をすべて剥がせばこうなるであろう。
性別も年齢もわからない。そもそも元が人間であるのかどうかさえ不明だ。「人の形」というだけの代物であった。
全身にぬらぬらとした血と粘液をまとわりつかせた姿は醜悪そのものであった。
そんなおぞましい連中が、拓実の周囲に何体もいる。
電波状態の悪いテレビのようにときおりぼやけるので、正確な数はわかりにくい。ざっと見て十数体というところか。
──こんな醜悪な姿だったのか。
──拓実に取り憑いていたのは、こんな化け物だったのか。
神代冴子は作務衣のポケットから独鈷杵を取り出した。
「拓実。ここで何するつもりだ」
「言ったろ? 常世へ行くんだってば」
周りにたむろする妖しを気にするそぶりもなく、拓実は言った。
「目を覚ませ! お前はあいつらに取り憑かれてんだ!」
「そんなことはないって。こいつらが、親父の仇を討ってくれたんだしな。俺に文句はねーよ」
そう言って、拓実はひょいと柵から降り立った。続いて、柵を乗り越え、波が砕ける縁に立つ。海面までは2メートルもない。
「じゃあな。そろそろ行くわ。最後にサエ坊の顔を見れてよかったよ。わざわざ来てくれて、ありがとうな」
「待てって! 常世なんて、ありゃしねーよ! そんなもんは、空想の産物なんだ!」
「そうかあ?」
拓実は不思議そうな顔で言った。
「じゃあ、こいつらはどこから来たんだ?」
拓実の言葉に呼応するように、妖しどもがゆらゆらと揺れた。
「待てって!」
拓実に走り寄ろうとした神代冴子の前に、妖しが立ちはだかった。
「どけえっ!」
独鈷杵を持った手で九字を切り、続けて掌底を叩き込んだ。
真正面から一撃を受けた妖しが血と肉片をばらまいて飛び散り、消え去った。
右から飛びかかってきた妖しに、独鈷杵を突き出す。細片となって、千切れ飛んだ。
左右から同時に飛びかかる妖しに対し、右側は独鈷杵、左側は掌底を叩き込んだ。
続けて、正面の妖しに向け、刀剣のように独鈷杵を振り下ろした。妖しは真っ二つになって、消えた。
わずかな時間で、妖しの数は半数になっていた。
「すげえなあ」
柵の向こう側に立って、拓実が目を丸くした。
「サエ坊、いつの間にそんなに強くなったんだよ。じいさまよりすごいんじゃねーのか」
「行くなっ! 拓実っ!」
再び拓実に走り寄ろうとした神代冴子の左腕を、何者かがつかんだ。
振り向きざまに、腕をつかんだ「何者か」に独鈷杵を叩き込もうとした神代冴子の手が止まった。
「じいさま」
遅れて到着した幻妙師であった。すぐ後ろに幻丞もいる。
寺所有の4WDで追ってきたのだろう。
「行くな冴子」
首を横に振りながら、幻妙師は言った。
「もう、遅い。拓実は取り憑かれているのではない。拓実自らが望んでいるのだ。もはや我らに止めるすべはない」
「じいさまも来たのかあ」
場違いに明るく、拓実は言った。
「じいさま。悪いけど冴子を押さえててくれっかな。じゃまされちゃかなわね」
そう言うと拓実は、波が砕ける海面にひょいと飛び降りた。
「あ、ああっ!」
思わず叫び声を上げた神代冴子だったが、すぐに、驚愕のあまり目を見開いた。
拓実が立っている。
波が砕け散る、時化の海のような洞窟内の海面に、平然と立っている。
洞窟入り口──太平洋に向けて口を開いている洞窟入り口が、異様に明るくなっていた。
夜明けのはずはなかった。
夜明けまで、まだ数時間はある。
太陽の光であるはずがなかった。
光はみるみる洞窟内にあふれ、あたりは真昼のようになった。
「常世への道か……」
幻妙師がぽつりと言った。
いつしか、海面も静かになっていた。
「じゃあな、サエ坊」
海面に立って、拓実が手を振った。
「もう、思い残すことはねーよ。サエ坊に『大人』にもしてもらったしな。ああそうだ」
拓実は、シャツの胸ポケットからタバコのパッケージを取り出した。神代冴子に向けて放り投げる。
神代冴子はそれを両手で受け取った。
幻妙師はもう神代冴子の腕を握ってはいなかった。
神代冴子も、拓実を止めるのは半ばあきらめていた。
「それ、まだ残ってるから、やるよ。──じゃあな」
拓実は言って、光に向かって歩いて行った。
ハレーションのように、光の中に拓実の姿が消えてゆく。
「たくみ!」
神代冴子が叫ぶと同時に、光が消えた。
あとには、いつも通りの薄暗い洞窟内の通常照明だけが残った。
波が砕ける音も、元に戻っていた。
拓実を取り囲んでいた妖しどもも、いつの間にか消えていた。
8.神代冴子の進路
翌日。──と言っても、三段壁での出来事から数時間もたっていない。
幻妙師の書斎に、幻妙師と神代冴子の姿があった。
神代冴子の目は腫れぼったくなっていた。明け方まで泣きはらしたのだろう。
「──落ち着いたか」
幻妙師が言うと、神代冴子はうなずいた。
「じいさま。拓実を止める方法はなかったのか」
神代冴子の言葉に、幻妙師は首を横に振った。
「妖しに惑わされたのならば、まだ手だてはあった。だが、あれは拓実が望んで呼び寄せたのだ。そうなれば、もはや止めるすべはない」
「……じいさま」
「なんだ」
「常世って、なに」
「さてなあ」
神代冴子の問いに、幻妙師はあごをつまんで首をかしげた。
「あの世。極楽。黄泉。異界。地獄。エデン。ヘブン。ビヨンド。──まあ言いようはいろいろあるだろうが、つまりは『ここではないどこか』よ。答えになっとらんか」
神代冴子はしばらく黙っていた。
幻妙師の言葉に納得したのかどうかはわからない。
「……冴子?」
「……じいさま」
「なんだ」
「考え変えた。あたし、大学に行く」
「そうか」
幻妙師はうなずいた。
「先のことになるだろうが、大学には教員課程もあるのでな。いずれどこかの学校に行ってもらうことになるやも知れんな」
「教師になれと?」
「学校の中に入るには、教師がもっともいいということだ。どういうわけか、学校にはけっこうやっかいなものが住み着いていることが多くてな。それを退治てもらうこともあるかも知れんということだ」
「……わかった」
うなずいて、神代冴子は口を閉じた。唇を噛みしめているのがわかる。
幻妙師は、痛ましいものを見る目で、神代冴子を見つめた。
「……冴子」
「なに」
「泣きたいときは、正直に泣いていいのだぞ」
幻妙師のその一言がとどめであった。
肩を震わせた神代冴子は、次の瞬間、声を上げて泣きじゃくった。
9.そして現在
黒神邸、拝殿の間。
「冴子さん」
黒神由貴の祖母、黒神千代が、神代冴子に声をかけた。
「……は」
高野山にいた頃のことを思い返していた神代冴子は、突然呼ばれてとまどった。
「一つどうですか」
見ると、千代は神代冴子が持参したシュペットレーゼを開封していた。手近なグラスに注ぎ、差し出している。
「なに。もう開けちゃったの」
笑いながら、グラスを受け取る。
「せっかくのワインです。みんなで飲むのもいいでしょう」
「みんなって」
黒神由貴の方を見ると、彼女もまたグラスを両手で持ち、ちびちびと美味しそうに飲んでいる。
「ちょっ、黒神さんあなた、未成年でしょ……」
言いかけて、笑った。
「まあいいか。今日ぐらい」
稀代の能力者三人、ワインを飲んでくつろぐ、平和な初夏の昼下がりであった。
作者注:
萬燈供養会において、大松明行列は
2006年以降は行われていません