北九州・小倉。駅から徒歩5分ほど、非常に高い料金の公衆浴場が密集したところがある。
その中に、10階建てぐらいの、けっこう大きなビジネスホテルがある。
いろんな意味で便利なので、いつもそこに宿泊している。
数年前のこと。
夜中、何かざわついた声が聞こえたような気がして、ふっと目覚めた。
廊下で誰かがしゃべっているような雰囲気。
「うっせーなあ……」
ビジネスで利用する中年オヤジが多いホテルなので、酔っぱらいかと思ったのだ。
だが、聞くともなく聞いているうちに、酔っぱらいがわめいているのとは違うように思えてきた。
何か、ちゃんとしたことを話しているようだ。
安い宿なので、部屋の中から廊下を見られるようなレンズはない。
ベッドを出て、ドアに近づいて聞き耳を立てる。
「……昨今の政治情勢は、きわめて憂慮すべき状態で、現政権における指導力の無さは……」
なんだ、これは?
新聞の政治欄を朗読でもしてるのか?
どこかの部屋からTVの声が漏れ聞こえてくるのではない。
確かに、廊下で話している。
やがて、その声がだんだん大きくなってきた。
「一方、野党側の弱体化も目をおおわしむるものがあり、単なる権力争いに堕落し」
声は大きいのだが、トーンは平静のままである。選挙演説のような叫びではない。
TVの政治解説者の話し方で、ボリュームを最高に上げたような感じである。
ドアに耳をくっつけるまでもなく、いやでも聞こえてくる。
ここにいたってやっと、
「廊下にいるのはアブナイ人間だ……」
と確信した。
そのとき、ドアのノブが「ガチャリ」と音を立てた。
心臓が飛び上がった。
「この部屋に入ろうとしている!」
ドアはオートロックである。そう簡単に入ることはできないが……
数回ガチャガチャと回して、すぐに止んだ。
ほっとした次の瞬間、
「どん!」
とドアに体当たりしてきた。
「おい、冗談じゃないぞー!」
「どん!」
「どん!」
「どん!」
体当たりのたびに、少しずつ少しずつドアの隙間が大きくなってきた。
オートロックの他に、いつも用心のために掛け金をしているが、それもだんだん歪んできているようだ。
「外交問題も山積している状態で、国内のつまらないことに汲々としているような有様では」
体当たりしている間も、例の政治解説は続いている。どう考えても、異常だ。
「どん!」
「どん!」
「どん!」
ドアが、10センチもの隙間があくような状態になってきた。
私はもう、ただ呆然とそれを見つめることしかできなかった……
………………私はベッドから体を起こした。
心臓がバクバク言っている。
真夜中の、ホテルの部屋だ。
「ゆめ……?」
夢だったのか……?
だって、さっき確かに起きあがって、ドアのところまで行ったじゃないか……
震えが止まらない身体をむち打ち、ドアのところまで行く。
掛け金も、蝶番も、異常ない。
おそるおそるドアを開け、左右に延びる廊下を見る。
誰もいない。
普通の、真夜中のホテルの廊下であった。