1.夢の中で
夢を見た。
街の中……というか、住宅街のようなところに、私は立っていた。
真っ暗なので、どうも真夜中らしい。
周りの家々も、黒いシルエットになっていて、本当に住宅街なのかどうか、実際には怪しい。
ただ、私が立っている道の幅から、そんな風に感じた。
そんな住宅街の、暗い道の真ん中にただ立っている。
心細い。
突然、暗がりの向こうから黒神由貴が現れた。
「あ、くろかみー」
知った顔を見たので、私はほっとする。
「真理子……悪いんだけど、ちょっと頼まれてくれないかな」
黒神由貴は言った。
両手で何かを抱えている。
「この子……少しの間、見ててほしいんだけど」
「この子?」
よく見ると、黒神由貴が抱えているのは、産着にくるまれた赤ちゃんであった。
「どうしたの、この赤ちゃん。あんたの子?」
「違う違う。私、他に手が離せない用事ができちゃって。戻ってくるまで、この子を預かってほしいの。すぐに戻るから」
「ああ、うん……いいよー。抱っこしていればいいんだ?」
「うん。……ただね」
私に赤ちゃんを預けながら、黒神由貴は言った。
「私がいない間、何があってもその子を抱いていてほしいの。誰かがその子を渡せって言うかもしれないけれど、それでも。──じっとしていれば、危ないことはないから」
「おっかないなー。とにかく、こうやって抱っこしていればいいのね?」
危なっかしい手つきで赤ちゃんを抱きながら、私は言った。
「うん。面倒なこと言ってごめんね。じゃ、なるべく早く戻るから」
そう言うと、黒神由貴は現れたときと同じように、暗がりの向こうに走り去っていった。
再び、私は住宅街の真ん中に一人取り残された。
って、一人じゃないか。この赤ちゃんがいるな。
なんなんだろ、この子。
黒神由貴の親戚の子か何かかな。
赤ちゃんの顔をのぞき込む。
かわいい顔で、すやすやと眠っている。
まあ、ごく普通の赤ちゃんだ。
ふと、腕が妙に疲れていることに気づいた。
まだそんなに長時間抱っこしているわけでもないのになあ……
そう思って、ちょっと赤ちゃんを揺すって、抱き直してみた。
ずん、と赤ちゃんが重くなるのを感じた。
あれ、持ち方が悪かったか? と思ったが、すぐにそうではないことに気づいた。
赤ちゃんが、だんだん重くなってきている。
そんなバカな、と頭では思うが、現実に腕に感じる重さは、黒神由貴から受け取ったときの倍ぐらいには感じられた。
しかもなお、赤ちゃんは重くなってゆく。
(なんなんだよ、これ……)
私は心の中で悲鳴を上げていた。
この子って、もしかして、お化け?
重くなっていくお化けとか妖怪って、いたっけ……
「子泣き爺」は……あれはおんぶだっけ……
腕が、赤ちゃんの重さでしびれてきた。
実際はどうかわからないが、感覚としては、小学生を抱えているような感じだ。
正直、めちゃめちゃ気味が悪かった。
できることなら、どこか台でもあれば赤ちゃんを降ろしたいところだったが、道の真ん中に、そんな物があるわけもない。
それに、私は赤ちゃんを抱えている、と黒神由貴と約束した。
そんなところは、妙にバカ正直な私だ。
(くろかみー、早く戻ってきてよー。お願いー)
私は心の中で、必死に言った。
そのときだった。
「赤子を渡せ」
どこからか、そんな声がした。
低い、ドスの効いた声だった。
私は無意識に赤ちゃんをかたく抱きしめ、身がまえた。
暗がりの向こうに、何かの気配がした。
何も見えない。
だが、何かおぞましいものがいるのは感じられた。
「その赤子を渡せ」
「それ」は、再び言った。
「やだ」
私は言った。
黒神由貴との約束もあったが、「それ」に赤ちゃんを渡すと、何か良くないことになるように思ったからだ。
そして、そのえらそうな物言いにもむかついていた。
「渡せ」
「やだっ!」
強く言って、私は「それ」の気配に背を向け、赤ちゃんを胸に抱え込んだ。
もし襲ってきたらひとたまりもないな……
そんな思いが頭をよぎったが、「それ」は何もしてこなかった。
声もかけてこない。
しばらくして、顔を上げてみた。
気配が消えていた。
相変わらず真っ暗な道の真ん中に立っていたが、暗がりの向こうに何かが潜んでいるような気配は消えていた。
──と、暗がりの向こうから、黒神由貴が小走りでやってきた。
「遅くなってごめん」
今まで何をしていたのか、黒神由貴は少し息を切らしていた。
よく見ると、汗もかいている。
「おかげさまで、助かったわ。ありがとう」
言いながら、黒神由貴は両手を私に伸ばした。
無意識に赤ちゃんを渡そうとし、私はそのときになって、赤ちゃんが元通りの重さに戻っていることに気づいた。
「……あれ?」
「ありがとう」
もう一度黒神由貴が言うと、周りの景色がぼやけてきた。
元々暗がりだったのだが、周りすべてが暗くなっていく感じだった。
そんな夢。
朝起きたら、細かい部分はほとんど忘れていた。
なんか妙な夢だったなあ……と、そんな程度。
星龍学園の制服に着替え、手早く鞄の準備を整えると、私は1階のリビングに降りた。
母親はテレビのモーニングショーをながめていた。
私はテーブル上の大皿に盛られたバターロールを2つ3つと口に押し込み、ミルクで流し込んだ。
「今テレビでやってたんだけどね、昨日、なんか大変なことがあったんだって」
ふと、母親が言った。
「大変って? 強盗殺人か何か?」
「そんな物騒なのじゃなくって……どこかのお嫁さんが真夜中に急に産気づいちゃったらしくてね。救急車を呼んだんだけど、病院に運ぶ途中で、危なく死にかけたんだって。難産で。──実際、お嫁さんも赤ちゃんも、仮死状態に近かったんだって。で、救急隊員の人があれこれしたけど、なかなか回復しなくて……もうだめかと思ったところで、突然息を吹き返して、救急車の中で出産したんだってよ。そんなことって、あるのねー」
「ふーん。行ってきまーす」
切迫した朝、母親の話にゆっくりとつきあっている暇はない。
私は適当に返事をすると、家を出た。
星龍学園は、いつもと変わらない。
何ごともなく授業を受け、1日が終わった。
で、帰り道。
珍しく、黒神由貴の方から、アイスクリームショップに誘われた。
断る理由もない。
店に入って何にしようかと選んでいると、
「今日は私がおごるから。なんでも好きなの選んで。ダブルでもトリプルでもいいし」
と、黒神由貴が言ったので、私は耳を疑った。
「え……マジっすか?」
トリプルのアイスをなめなめ、私は黒神由貴に訊いた。
「ねえ、なんでおごってくれたの? なんか臨時収入でもあったの?」
「お礼よ」
黒神由貴は言った。
お礼? 私、何かしたっけか?
ま、いいか。
──なべて世はこともなし。
「わたしはこの土地の氏神です。そして、今夜、わたしの氏子の1人がお産をするので、わたしに助けをもとめてきました。が、陣痛は大変な苦しみでした。すぐに、わたし1人の力では助けてやれない事がわかりました──そこでわたしは、あなたの力と勇気に助けをもとめたわけです。わたしがあなたの手にお渡しした子供は、まだ生まれる前の子供でした。そして、はじめて、だんだん重くなるのを感じられたときは、たいそう危険だったのです──産道が閉じていたからです」
小泉八雲「梅津忠兵衛のはなし」
新潮文庫
小泉八雲集 上田和夫訳より
2.地下鉄にて
銀座に出かける用があって、地下鉄銀座線に乗った。
座席はそこそこ詰まっていたので、私はドア横のスペースに立った。
びっちり詰まった満員状態だったら、こんな所に立ったら痴漢の餌食だが、この程度の混み具合であれば、まずその心配はない。
しばらく地下鉄車両内の広告をながめていたが、やがてそれにもあきて、ドアの外に眼をやった。
窓の外と言っても、見えるのはもちろんトンネルの壁だけだ。
ただ、駅を出てすぐと、到着する寸前は、対向の線路とか、その間の空間が見える。
銀座の一つ前の駅、新橋駅に入る直前、隣の線路との間の空間に、子供がいるのが見えた。
(え?)
何かの見間違いかと確認する間もなく、地下鉄は新橋駅に到着した。
ドアが開き、客が乗降して、ほどなく発車する。
(今……小さい子が走り回っているように見えたけど……まっさかなあ)
そう思いながらも、ドアの外を見ずにはいられない。
いた。
はっきりとは断言できないが、駅に着く直前に見た子と、同じような気がする。
5歳ぐらいの、男の子。
さっき見たのと同じように、隣の線路との間で、走り回っている。
その子の横を通り過ぎるとき、その子が顔を上げた。
私と目が合った。
にかっと笑って、その子は手を振った。
車両の中で、私だけが固まっていた。
やがて地下鉄は銀座に到着し、私は下車した。
ちなみに銀座線で小さな子供が事故で死んだということはない。
あれはなんだったんだろう。
3.病は「き」から
長く患っていたクラスメートの尚美が、明日から登校できるというので、見舞いを兼ねて様子を見に尚美の家に出かけた。
尚美が体調を崩して休んで、すでに数ヶ月になっていた。
癌だの白血病だの、大きな声では言えないような噂も、当然のことながら飛び交った。
──が、しかし、とにかく明日から登校だ。めでたい。
もう余命がないので、死ぬ前に1度、クラスメートの顔を見るために……
縁起でもないことが、頭をよぎった。
まさかね。
尚美の家が近づいた頃、前を歩く女性の姿に気づいた。
あれって……
「神代先生」
声をかけて振り向いた女性は、まさしく神代先生であった。
「あら。あなたも山崎さんの所へ?」
山崎というのが尚美の姓だ。
「はい。明日から復帰って聞いたので、見舞いを兼ねて。先生もですか?」
「ううん。私は御両親の方に用があって。すぐに済むけどね」
やがて尚美の家の目印でもある、ケヤキの大木が見えてきた。
あの木を目印にすれば、尚美の家に行くのに、絶対に迷うことはない。
私と神代先生は、尚美の家に入った。
あまり長居もなんなので、適当なところで帰ろうとすると、応接間で、「それではそろそろ……」という声が聞こえた。
ちょうど神代先生も帰るところだったようだ。
自然と、並んで帰ることになる。
尚美の家を出て少しした頃、「ちょっと失礼」と言って、神代先生が携帯を取り出した。
「……ああ、もしもし私。例のケヤキの家の件だけど。うん。とりあえず解決したわ。また切る気になったら、今度はやばいかもしれないけどね。でもまあ、たぶん大丈夫とは思うわ。──ああ?」
突然、神代先生の声のトーンが変わった。
「ざけんじゃないわよ。私の胸を触ろうなんざ、100万年早いっての。ったく、スキあらば胸だの尻だの触ろうとしやがって、このエロ坊主が。地獄に堕ちろ馬鹿」
荒々しく携帯を切る。
私が目を丸くしていると、神代先生は振り返って尚美の家を見た。
正確に言うと、尚美の家の、ケヤキの大木を見た。
「……山崎さんから、あの木のこと、聞いた?」
いきなり話題が変わったのでとまどいつつ、私はうなずいた。
「ええ……なんか、あの木を切るって決めてから、尚美の具合が悪くなったって……。
で、ちょっと前にふらりとお坊さんがやってきて、『あの木を切るのをやめなければ、お嬢さんは助からない』と言ったって……って、あれ? そのお坊さんって、先生の知り合いなんですか?」
「山崎さんが体調を崩してすぐ、家に行ってみたのね。──で、すぐにあの木が元凶だってわかったんだけど、一介の美貌の臨時教師がどうのこうのと言ったって、信憑性がないでしょ?」
神代先生の言葉の中で、一部突っ込みたい部分があったが、私はあえて口をはさまなかった。
「でまあ、知り合いの坊主に頼んで、木を切らないようにさせたのよ。その坊主も、それなりに経験豊富なヤツなんでね」
「で、もう木を切るのはやめたんですか?」
「御両親はそう言ってたけど。内心では、あの木を切ること、けっこう気にしてたみたいね。切るのをやめたとたんに山崎さんも健康になったし、めでたしめでたしよ」
「ふう~ん」
私も尚美の家を振り返ってケヤキの木を見ながら、言った。
「『病は木から』ってことですね」
数秒ほど、神代先生が固まった。
「……んー、まあ、一応国語教師である立場としては、そういう間違いは正すべきなんだろうけど、言い得て妙だわね」