単品怪談

私と私がすれ違う


「さっき、とてもいやなことがあったような気がする」

 奇妙な風景の中に、私はいた。
 灰色がかった、ミルク色の霧の中。
 そこに、ぽつんと立っている。
 周りには何も見えない。
 前方から、少し強めの風が吹いてくる。
 いつからこうしていたのか、記憶がない。
 ただ、ついさっき、非常に不愉快な出来事があったのは覚えている。
 なのに、その肝心な「不愉快なこと」は覚えていない。
 変な話だ。

 そのとき、霧の向こうから、何かの影が近づいて来るのに気づいた。
 だんだんとはっきりしてくるその姿は、小さな子供だった。
 女の子だ。
 女の子は、じっと立っていた。
 なのに、だんだん近づいてくる。
 もちろん、私も歩いているわけではない。
 ちょうど小川が流れるような速度で、なめらかに近づいてくる。

 女の子と、すれ違った。
 女の子は私を見るでもなく、じっと立った姿勢のまま、霧の向こうに遠ざかっていった。
 後ろを振り向いた姿勢で女の子の後ろ姿を見ていた私は、ふと気づいた。
 どこかで見たような子だと思っていたのだが、小さい頃の私に似ているのだ。
 アルバムで、似たような写真を見たことがある。
 今のは、私……だったのだろうか。

「さっき、とてもいやなことがあったような気がする」

 また、霧の向こうから影が近づいてきた。
 今度は、さっきの女の子よりは大きな少女だった。
 中学生ぐらいだろうか。
 さっきと同じように、なめらかな動きで私とすれ違い、霧の向こうに消えていった。
 さっきは半信半疑だったが、今度ははっきり言える。
 今のは、私だ。中学生の頃の、私。

 続いて近づいてきた影は、高校生の頃の私だった。
 これまでと同様、私の方を見るでもなくすれ違い、霧の彼方に消えてゆく。
 私は夢を見ているのだろうか。
 風は相変わらず私に向かって吹き付けてくる。

「さっき、とてもいやなことがあったような気がする」

 次に現れた私の影は、わりと最近の姿だった。
 現在、と言ってもいいかも知れない。
 OLの私。

 続いて現れた影は、初めて私以外の人物だった。
 短大を出て入社間もない頃に声をかけてきてくれた、彼。
 ちょっと軽いところはあるが、優しい人だ。
 ご多分に漏れず、すぐにそれなりの関係になった。

ふと、胸がうずいた。
さっきあったはずの「いやなこと」って、なんだったんだろう。

 次に、ケバいメイクの女が現れた。
 女と、彼と、私が一緒になって、霧の向こうから現れた。
 女と、彼と、私は、もめていた。

「なんなの、この女。まさか、こんなのにまで手を出してんじゃないでしょね」

 女が言った。

「悪い。すまん。ちょっとした気の迷いだって。オレが本気でこんなドブスに手を出すわけないじゃん。つまみ食いっつーか、ボランティアだって」

 女が私をちらっと見て、嘲笑いながら言った。

「ま、そりゃそうだろうけどね」

「ふざけないでよっ!」

 それまで、蒼白な顔色で黙り込んでいた私が言った。

「もういいっ! 死んでやるからっ!」

「好きにしろよ」

「勝手に死ねばあ?」

 彼と女が同時に言って、それを聞いた私は駆けだしていた。

さっきあった「とてもいやなこと」は、これだったんだ。

 走り出した私は、雑居ビルに入った。
 「私」の視線は、その姿を追っていた。

 デパートの窓は開かないから、だめだ。
 エレベーターで最上階まで行って、私は適当なオフィスに飛び込んだ。
 突然飛び込んできた私に唖然としている社員を尻目に、私は窓まで一気に走って、全開にした。
 窓の縁に足をかけ、飛び出す。
 私は、その後ろ姿を見た。

 飛び降りた私の姿を見た瞬間、飛び降りた私とそれを見ていた私は、重なり合っていた。

 そうか。
 やっとわかった。
 前方から吹き付けてくる風は、風じゃない。
 落下する私が受けている風圧なのだ。
 私は、さっき、ビルから飛び降りたのだった。
 やっと思い出した。
 思い出したせいか、急に視界がクリアになった。
 落ちていく視線の先に小さな歩行者の姿があって、それがみるみるうちに大きくはっきりと見えてきた。
 その中に、彼と女がいるような気がして、私はケラケラと笑いながら落ちていった。



「ニュースをお伝えします。
本日午後2時頃、都内**区の繁華街で、若い女性がビルから飛び降り、全身打撲でまもなく死亡しました。
また、このとき女性の真下にいた若い男女2名が巻き添えを受けて死亡しました。
警察では飛び降りた女性と巻き添えを受けて死亡した男女の身元を捜査中です」

「自殺された女性を責めるつもりはありませんが、無関係な人を巻き込むというのは、いかがなものなんでしょうねえ。物騒な世の中です。頭上には注意しましょう」


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