「いいお湯ですねえ」
そんな言葉をかけられるまで、そばに人がいることに気づかなかった。
ここは下北半島にある小さな温泉宿だ。豪華な設備はないが温泉はいわゆる源泉掛け流しで、24時間入浴できる。だからこんな夜中でもふと思い立って入浴することができるわけだが、まさか他に人がいるとは思いもしなかった。
声をかけてきたのは二十代半ば頃の青年だった。
「恐山にも温泉があるのをご存じですか」
青年はさらに言い、私はうなずいた。
「行ったことはありませんが、確か白っぽい硫黄泉でしたね」
「そうですそうです。以前、恐山の宿坊に泊まりまして、宿坊にも温泉浴室があるんですが、境内にも四つほど湯小屋がありましてね、夜中に行ってみたんです」
ちょうど今の私のように、ぶらりと外の湯小屋に出かけたのだろう。
「深夜の境内は真っ暗ですし、恐山に湯治目的で来る人もいませんので、誰もいないだろうと思っていたんです。ところが湯小屋のそばまで行ったら、窓から明かりが漏れていて、なにやら人の話し声が聞こえましてね。まさかこんな真夜中にと思いながら入口の引き戸を開けますと」
ぴたりと、それまでのざわつきが消えたという。
「入口から浴場をのぞいてみましたが、誰もいないんです。──でも」
青年は思わせぶりに、一瞬言葉を切った。
「なんとなく、気配は感じるんです。ええと、わかってもらえると思いますけど、地方の地元住民専用の共同浴場に部外者が入ったときの、『こいつ誰?』というような視線。あの感じでした。──ああそうか。この時間は、生きた人間が入浴する時間ではないんだなと、遅まきながら気づきましてね。『失礼しました』と言って出ましたよ」
なるほど、霊場として有名な恐山なら、いかにもありそうな話だ。
「ところで、あなたもここにお泊まりですか。宿の中ではお見かけしませんでしたが」
私が訊くと、青年は手をぱたぱたと振りながら言った。
「いえいえいえ。泊まりではないです。これから恐山に行くつもりでして」
え、こんな真夜中に? と私が訊く間もなく、青年は浴槽から上がり、浴場を出て行った。湯面にまったく波を立てず、戸も閉じたまま。
私はようやく理解した。これから恐山に行くというのは、つまり、そういうことなのだ。今度は入浴できるといいが。
──まあそれはそれとして、この身体の震えを止めるには、もう少し湯に浸かっていないといけないようだ。
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https://www.youtube.com/watch?v=qw2XbgrsgBA
朗読:ビストロ怪談倶楽部様