大阪市天王寺区下寺町。
──したでらまち、と読む。
名前の通り、多くの寺が集まった町である。
ここは上町大地の上にあり、周辺から見ると高台になっている。そのため、坂や石段が多い。
そのほとんどが昔ながらの風情を残しており、観光と言うには大げさだが、散歩ルートとしては悪くない。
以前この近所に住んでいて、このあたりの地理にはそれなりに詳しい。
今日はたまたま近くまで来たので懐かしくなり、「坂めぐり」をしようと思ったわけだ。
実を言えば、「ささいな恐怖」のネタでも見つからないかというスケベ心も、多少はあった。
「口縄(くなわ)坂」「愛染(あいぜん)坂」など、坂にはそれぞれにいわれがあるのだが、中には「学園坂」のように、坂の上に女子高があるためにそう呼ばれている物もある。それらの坂は総称して「天王寺七坂」と呼ばれている。
ほとんどの坂は、ゆるい坂の先に石段、という造りで、いずれも幅は2メートルから3メートルぐらいの狭さだ。
そんなのが、古い住宅の間に、いくつかある。
観光向けの案内板が各所に設置されていて、それを頼りに、各坂を見て歩く。
そのすべてを昇り降りしていたら体力が持たないので、実際は坂の上に設置されている由来書きを眺めて歩いて行ったわけだが。
残る坂があと一つとなった。
最後の坂に向かいかけたとき、ふと、視界の隅に何かがよぎった。
細い路地。
もしかしたら、坂の入り口。
一瞬、無視して次の坂に行こうかどうしようか、迷った。
このあたりに、坂はないはず……と思った。
ないはずだが……確認しておいてもいいだろう。
路地を入ってみると、はたして坂があった。
これまで見てきた坂よりも、若干幅が狭い。2mにも満たないだろう。
そして、これまでの坂よりも、少しきつめの石段が続く坂だった。
さて、じゃあ何か由来書きでもあるかな……
と、坂の左右あたりを見てみたが、それらしい物は見あたらない。
「天王寺七坂」に入っていないのは確かであるが、由来も何もない私道なのかも知れないなあ……
そんなことを考えながらまわりをきょろきょろと見回していると、背後から声がかかった。
「何か調べ物ですかな」
振り向くと、初老の男性がにこやかに立っていた。
スーツを着て、今時にしては珍しく、昔の探偵がかぶるようなつば付きの帽子をかぶっている。
なかなか上品な紳士だ。
「ああ、いえ、天王寺七坂を見て歩いていたんですが、この坂には見覚えがないもので、何か由来書きでもないかと思いまして。もしかして私道なんですかね」
「ああ、なるほど。そうでしたか」
老人はふむふむとうなずいた。
「ここは七坂には入っておりませんな。確かに、あまり知られてはいない坂です」
「じゃあ、取り立てて名前は付いていないわけですね?」
私は言った。住民専用の道なのだろう。
「いえいえ。一応名前は付いていますよ。通称ですがね。──もっぱら『ざくろ坂』と呼ばれていますな」
「『ざくろ坂』……ですか」
日本の歌でそんなタイトルの歌があったような気がするが、まさかそれとは関係ないだろう。
「ざくろって、あの、木になるざくろのことでしょうか」
「そういうことになりますか。……ただ、その名が付いた由来は、いささか血なまぐさい話があるようですな」
「と言いますと」
「昭和の初め頃でしたかな……。その頃は夜になるとこのあたりは真っ暗で、物盗りだのが出没して、かなり物騒なところでしてな」
そろそろ日が傾いてきて、あたりはオレンジ色っぽくなってきた。
ま、急いで帰る用もない。
私は無言で老人の話を聞いた。
「たまたま、この坂を、地元の『だんさん』が通りましてな。背広にソフト帽という、当時としてはなかなかモダンな格好で」
それって、ちょうど今のあなたのような姿ですか。
思わず、口から出かかった。
でも、どういうわけか、訊けなかった。
「金を持っていると思われたんでしょうなあ。そのだんさん、強盗に襲われたんですな。──まあ実際、当時のだんさんというのは、大金を持っていましたからな」
「で……」
「物陰から突然飛び出して、持っていた獲物で、そのだんさんの頭をぶちのめしたんですな。ふところの財布を奪ったあと、この坂を転がり落として。発見されたときは、この坂の上から下まで血まみれで、だんさんの頭はぱっくりと割れて、ざくろのようだったそうで。──それから、誰言うともなく、この坂のことを『ざくろ坂』と呼ぶようになったようですな」
さらに日が傾き、あたりは夕日で真っ赤に染まった。
「ざくろ坂」の由来を話す老人の姿も、真っ赤であった。
それって、夕日の光のせいだよな?
「まあそれから、この坂ではだんさんの幽霊が出るという噂も立ちましたが、それはお話でしょうな。は、は、は」
老人の額のあたりから何か液状の物が滴ってきているような気がするけど、気のせいだよな?
老人の服とか帽子とかに、何かどす黒いシミのような物が見えるけど、それだって気のせい……だよな?
「よ……よくわかりました。ありがとうございました」
老人に礼を言ったが、その声は心なしか震えていなかっただろうか。
「お役に立てば幸いです。──それでは」
老人はそう言って、帽子をひょいと持ち上げた。
そこに見えたのは、鈍器で殴られて大きく口を開けた傷で、それはまさに、ざくろ。