黒神由貴シリーズ

少女アリス (前編)


きれいになりたい。人気者になりたい。そんな願いは誰だって持っているはずだ。
だから、どこに行っても、いつもそうなるように祈っていた。
お寺でも。神社でも。カトリック系の教会でも。
節操がないと言われようと、かまわなかった。
願いがかなうのなら。

とある神社でお祈りしていた時、声が聞こえた。

あいわかった。そなたの望み、かなえてつかわす。

本当の声ではなかったと思う。
でも、その時からあたしは変わった。






1.路上で痴話ゲンカのこと

「あ、アリスだ」

 知った顔を見つけ、私は思わず言った。
 日曜日、銀座5丁目の歩行者天国だ。
 車道に置かれた椅子に座り、ファーストフードの店で買ったシェイクを飲んでいる。
 私の前に座っているのは、例によって黒神由貴だ。

「アリス?」

 私の声に、黒神由貴はきょろきょろとあたりを見回した。

「あれあれ。あのファンシーなカッコした子」

 私はなるべく大げさな身振りにならないように注意しながら、少し離れたところにいるカップルを指さした。
 「ロリっぽい」と聞いて一般の人がイメージする雰囲気そのままの少女だった。
 顔立ちが幼く、ファニーフェイスというヤツ。そのくせ、ちょっとした時に妙に大人びた雰囲気も見せる。
 体型はもちろんスレンダー。
 小柄だが、一緒にいる大学生っぽい男性とバランスが取れないほどの低身長でもない。150センチちょい、といったところか。
 グラビア・アイドルの大倉優子にそっくりだった。

「えっと……日本人よね? あの子」

 かすかに首をかしげて、黒神由貴が言った。

「『アリス』ってのはニックネーム。本名は、えっと……何とか亜梨紗って言うの。それをもじって『アリス』って呼ばれてるの。うちの学校の1年で、ちょっとした有名人よ」

「よく知ってるわねー」

 黒神由貴が感心したように言った。

「あんたが知らなすぎるの」

「どういうことで有名なの?」

「それはね……」

 私が説明しようとしたとき、その騒ぎが起こった。
 アリスと男性の前に、一人の女性が立ちはだかっていた。

「ちょっとお! なんなのよ、そのガキは!」

 女子大生っぽいその女性は、怒り狂っていた。

「約束バックレといて、うれしそうにガキ連れて、はしゃいでんじゃないわよ!」

 なんとなく察するところ、怒り狂っている女性は、男性の彼女なのだろう。
 彼氏がアリスにちょっかい出しているのがわかって、怒り狂っているのだ。

 三人の周りを歩いていた通行人たちも、何割かは立ち止まって様子を見守っている。
 私と黒神由貴がいるところからは、男性の顔が斜めから見える形になっていた。
 男性は無表情だった。
 無表情すぎて怖いな、と思ったとき、男性の横に立っているアリスの姿が、一瞬かすんだ。──というか、ぶれたように見えた。
 あれ? と思って私は目をこすった。
 と、男性が右腕を後ろに引き、さらに身体を右に捻った。

ばぐっ

 コミックだったら、ページいっぱいにそんな文字が書かれるような感じで、怒り狂っていた女性が吹っ飛んだ。
 男性が、体重を乗せたフルスイングの「グー」で女性をぶん殴ったのだ。
 様子を見ていた通行人たちから、「わっ」とか「ひゃっ」とかいう声が上がった。
 殴った男性は、道路に倒れた女性に近寄り、いきなり蹴りを入れた。

「ぐちゃぐちゃうるせぇんだよ、ドブスがあ!」

 殴ったときと同様、まったく力を加減しない蹴りだった。

「ああ? 何回か抱いてもらっただけで恋人気取りかあ? てめえみたいな腐れマンコ、突っ込んでもらえただけでも感謝しろやあ! おらあ! なんとか言ってみろやあ!」

 女性を口汚くののしりながら、何度も何度も蹴りを入れた。
 お腹。
 太もも。
 胸。
 顔も。
 当初は身をよじってかすかに抵抗していた女性が、抵抗とは違うけいれんを始めるにいたって、ようやく通行人たちが止めに入った。
 背中から羽交い締めにされても、男性は女性を蹴ろうとした。

「ちょっ、おい、誰か救急車!」

 通行人の一人が叫んだ。
 あまりのことに固まっていた通行人たちが、夢から覚めたようにあたふたと動き出した。
 携帯電話する人、女性を介抱する人。
 男性は、羽交い締めしていた人を振り払い、どこかへ行ってしまった。

 私たち?
 私たちは、椅子に座ったまま固まっていた。
 痴話ゲンカというにはあまりにもヘビーな出来事に、身動きできずにいた。

 ふと気づいて、私はあたりを見回した。
 アリスは、いつの間にか、その場からいなくなっていた。


2.もてすぎること

 実は、私は興味本位でアリスのことに詳しいわけではなかった。
 アリスのことを調べるよう、頼まれたのだ。
 それを私に依頼したのは、中等部時代のソフトボール部の先輩であった。先輩は中等部卒業後、別の高校に行ったので、星龍学園高等部にそのまま進学した私にその役目が回ってきたのだった。

 その動機は……まあ、ご多分に漏れず、先輩の彼氏がアリスに熱を上げたためだった。

「先輩。調べるのはいいですけど、どろどろした展開になるのは、いやですよ?」

 頼まれたとき、私は言った。

「それは大丈夫。もう、あいつはこっちからポイしたから。なんかばかばかしくなっちゃって」

 先輩はそう言って、さらに続けた。

「……ただね。ちょっと納得いかないのよ。こう言っちゃなんだけど、私たち、けっこううまくいってたのよ。そりゃ軽い口げんか程度はするけど、そんなのはいちゃつきの延長線みたいなものじゃない。でしょ? それがね、星龍学園の文化祭に一緒に行ったとき、あの子を見てから変になっちゃって。その変わり方が、普通じゃなくって。一目惚れにしても、ちょっと度が過ぎるのよ」

「はあ……」

「……なんつーか、その子がそれだけ人を惹きつけるだけの魅力とか、カリスマ性とか、何か理由があるのなら納得できるのよ。というか、納得したいのかな、私が。だからさ、頼むわ真理子」

 という具合に、半ば押し切られるように頼まれたわけだ。



 先輩に調べるように頼まれた人物のことは、ほとんど苦労もなく調べられた。
 実は、校内ではかなりの有名人物だったのだ。
 校内での調査は、ソフトボール部時代の後輩に訊いた。
 こういうときは、体育系の縦関係はありがたい。

 アウトラインはこうだ。

 ニックネームはアリス。
 亜梨紗という名からの転。
 星龍学園高等部の1年。中等部からのエスカレーター組。
 アイドルの大倉優子とそっくりの風貌。
 家は開業医で、お金持ちのひとり娘。
 要するに、セレブなお嬢様ということだ。
 そして最も重要なポイントは……

異常にもてる

 ということだった。

「……異常にもてるって、何それ」

 その部分を訊いたとき、思わず私は言った。

「言葉通りですよ。入学したての頃は普通にかわいい子って感じだったんですけど、なんか急に、そうなって。街歩けば、ナンパされない日はないって言うし、芸能プロにスカウトされかかったって話もあるぐらいで」

「マジィ? だって、あの子って、そんなに……」

 私は首をかしげた。
 確かにそれなりにかわいいかも知れないが、そんなにバリバリにもてるというイメージではないように思えたのだ。
 私の様子を見て、後輩は言った。

「不思議に思うでしょ? 見た感じ、フェロモン振りまいているような感じでもないですしね。でも実際そうなんですよ。うちが共学だったら、もっとすごいことになっているんじゃないですか? ……だってね」

 ここで、後輩は少し声をひそめた。

「この学校の生徒の中にも、アリスに近づきたがる子がいますもん。あの子のフェロモン、男女関係なしってこと……あ」

 後輩ははっと気づいたような顔をして、私を見た。

「もしかして真理子先輩」

「違う違う違う」

 私は大あわてで手を振った。

「で、何? ということは、その子はみんなの人気者?」

「とも言えませんねー」

 一瞬考えて、後輩は言った。

「半々てところじゃないですか。あの子に彼氏を取られたって子や、単にあの子が持てすぎるのが腹立たしいって子もいますから」

「なるほどねー」

 かくして、私のアリス調査は始まったのだ。


3.アリスについて調べること

 星龍学園からの帰り、私は学園の最寄り駅のホームにアリスがいるのに気づいた。
 アリスも私同様、電車通学組だ。セレブなお嬢様といっても、さすがに車で送り迎えというわけではない。
 なので、帰りに駅のホームでアリスの姿を見かけることはちょくちょくある。
 アリスは、クラスメートや上級生たち数人に囲まれていた。
 もちろん、からまれているわけではない。いわばアリスの「親衛隊」なのだ。
 私がアリスについて調べ始めてから、しばしば見かけた光景だった。
 その、アリスたちが立っているところに、若いサラリーマンが一人、近づいた。
 時間的に見て、営業マンだろうか。
 サラリーマンは、親衛隊は無視して、アリスに話しかけていた。
 話し声は、私が立っている場所からは聞こえないが、ナンパか、それに近いことをしているように思われた。
 親衛隊が一斉にブーイングの声を上げたが、サラリーマンはそれにはまったく取り合わなかった。

 ん。

 私は目をこすった。
 いつかのときのように、アリスの姿が一瞬ぶれたように感じたのだ。
 下を向いてアリスたちから目をそらしかけたとき、アリスたちに誰かが近づくのに気づいた。
 目を上げると、アリスをナンパしようとしていた若いサラリーマンに、中年の男性が殴りかかるところだった。
 まったく無防備だった若いサラリーマンは、数メートル離れたホームのベンチまで吹っ飛んだ。

「なぁに高校生にちょっかい出してやがるんだあ!」

 中年男性は口汚く叫んで、なおもサラリーマンに殴りかかろうとした。
 そこでようやく、周りの電車待ちの客たちに停められた。
 わあわあという騒ぎの中、電車が到着した。
 騒然となっている人たちを尻目に、何ごともなかったかのように、アリスは素知らぬ表情で電車に乗り込んだ。

 アリスの姿がホームから消えた後も、まだざわざわとした騒ぎは続いていた。

「先輩」

 肩を叩かれて、私はぎくりとした。
 叩いたのは、アリスについてあれこれと訊いた後輩だった。

「あ、びっくりした。いたの?」

「今の、驚いたでしょ。でも、珍しいことじゃないんですよ、ああいうの」

「よくあるの?」

 後輩は肩をすくめた。

「しょっちゅうです。でも、変なんですよね」

「何が?」

「ああいう──」

 と言いながら、後輩はさっきの現場の方をちらりと見た。

「大騒ぎになったあと、当事者はなんかキョトンとした顔をしているんですよね。なんでこんなことをしたのかわからない、という風に」

「どういうことよ──」

「さあ……」

 私は言ったが、後輩は再び肩をすくめた。



 調べれば調べるほど、アリスは不思議だった。
 「悪女」タイプの女性というのは、確かに、いる。
 彼女がすでにいる男性の心を自分に向けさせて喜ぶとか。
 男性そのものには興味はなく、人のものを奪うことに快感を覚えるとか。
 男性の心をもてあそぶことに喜びを覚えるとか。
 ……まあ悪女の定義にはいろいろあるのだろうけど、アリスはそのどれでもないように思えた。
 少なくともアリスは、自分からモーションをかけているわけではないらしい。
 彼女がいるにもかかわらず、アリスをひと目見た男性は、アリスに夢中になるらしい。彼女がいない男性は、言うまでもない。
 ちなみに、アリスはいわゆる「ぶりっ子」ではない。
 話し方も普通だし、両耳の上あたりに握り拳をくっつけて「プンプン!」などと30歳過ぎてほざいているノータリン・タレントとは違う。

 調べ始めてわかったのだが、星龍学園内でも、アリスがらみの騒動は少なからず起きているらしかった。
 要するに、私の彼氏にちょっかいを出したとかどうとか、という騒ぎだ。
 危うく教室内で修羅場、ということも二度や三度ではなかったらしい。
 ところがよくしたもので、あわやという時に、アリスに「好意」を持っている生徒が仲介に入るんだそうだ。

 ……とまあ、うわさ話を聞き集めても、限界がある。
 そろそろ別方面からのアプローチが必要だと、私は思った。
 ホームでの騒動のあと、最後に後輩はこう言ったのだ。

「なんかねー、あの異常なもて方を見てると、思いますもん」

 後輩はかすかに眉をひそめた。

「あの子、何かに取り憑かれているんじゃないかって」



 黒神由貴に意見を聞いてみよう。私はそう考えたのだった。
 黒神由貴は、アリスをどう見るか。
 後輩が感じているように、本当にアリスが何か「あやかし」に取り憑かれているのだとすれば、アリスを見たとき、黒神由貴はなんらかの反応があるだろうと考えたのだ。
 さて、じゃあどうやって黒神由貴とアリスを引き合わせるか。
 まさかアリスのいる教室まで連れて行って、「どう? この子に何か取り憑いてる?」なんて訊けるわけもないし。
 どうしたものかと考えていた矢先、銀座の歩行者天国の騒ぎに遭遇したのだった。

 実は銀座での騒ぎのとき、アリスを見つけてからあの騒ぎまで、私はちらちらと黒神由貴の顔を観察していた。
 今までの経験からして、もし本当にアリスに何かあるのなら、黒神由貴の表情に変化があると考えたのだ。
 だが、アリスを見ても、あの騒ぎを見ても、黒神由貴はごく普通の反応しかしなかった。あの騒ぎのときにはびっくりした表情だったが、ああいう騒ぎに遭遇すれば、誰だって驚くに決まっている。
 男性が元カノをぶん殴る直前、黒神由貴は一瞬眉をひそめた。
 だが、それだけだった。
 以前に何度か見たような鋭い目つきにはならなかった。

 ということは、やっぱり、アリスには不思議なことはないということなのだろうか?


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