4.校門前で無理心中のこと
昼休み、黒神由貴にアリスの件で訊いてみた。
今さら遠回しに言っても仕方ないので、率直に切り出した。
「こないだ銀座で、えらい痴話ゲンカ目撃したじゃない?」
「うん」
「あのときの、アリスって子、異常にもてるらしいのよ。それで、ときどき校内でももめたりしてるらしいんだけどね」
「うん」
私は簡単に、今まで調べてわかったことを黒神由貴に話した。
「そのお……何かに取り憑かれて、そういう風になることってあるのかな?」
黒神由貴は目を丸くした。
「『何か』って……この世のものではない、怪しげなもの、とか?」
「うん……」
「昔から、『憑きもの』っていうのはよくあることだけどねー。現代じゃ、精神疾患としてとらえられることが多いんじゃないのかな。それに、何かが憑いて人格が変わることはあっても、『もてる』なんていうのは、周囲の見方が変わるってことでしょ? どうだろ。あんまり聞いたことはないけど」
「そうなの? 今まで、そういう例を聞いたことはない?」
「俗に言う多重人格で、淫蕩な人格になったという例はあるけれど……真理子の話を聞くと、そのアリスって子、そういう風でもないようだし」
「じゃあ……アリスには、何も不審なことはないってこと?」
なんとなくがっくりきて私が言うと、意外にも黒神由貴は即座に言った。
「ううん、そんなことはないよ。確かに、私もあのとき、なんか妙な感じがしたから。ただ、何かに取り憑かれているとか、そういう風な感じじゃなくて、なんて言えばいいのかな」
黒神由貴は、かすかに眉をしかめた。
いい表現が思い浮かばないらしい。
「んー。うまく言えないけど、確かに私も気にはなる」
そこで、昼休み終了5分前の予鈴が鳴った。
続きは、帰り道にでもということで。
……ところが、その帰り道に、とんでもない事件が起こった。
星龍学園は、中等部高等部並んで、広めの歩道をはさみ、片側2車線の車道に面して建っている。午後の授業が終わると、クラブ活動のない生徒たちが、わらわらと校門から出て行く。
私と黒神由貴も、他の生徒に混じって校門を出た。
昼の話の続きをするため、どこかのファースト・フードの店に入るつもりであった。
「あれ?」
先に気づいたのは、黒神由貴だった。
「あそこにいるの、例の彼氏じゃない?」
星龍学園がある側の車道。校門から数メートル離れた路側帯に、こちらにお尻を向けて車が停まっていた。その車の後部にもたれているのは、あの日銀座で大痴話ゲンカをやらかしていた男性であった。
所在なげにタバコをふかしつつ、校門から出て行く生徒をちらちらと見ている。
アリスが出てくるのを待っているのだろう。
女子校の真ん前で待ち合わせとは、いい度胸である。
帰って行く生徒たちがうさんくさげな目で通り過ぎるが、どこ吹く風といったところだ。
普通なら私たちもそのまま帰るところだが、先日のこともあって、その場を立ち去りかねていた。
で、私と黒神由貴はなんとなく目配せして、校門の脇に立ち、やがて出てくるであろうアリスを待った。
──その車に気づいたのは、今度は私の方だった。
アリスが出てくるのを待つのに退屈し、男性の車の反対側に目をやったときに気づいたのだ。
男性の車と同じく星龍学園側の路側帯、こちらに前を向けて、真っ赤な外車が停まっていた。
男性の車よりも校門から離れているため、誰が乗っているのかはわからなかったが、それでも、ドライバーが向かって右側に座っていたので、外車とわかったのだ。
──いや、これは正確な表現ではない。
最初に、車に乗っている人物の異様さが目に付き、その人物が右側にいたので外車とわかった──と言うべきであった。
車の人物の何が異様だったか。
顔全体が、包帯にくるまれていたのだ。
そのため、男か女かもわからない。
わからなかったが、女性のような気がした。
肩幅とかの体つきの他に、車も若い女性好みのおしゃれな感じの車だったからだ。
「ねえねえ、あれ──」と、黒神由貴に知らせようとしたとき、その赤い外車が異様な音を立てた。
耳に突き刺さるような甲高い音。後輪から、激しく白煙が上がっていた。
私が呼ぶまでもなく、黒神由貴も音に気づいて赤い外車の方を振り向いた。
星龍学園の校門付近にいた人間すべてが、音の方を振り向いた。
猛然と、赤い外車がスタートした。
その音のすごさに立ちすくんでいる私たちの前を一瞬で通り過ぎ、赤い外車は例の男性に向かって行った。
赤い外車がたてるタイヤの空回りの音には例の男性も気づき、目線を校門から音のした方に動かした。
赤い外車が自分の方に向かってくるのに気づいたときは、すでに手遅れだった。
男性は口を開きかけたが、叫び声は、衝突の音にかき消されてしまった。
周辺にいた者はもちろん、道路の向かいを歩いていた人たちまでもが、その場に固まった。
それぐらい、ものすごい音だった。
赤い外車は男性の車の後部にぶつかり、前の部分はぐしゃぐしゃになっていた。
ひしゃげたボンネットの隙間から白い煙が激しく立ち上っている。
様子を見ようかどうしようかと、近くにいた生徒が近づきかけたとき、衝撃で歪んだドアをギコギコと鳴らしながら、運転席からドライバーが降りてきた。
衝撃で作動し、そしてすぐにしぼんだエアバッグをうっとうしげに払いのけ、のろのろと歩道に降り立つ。
出てきたのは、高級っぽいワンピースを着た女性だった。
最初に気づいたとおり、顔は包帯でぐるぐるに巻かれていた。
銀座のときの、女性だ──
ようやく私は気づいた。
女性はふらつきながら、前方に、車が衝突したところに、歩いていった。
男性がいるところに、歩いていった。
男性は腰のあたりで2台の車にはさまれて、赤い外車のボンネットに上半身を倒していた。
女性が、男性の横に立った。
さっきから聞こえていた声が、女性の笑い声だと気づいた。
「なめんじゃないわよ……」
言いながら、女性は男性の胸ぐらをつかみ、起こした。
男性はうつろな目をしていた。
「あんなガキにコケにされてたまるもんか……あんなガキに渡すぐらいなら……」
言いながら、女性は男性を車の間から引きずり出し、勢い余って、男性の胸ぐらをつかんだまま、歩道に倒れ込んだ。
──と、まわりで様子を見ていた人は思ったのだ。
そうではなかった。
歩道に倒れた二人の近くにいた生徒数人が、ものすごい悲鳴を上げた。
別の何人かは、ものも言わずにその場で気を失った。
車の間から引きずり出された男性には下半身がなかった。
車の衝突によって、腹部で身体を分断されていたのだ。
まわりで絶え間なく上がる悲鳴を気にも留めず、女性は上半身だけになった男性を抱き起こした。
「どうよ。あたしをなめるとどうなるか、少しはわかったでしょ。なんとか言ったらどうなのよ」
男性の胸ぐらをつかんで、前後に揺さぶりつつ、激しく笑った。
狂人の笑いだった。
女性がすでに常軌を逸していることは、誰の目にも明らかだった。
「……BMWの3シリーズ、ニューモデルじゃない。もったいない」
突然声がして、私は我に返って声の方向を振り返った。
私たちのすぐ横に、神代先生が立っていた。
「あ。先生……」
「何があったの?」
「ええと、実は……」
説明しかけた私の視界の隅に、校門から出てきたアリスが入った。
アリスは、事故現場にちらりと目をやって、すぐに興味なさげに駅の方へ向かった。
その後ろ姿が、一瞬、ぶれた。
アリスの姿がぶれるのを見たのは、これで3度目だ。
もう、勘違いとか偶然ではないと、私は思った。
そして私は、もうひとつ、見た。
事故現場に目をやったとき、確かにアリスは笑っていた。
何か滑稽なものを見るような、クスリとした笑いだった。
5.アリスの中の「なにか」のこと
もちろん、その後は大騒ぎになった。
なったのだが、事故そのものは痴話ゲンカの果ての無理心中、ということに落ち着いたようであった。
痴話ゲンカで以前からもめていたカップルが、たまたま星龍学園の前で、ああいうことになった。と、そういうことになったようだ。
翌日、私はそれを神代先生から聞いた。
「だって、アリスが」
「その子が関係あるって、誰か知ってるの?」
異をとなえかけた私に、神代先生が言った。
私は口ごもる。
そう言えば、銀座の騒動を知っているのは──あのカップルとアリスがその場にいたことを知っているのは、私と黒神由貴だけなのだった。
「まあとにかく、もう少し詳しく話を聞かせなさいな」
神代先生は言った。
そこで私たちは学園内の会議室のひとつに入り、神代先生にこれまでのことを説明した。
もっとも、説明したのはほとんど私であった。
「異常にもてる生徒がいるというのは、話には聞いてるわね。1年生の授業は受け持ってないから、その子と直接話したことはないんだけど」
神代先生は言った。
「後輩が言うには、何か取り憑いてるんじゃないかって。くろかみはそうは思えないらしいんですけど」
私が言うと、神代先生は黒神由貴をちらりと見た。黒神由貴は、小さくうなずいた。
「ふうん……。で、その子は急にもてるようになったって話だけど、いつ頃から? そのあたりは聞いてる?」
「えっと……入学して少しした頃……春の遠足のあとぐらいから、って言ってました」
「春の遠足……というと、私がここに赴任する前よね。どこに行ったの?」
「うちの学校は、1年の春の遠足は江ノ島って決まってるんです」
「江ノ島ねえ。江ノ島といってイメージするのは……」
神代先生が言ったので、私はすかさず言った。
黒神由貴と神代先生も、ほぼ同時に言った。
「サザン」
「妙音弁財天」
「妙音弁財天」
黒神由貴と神代先生が、私の顔を見た。
「なんでここでサザンが出てくるの」
「やっぱ、江ノ島と言えば湘南だし、湘南と言えばやっぱサザンだと……。みょーおんべんざいてんって、なんですか」
「江ノ島神社に祀られている祭神なの。直接、色恋沙汰にまつわる神ではないけどね、やたらと色っぽい神様なのよ、あそこのは」
神代先生は目を閉じて腕組みし、しばらくして、黒神由貴を見た。
「黒神さん。この際、直接訊いてみたらどう? そんなに危険なことにはならないと思うんだけど」
「そうですねー。ここでこういう話をしていても、らちがあかないとは思います。真理子も納得できかねるでしょうし。私も、そんなに危ないことにはならないと思います」
「よし決まった」
神代先生はポンと手を叩いた。
「それじゃ、榊さん黒神さん、明日の昼にでも、アリスって子に聞いてみて。私が同席すると警戒されるだろうから、少し離れて見てるようにするわ。いい?」
翌日の昼。
食事が終わった頃を見計らい、黒神由貴と二人で1年棟に向かった。
神代先生はあとで来る手はずになっている。
そのあたりにいた1年生に声をかけた。
「ちょっとごめんね。アリスって子はまだお昼?」
声をかけた1年生は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに「ははーん」という顔になった。よくあることなのだろう。
ちょっときょろきょろして、廊下の先を指さした。
「そろそろ戻ると……あ、来ました。あの子です」
「ありがと」
1年生に礼を言って、私たちはアリスに近づいた。
後ろでさっきの1年生がクスクスと笑っていた。
「こんにちは。えっと……あなたがアリスさん?」
黒神由貴が、アリスに声をかけた。
突然声をかけられて、アリスはちょっと驚いた顔をしたが、「はい」と返事した。
「あのう……ちょっと聞きたいことがあるんだけど、つきあってもらえる? すぐ済むと思うから。……たぶん」
「はい、いいですよ」
にっこりと笑い、あっさりとアリスは同意した。
可愛いなあ。
思わず、口に出してそう言いそうになった。
男女問わず惹かれるのが、わかるような気がした。
アリスを会議室に案内した。
その途中に、神代先生が立っていた。
ちら、と神代先生に目配せする。
会議室に入り、アリスに椅子を勧めて、私たちも座った。
「それで……話ってなんでしょう?」
無邪気な顔で、アリスは言った。
ちょっと困った顔で、黒神由貴が口を開いた。
「ごめんなさい。実は、話があるのはあなたにじゃないの」
アリスが目を丸くした。
「用があるのは、『あなたの中の人』なの」
あまりにもストレートに訊いたので、横で聞いている私も驚いた。
「あなたの中にいるのは、誰?」
黒神由貴がそう言うと、アリスの身体が一瞬、ぶれた。
やがて、アリスはかすかに笑い始めた。
クスクス、という感じの笑いではなかった。
もう少し年配の人間が面白そうに笑うような、ふっふっふ、という笑い声だった。
「まったく……さても人間とは面白きものよのう。飽きる事がないぞえ」
声のトーンは変わらないが、その口調ががらりと変わった。
「野(や)にこのような者たちがいるとはのう。……ぬしは陰陽師か?」
アリスは黒神由貴を見て言った。
「外におるのは、高野か。さて、ぬしは……」
私を見たアリスは、一瞬首をかしげて、愉快そうに笑った。
「いやいやいや。あなどれぬものよのう」
「あなたは……誰?」
もう一度、黒神由貴が訊いた。
「わらわは、ぬしたちからは、弁財天と呼ばれている存在よ」
アリスはそう言って右足を上げ、左膝に乗せた。
どこかで見たようなポーズだと思ったら、江ノ島神社で見た像の格好だった。
「あなたがどういう存在でもいいです。アリスに取り憑いていろいろな災難を引き起こしたのは、あなたがやったのですか」
アリス──弁財天は、心外だという顔で言った。
「たわけたことを。こたびのことは、すべてこの娘が欲したことよ。娘が愉悦を感じておったは、中にいたわらわがもっともわかっておるわ」
「アリスが、騒ぎを望んだと?」
「余人より好かれたいというのが、この娘の願いであった。わらわは、その願いをかなえてやっただけよ。騒ぎは、この娘に恋慕した者どもが勝手にしたことよ。ただし」
弁財天は、にやりと笑った。
「この娘は、それを喜び、また望んでもいたようだの」
黒神由貴は、小さくため息をついた。
「わかりました。……しかしながら、死人が出ているのも事実なんです。もうやめていただけませんか」
「──わらわが断ったら、なんとする?」
口元に笑みを浮かべながら、弁財天が言った。
本気で言っているわけではないのは、私にもわかった。
「あまり手荒なことは望まないのですが」
黒神由貴が言うと、弁財天はカラカラと笑った。
「ほっほ。怖や怖や。──わらわはよいが、この娘がどう思うか、だがのう」
弁財天は面白そうに笑った。
「とは言え、何ごともほどほどよ。わらわも、そろそろ飽いてきたでの」
「アリスから……抜けてもらえますか」
黒神由貴が言うと、弁財天はうなずいた。
「されど、この娘の望みは、みめうるわしくなりて、余人より好かれることであった。わらわ去りて後、この娘がいかなる行いに走るやも知れぬが、それはわらわのあずかり知らぬことぞ。よいな?」
「ええ」
黒神由貴は言って、私もその横でうなずいた。
「では、さらばじゃ。ほんの退屈しのぎに来てみたが、思いがけず楽しませてもろうたわ。陰陽師の娘、機会があればまた会おうぞ。外の高野の者にも、よろしうにな」
そう言うと、また、アリスの身体がぶれた。
椅子に座っていたアリスの身体が、ぐらりと傾いた。
「危ない!」
私はあわてて立ち上がり、アリスを支えた。
アリスは気を失っていた。
「神代先生!」
私は、会議室の外にいる神代先生を呼んだ。
私が叫ぶのとほとんど同時に、神代先生が会議室に飛び込んできた。
エピローグその1
アリスの失神は「貧血」ということで、神代先生が話をうまく付けてくれたようだった。
結局、アリスの中にいたのがなんなのか、本当にアリスはなにものかに取り憑かれていて、その力によって人を惹きつける力を得ていたのか。
それらのことは、何ひとつわからないままだった。
黒神由貴も神代先生も、今回のできごとが「憑きもの系」だったのかどうか、確信が持てないようであった。
ただ、会議室での会話のあと、はっきりと変化したことがあった。
アリスが、まったくもてなくなったのだ。
校内で、上級生がこれまでのようにアリスに声をかけ、アリスが振り向くと、とまどったような顔になって、言葉を濁すのだった。
言うまでもないことだが、アリスの風貌が激変したというわけではない。
また、嫌われたわけでもない。
にもかかわらず、あれこれと声をかけられていたのが、ぴたりとなくなったのだ。
近づいて来た人間にいつも取り囲まれていたので、誰も声をかけてこなくなると、アリスを取り囲む人間は誰もいなくなった。
おそらくは、登下校時や街中でも、同様だったと思う。
そんなことが10日ほど続いて……
アリスが自殺した。
父親の医院から薬品を盗み、それを自分で注射したのだという。
どういう薬品なのかは知らないが、まるで眠っているような、すごくきれいな死に顔だったという。
そのため、発見したアリスの母親も、最初は普通に眠っているのかと思ったそうだ。
アリスの死は発表されたものの、詳しい死因などは、生徒には知らされなかった。
私と黒神由貴は、神代先生から詳しい話を聞いたのだった。
遺書はなかった。
なかったが、アリスを知る人間のほとんどは、ここ最近のアリスの変化──突然もてなくなったこと──を知っていたので、それが原因だろうと、うすうす感じているようだった。
「この娘の望みは、みめうるわしくなりて、余人より好かれること」
あのときの弁財天の言葉を、私は思い出した。
自分がきれいであることだけが望みだったのか……
アリスが選んだ死に方を思うと、弁財天の言葉は当たっているかも、と私は思った。
そして目下の私の悩みは、アリスのことを依頼してきた先輩に、どう報告したらいいのか、ということである。
エピローグその2
牝牛が第3子を出産したといううわさが、校内に走った。
(牝牛って、なんやねんという方はこちら)