4.捕食
星龍学園学生寮の周辺は、閑静な住宅街だ。住民もおだやかな人ばかりで、問題が起きたことはない。
週末の夜、すっかりできあがってしまったお父さんが千鳥足で帰宅し、奥さんにお目玉を食らっている声があたりに響いたりもするが、そんなのはご愛敬だ。
その夜、学生寮の近くをふらふらと歩く人物があった。学生寮の近くに自宅を持つ大槻氏である。大槻氏はかなり酔っているようで、足元がおぼつかなかった。
「うぶ」
目を見開き、口を押さえる。指のすき間から液体がしぶく。
電信柱の根元に、1時間ほど前に食べた物の小間物屋を店開きする。
そのまま大槻氏はくたくたとその場にへたり込んだ。
もう家はほんの目と鼻の先なのに、立ち上がる気力が湧かない。
こりゃあ明日は寝込むな……
そんなことを、どんよりとにごった頭で考える大槻氏であった。
大槻氏は、誰かが自分の顔をのぞき込んでいるのに気づいた。
酔ってへたり込んでいる自分を心配して、ご近所のどなたかが心配してくれたか。
「すんません。大丈夫っす。すんません」
そう言って大槻氏は立ち上がろうとした。
そのときになって、大槻氏は腕も足もまともに動かせないことに気づいた。
酔いのせいではない。身体にまとわりついている、この白いヒモのような物のせいだ。
まとわりついている──そうではない。ヒモのような物は、大槻氏の身体に巻き付いて、がんじがらめにしているのだった。
「え。あの。これ。え?」
自分の顔をのぞき込んでいた人物、年齢の見当が付かない、ざんばら髪の老婆がニッタリと笑い、何か言った。大槻氏にはわからない、どこか異国の言葉だった。
老婆が大きく口を開いた。その中に並んでいるのは、人間の歯ではなかった。
中堅機械会社の営業1課係長、大槻裕次郎氏52歳の人生は、その日終わった。
早朝5時。
主婦の小松さんは、朝刊の新聞配達のアルバイトをしている。子供たちもご亭主も、学校や勤め先の食堂で食事を取るため、弁当の必要がない。配達を終えれば、あとは送り出すだけでいいのだった。
自転車で配達していると、他社の新聞を配達している人としばしば出会う。ライバルには違いないが、それは小松さんには関係ないことだ。小松さんと同じ主婦もいて、すれ違うときに軽く手を挙げて挨拶をしたりする。
星龍学園学生寮の方向からやってきた別新聞の女性配達員に気づき、小松さんは手を挙げた。
だがその日の配達員は、いつもと様子が違っていた。顔面蒼白で、全力で自転車をこいでいる。
小松さんに気づいた彼女は、叫び声を上げたが、まともに声になっていなかった。
「こま、こま、小松さん! あっちで、あっちで! 人が!」
小松さんの前まで来た彼女は急ブレーキをかけて、転倒した。前カゴに入っていた朝刊が道路にぶちまけられた。
「ちょっとどうしたの斉藤さん。何があったの。痴漢?」
あまりに興奮しているので、小松さんはとりあえず自転車のスタンドを立ててその場に止め、斉藤さんに駆けよった。
「どうしたの。そんなに興奮してちゃわかんないってば。事故?」
だが何を訊いても斉藤さんはわけのわからないことを叫ぶばかりで話にならない。警察に電話すべきかと考えたが、あいにく携帯を持って出るのを忘れてしまった。
そうだ、つい今、路地の角にOLさんが立っていた。まだいるかもしれない。OLさんだったら絶対に携帯を持っているだろう。
小松さんは立ち上がって、さっきOLさんを見かけた路地の角に向かった。
OLさんはさっき見かけたのと同じ場所に、電信柱を背にして立っていた。
よかった。
「あのすみません。携帯をお持ちでしたら、貸していただけないでしょ……」
小松さんは言葉を最後まで言い終えることができなかった。
OLさんに声をかけながら顔をのぞき込んだ小松さんは、早朝の住宅街に響き渡る絶叫を上げた。
OLさんは電信柱を背にして立っていたのではなく、何か白いヒモ状の物で電信柱に縛り付けられていたのだった。
OLさんには顔がなかった。
顔の部分にあったのは、人間の頭ぐらいのサイズの干し柿だった。
二人の女性が上げる悲鳴を聞いて、周辺の住民がなにごとかと出てきた。
K医大法医学部、准教授室。
例によって、女優の名取裕子似の監察医、所轄の刑事、助手たちがコーヒーを飲みながら話している。
「内臓がごっそりなくなっていて、身体はカラカラに乾燥。こんな殺し方って、可能なんですかねえ。……って、先生のところに来るときは、こんなことばっかり言ってますね」
そう言って所轄の刑事は笑った。監察医は眉にシワを寄せて、首を左右に振った。
「考えにくいなあ。人間がミイラ化するのって、3ヶ月ぐらいはかかるのよね。それも、よほど好条件が重なった場合に。今回のホトケ様みたいに1日でああなるなんて、ありえないんだけど」
「ちょっと調べてみたんですけど、内臓を抜いて、何かの乾燥機にかければ、あんな風なミイラにするのも可能なのかなって」
所轄の刑事がメモを見ながら言うと、助手たちがパチパチと拍手した。
「すごい。なかなか頑張りましたね」
ほめられて刑事は照れ笑いを浮かべたが、監察医の顔色はすぐれない。
「残念ながら、外科的な手術で内臓を摘出した痕跡はないし、外部から強制的に乾燥させた痕跡もないのよね」
「じゃあやっぱり、ありえない死に方だと」
刑事が言うと、監察医は「ないわけじゃないのよ」と言った。
「自然界で、そんな死に方をする場合がないわけじゃないの」
「どういう場合ですか」
刑事が身体を乗り出して訊く。
「──蜘蛛」
「蜘蛛?」
「蜘蛛が獲物を食べるときって、消化液を体内に注入して、内臓類を溶かして吸収するのね。だから犠牲者の亡骸は乾燥してカラッカラになる」
「いや先生。それは虫の話でしょう」
「だからね」
監察医はため息をつきながら言った。
「人間ぐらいの大きさの蜘蛛に襲われたとしたら、ありえないことではない、と言ってるの。──ま、そんなわけないんだけどね」
監察医は全く意識していなかったが、彼女は事件の真相に限りなく近づいていたのだった。
5.キャティを狙う影
学生寮の近くで奇怪な殺人事件があったことは、すでに星龍学園内に広まっていた。自宅から通っている生徒や学生は「うわあ、おっかないなあ」で済んでいるが、寮に住んでいる者にとっては笑い事ではない。
幸いなことに学生寮はセキュリティはかなりしっかりしているし、入口を含めた周辺には監視カメラが設置されているので、不審人物が侵入することは考えにくい。
用心のため、当面は明るいうちに寮に戻るように、という厳命が出た。
「合コン行けなーい」
「カラオケ行きたいですー」
など、不満が続出したが、命には替えられない。
犯人もいずれ捕まるだろうと、ほとんどの生徒や学生は考えていたはずだが、私たちは違った。
キャティからクコンバのことを聞いた、私、黒神由貴、白戸麗夢、アマンダ。
この五人は、ことがそう単純ではないと理解していた。
キャティは、先日スーパー銭湯でクコンバのことを話したときよりも、ちょっとしたことにおびえるようになっていた。そりゃそうだろう。キャティは殺人事件の犯人が何者で、どういう風に犠牲者を襲ったのか、知っているんだから。
そしてついに、キャティが襲われた。
以下、私や黒神由貴は自宅組なので、あとでレムちゃんに聞いたこと。
その日の6時過ぎ。寮の夕食の時間であった。
クコンバの件で今一つ食欲の湧かないキャティであったが、アマンダや他の短留生に誘われ、食事を取った。
食事を終えて食堂を出ようとしたとき、遅れて入ってきた寮生とすれ違った。
「ちょっとなにこれー。ベタベタくっついて、キモーい」
寮生がそんな事をぼやきながら、頭や身体に付いた物を取っていた。
糸くずと言うには少々太い、白いヒモ状の物体。取るのに苦労しているところを見ると、粘着性があるらしい。
全く何気なしにそれを見たキャティの目が驚愕に見開かれた。
「──クコンバ!」
ひと言叫ぶと、廊下を突っ走った。
「キャティ、マッテ!」
アマンダがすぐにあとを追う。
自室に飛び込んだキャティにタッチの差で間に合って、アマンダもキャティの部屋に飛び込んだ。必死の形相で、キャティがドアを施錠する。アマンダが声をかける間もなく、キャティはベッドに潜り込み、掛け布団を頭からかぶった。
追いついてきたレムちゃんや他の短留生たちが、ドアをノックする。アマンダが開けようとすると、キャティは布団をかぶったまま、
「ドン、オープン!!」
と叫んだ。
やむなくアマンダがドア越しに「大丈夫だ」と説明しようとしたとき、背後でガラスの砕ける音がして、キャティが悲鳴を上げた。
アマンダが振り返ると、それほど大きくはないガラス窓を割って、化け物が部屋に入ろうとしていた。
それは化け物としか言いようがなかった。老婆の顔、なのに、身体は人間ほどもある蜘蛛なのだ。化け物は8本の足をウゴウゴと動かしながら、部屋に侵入してきた。キャティはすでにベッドから飛び出しているが、壁に背を付けてへたり込み、動ける状態ではない。
化け物がキャティに手を伸ばした。8本ある足以外に、頭のすぐ下に人間の腕が生えていることに、アマンダは気づいた。
化け物がキャティの首を人間の腕でつかんだ。首を絞めようというのではなく、動けなくしているのだとわかった。化け物が蜘蛛の胴体を折り曲げて、尻をキャティに向けたからだ。
化け物の尻から、白いヒモ状の物体が飛び出した。
ヒモ状の物体がキャティの身体にかかったところで、アマンダは入口脇に置かれていた何か丸い物をつかみ、全力で化け物に投げつけた。
「You bastard!(くそったれ)」
丸い物は化け物の顔に命中し、砕け散った。ガラス片と、中に入っていた水や装飾物が飛び散った。アマンダがとっさにつかんで投げつけたのは、キャティが入口に飾っていた、ガラス製のスノーボールであった。
化け物は名状しがたい声を上げ、人間の腕で顔をおおい、入ってきた窓から外へ逃げていった。
「ここ3階やんか……」
アマンダは呆然としてつぶやき、そこで気づいて、あわてて床に倒れているキャティに駆けよった。ケガはしていないようだ。アマンダは安堵の息をついた。