単品怪談

遊女無惨絵縁起


 東京──池袋から出ている私鉄に乗って1時間弱、Kという駅がある。
 この沿線は都内に通勤するサラリーマンのベッドタウンとして発達し、沿線の駅周辺には住宅やマンションが建ち並んでいる。
 その中にあってただ一つ、K駅だけが忘れられたように未開発状態である。
 改札を出ても、コンビニ一つあるわけでもない。
 あるのは、老婆が店番をしている、小さな煙草店だけだ。
 駅前の細い道(乗用車がすれ違うのがやっとだ)を東に20分ほど歩くと、やがて「延嶺寺(えんりょうじ)」という、いささか古ぼけた寺に着く。

 この寺に、「遊女無惨絵」が保管されている。
 絵は肉筆の錦絵(浮世絵)で、江戸時代後期に描かれたと伝わっている。
 絵は全部で5枚。50cm四方ぐらいのサイズだ。
 これを描いたのは当時売り出し中の若手絵師、勝川正慶と伝えられている。
 もちろん、無惨絵に署名があるわけではない。画風からの類推である。

 さて、絵師が自らの意志でこのような絵を描くことは少ない。
 たいていの場合は依頼主が存在する。
 この無惨絵の場合も同様で、依頼したのは当時の江戸の豪商、越前屋六右衛門とされている。

 ところで、「無惨絵」とはなんであろう?
 「血みどろ絵」「残酷絵」とも言われるのを見ればわかるように、殺人の情景を描いた絵のことを言い、芝居や当時の事件に材を取ったものが多い。
 幕末──慶応2年(1866)に発行された月岡芳年と落合芳幾による共著、「英名二十八衆句」がよく知られている。

 だが、目の前で実際に人が殺されてゆく情景を描いた無惨絵も、少なからず存在した。
 旗本、あるいは当時の江戸の財界を握っていた豪商などが、目の前で人が死んでゆくのを酒席の座興として楽しみ、後日その余韻を楽しむため、ひいきの絵師にその殺人情景を描かせるのだ。

 このように実際に人が殺されるタイプの無惨絵の「モデル」は、「岡場所」と呼ばれる私娼街から身請けされた娼婦が多かったという。
 越前屋六右衛門クラスの豪商であれば、身請け金など端金(はしたがね)であったろうし、女郎屋の主人にとっても、それなりの金が手に入るのである。文句のあるはずもない。
 身請けされてからその娼婦がどうなろうと、知ったことではないのだ。
 仮に惨殺死体が発見されたとして、娼婦が一人死んだとて、誰が気にするだろうか?



1枚目


 画面中央に、縄で縛られた女性が描かれている。これが遊女であろう。
 女性は赤い肌じゅばん1枚の姿で、髪もかなり乱れている。
 後ろ手に縛られ、からだを丸め気味にして横たわっている。
 女性の心理状態がわかるほどには表情は描かれていない。
 ただ、これから自分の身に起こるであろうことに怯えているのはうかがえる。

2枚目

 相撲の力士のような巨漢が登場する。
 遊女は1枚目に続いて後ろ手に縛られた状態で、
 足をあぐらのように組まされ、床に突っ伏す形で前方に転がされている。
 俗に「だるま転がし」という状態で、この体勢で抵抗するのは不可能だ。
 力士は遊女の肌じゅばんをまくり上げて秘所を大きくさらし、その部分に、二の腕ほどもある巨大なペニスを深々とねじ込んでいる。
 構図は、転がされた遊女の斜め後ろから巨漢が犯している状態を描いている。
 秘所がもっともはっきり見えるアングルだ。
 エロティックな浮世絵──いわゆる「枕絵」と違い、犯されている遊女の顔が苦痛に歪んでいる。
 二の腕ほどもあるペニスは、浮世絵特有のデフォルメではなく、事実それぐらいのサイズなのかも知れない。

3枚目

 1枚目2枚目と違い、今度は両手首を縛られ、天井(というより、おそらくは梁であろうが)から吊されている。
 足の先が、床につくかつかないかぐらいの高さだ。
 肌じゅばんもはぎ取られ、全裸となっている。
 遊女の正面から描かれているため、そのプロポーションがはっきりとわかる。
 絵の通りに受け取るならば、かなり幼いように見える。股間のヘアも、淡い。

 2枚目とは別の男が登場する。
 人相風体からは、男の素性はわからない。
 少なくとも、後々面倒なことになるような「遊び人」の類ではないだろう。
 越前屋六右衛門の店の番頭といったところか。
 男は遊女の後ろにまわり、遊女の首に左腕を回してのけぞらしている。
 そして右手に握った匕首(あいくち)で、遊女のみぞおちからへそのあたりまで、切り裂いている。
 傷そのものは、それほど深くはない。
 傷から流れる血と、遊女の叫び声を「楽しむ」趣向なのだ。

4枚目

 3枚目に引き続き、番頭らしき男が描かれている。
 遊女の全身は傷まみれになっている。
 腕。太股。脇腹。胸。乳房。
 刃物によるらしい直線的な切り傷が、あちこちにある。
 そのすべてから血が流れ、遊女の身体は赤い縞模様になっている。
 だが、いずれも致命傷ではないらしく、遊女の顔は苦痛に歪んだままだ。
 ひとつひとつは深手ではないにしても、それぞれの傷からの出血量を考えると、失血死になりかねない量である。

5枚目

 最後の絵である。
 これまでの絵とは異なり、遊女に苦痛を与えている状態ではない。
 だが、はるかに残虐である。
 遊女は丸めた布団の上に、あおむけに寝かされている。
 両足は布団の左右に広げられ、秘所がさらけ出されている。手足を誰かに押さえつけられているわけではないが、もはや抵抗するだけの体力が残っていないのか、丸めた布団の両脇にだらりと垂れたままだ。
 遊女の横に一人、足元に一人、男が立っている。
 横に立つ男は、扇子を持ち、なにやらはしゃいでいる様子である。
 その風体から見て、どうやら幇間(たいこもち)であるようだ。
 おそらく、これまでこの残虐な「宴」を、軽妙なしゃべりで盛り上げていたのであろう。
 足元に立つ男は、2枚目で遊女を犯していた巨漢である。
 その手に長槍を構えている。
 槍の刃先は、遊女の秘所に向けられている。
 長槍を遊女の秘所に深々と突き刺そうとしているらしい。
 この長槍によって遊女の命が絶たれるのは間違いないであろう。
 突き刺す寸前の絵であるのが、せめてもの救いである。



「無惨絵」の依頼主である越前屋六右衛門は、その後不可解な死を遂げている。
 店の蔵が炎上し、その中で焼死したのだ。
 その際、他にも何人もの人間が焼死している。
 火災の原因は不明。
 灯明の明かりが蔵の中の物に燃え移ったとも言われているが、なぜ蔵から出られなかったのかという疑問が残る。

 無惨絵を描いたとされる絵師、勝川正慶はその後いくつかの美人画を発表した後、仏門に入ったと伝えられる。
 その後の消息はわかっていない。

 5枚組の「無惨絵」はその後何人もの人手に渡っている。
 そもそもおおっぴらに公表できない内容の絵が、こうも何人もの人手に渡るということが、前所有者に「何か」があったことを物語る。
 最後の所有者が、延嶺寺に「無惨絵」を納めたのであろう。
 元号が「明治」とされて間もない頃のことである。

 当時の住職は、「無惨絵」のあまりのおぞましさ、怨念の強さに恐れおののき、除霊/供養を放棄した。
 (それなりに「徳」の高い人物であるにもかかわらず、だ)
 住職は「無惨絵」を箱に収め、4辺に札を貼って、厳重に封印した。

 以来、延嶺寺では「無惨絵」の封印を解くことは絶対のタブーとなった。
 存在そのものも、延嶺寺は公式には認めていない。
 現在、「無惨絵」の存在を知るのは、ごく限られた人間だけである。


引き続き「遊女無惨絵始末」を読む

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