3.幻丞、調査と考察する
奇妙だ。
と、幻丞は考える。
売春婦を装って男の精を吸い尽くして殺して歩く女というのが、死霊や生き霊ならば理解できるし、これまでに遭遇したことも退魔行をおこなったこともある。
仮に仲嶋氏の従姉妹がまだ存命で、若い女の正体が従姉妹の生き霊であったとしても、その姿が若い女であるとは考えにくい。百歩譲って、従姉妹が精神を病んで、自分はまだ若い女であると思い込んでいるとしたならば、生き霊が若い姿であるのも、あり得なくはないかもしれない。
しかし、従姉妹はすでに死んでおり、仮にその死霊であるとしても、その姿が若い女であるのは納得しかねる。なぜならば、死霊となる人間は死の寸前に強い想いを残すが故に、死霊となるのだ。従って、その姿は死の寸前の姿である場合が多い。
あとは……
と、幻丞は想像の翼を広げる。
若い女は、従姉妹の若いときの生き霊である。そしてその生き霊は、二十数年の時を越えて現代にやってきた……
いや、さすがにそれはない。
幻丞は笑った。
仲嶋氏の従姉妹の個人情報は意外に早く、店長から届いた。
幻丞はそれを元に、懇意にしている興信所に調査を依頼した。
名前は安部由加里(あべゆかり)。
群馬県高崎市出身。
地元の商業高校を卒業後、実家を出て都内の小さなカメラ店に就職。
数年後、由加里の祖母の葬儀で高校時代の上級生と再会し、交際。
上級生には妻子があり、由加里もそれを承知の上で交際を継続。まもなく妊娠。
由加里の両親が慰謝料を支払うことで示談。
由加里は高崎市の実家(農家)に戻り、そこで女児を出産。
出産後1年ほどした頃、由加里は男を作って(上記不倫相手とは異なる)、女児を実家に置いて失踪。
由加里はその時点で両親から絶縁される。
その後由加里はさいたま市内のアパートで男と生活を始めるが、生活は困窮。
原因は男の女遊びと、由加里自身の浪費癖。
由加里は男に乞われて、その頃から風俗業に従事。
2年後に客の男と深い仲になり、アパートを出る。
二人は都内に移って安アパートで生活を始めるが、最初の男と同様の理由で生活は困窮。
由加里は男に金を貢ぐためによりディープな風俗店で身体を売るようになる。
その頃までに、由加里は2度堕胎している。
年齢が三十台後半頃になると由加里の容姿は衰え、荒れた生活と相まってか、肥満体となる。
容姿が衰えた由加里は客を取れなくなり、男に捨てられる。
由加里は都内場末の、風呂もないアパートで一人暮らしを始める。
労務者などを相手に身体を売って日々の糧を得ていたが、アパート内で死亡しているのが発見される。
死因は肝硬変。
享年46。
調査結果には、安部由加里の生前の写真もあった。
高校卒業アルバム。カメラ屋で働いていた頃の写真。
あどけなく、男好きのする雰囲気を漂わせている。中肉中背だが、シャツの胸元の盛り上がりから見て、それなりのプロポーションだとわかる。
男をとりこにする悪女タイプではない。むしろ逆で、男にせまられればフラフラとよろめくタイプだ。妻として、伴侶としては、もっともタチの悪いタイプと言える。
男とくっついてからの写真はほとんどないが、スナックか何かで知り合いとカラオケをしている風景の写真が残っている。くわえタバコで、ビールが入ったコップを手にしている。
40になるかならないかといった歳に見えるが、実年齢は写真からは見当が付かない。すでに、荒廃した生活をうかがわせる風貌になっているからだ。
量販店で購入したとおぼしき安物の衣類。手入れをまともにしていないとわかる、白髪の目立つ、脂っ気のないバサバサの髪の毛。どんよりした目。シャツやスカートは肉ではち切れそうになっている。あわよくば「客」を捕まえようというのか、毒々しい化粧が無惨ですらある。
最底辺の売春婦というものがいかなるものか、如実にわかる写真であった。
転落の過程はおおむね店長から聞いたとおりだったが、詳細はさらに悲惨なものであった。
悲惨ではあるが、安部由加里自身が選んだ生き方であり、自業自得と言える。
ただ一つ、由加里が産んだ女児は後に養子に出され、現在はよき伴侶を得て幸せになっており、それだけが救いであった。
由加里が実家に女児を置き捨てて失踪した後は、一度として娘の顔を見に戻ったことはなかったという。
「頭と股のゆるい女が身から出た錆で死んだだけ」
店長が吐き捨てるように言った言葉は、まさに的を射ていた。
それはいいとして、幻丞は困惑する。
妖しはどこに絡むのか。
調査結果が事実であるなら、どこにでもある、愚かな女の転落話に過ぎない。こういうことで妖しが産まれるのなら、世の中は妖しだらけになってしまう。
まだ、何かがある。
これだけでは情報不足だ。
幻丞は目撃者が出たときにすぐにわかるよう、安部由加里の若いときの写真を常に持ち歩くようにした。幻丞自身が妖しを目にした場合にも、すぐにわかるように。仲嶋氏の話が事実なら、事件の犯人は若いときの安部由加里の姿をしていることになる。写真は複写して、何枚か「ザ・インペリアル」の店長にも渡しておいた。
4件目の事件が起きたのは、そんなときだった。
4.幻丞、刑事から話を聞く
ファションヘルス「ザ・インペリアル」の店長から幻丞の携帯に連絡が入ったのは、店長から相談を受けて一週間ほど過ぎた頃だった。
『先生。また出ました。ホテル・ハミングバードで。やり口はこれまでと同じです。泊まりではなくて休憩ですが、延長するかどうか内線を入れても応答がなく、入ってみると男だけがベッドの上で死んでいて。はい。女の姿はありません』
「わかりました。私は警察の知り合いに当たってみます。店長の方は、先日お渡しした写真の女を見かけることがあったら、すぐに私に連絡してください。それが犯人です」
『この写真、警察に知らせなくてもよろしいんですか』
「見せても無駄でしょう。その写真は仲嶋氏の従姉妹さんが若いときの写真ですが、男を殺して回っているのは、その写真の人物本人ではなく、化け物ですから。警察がまともに取り合うはずがありません」
電話口のむこうで、店長が息を呑むのがわかった。
「幻丞さん、勘弁してくださいよー。警察官には警察法や地方公務員法ってのがあって、うかつなことは言えないんですよ」
所轄の刑事は情けない声を上げた。事件絡みで知り合いとなり、幻丞が捜査に協力したことも何度かあって、幻丞の頼みをむげに断れない関係であった。
「だからさあ。風俗店のガサ入れ情報とか捜査機密を漏らせって言ってるわけじゃないんだから。ホテル・ハミングバードで見つかった被害者の解剖所見をちょっと教えてほしいなって、それだけなんだからさー」
「ガサ入れは課が違いますよ。僕は1課ですから。……幻丞さん、これから僕、独り言を言うかもしれませんが、耳をふさいでいてくださいね」
所轄の刑事が、しぶしぶ言った。
「了解了解」
「えっとー」
刑事が手帳を開いた。
「被害者は金谷隆一31歳。渋谷の中堅商社に勤めるサラリーマン。新宿の風俗店に遊びに来て、被害に遭った……らしいなあ」
幻丞はふむふむ、とうなずく。
「死因は心筋梗塞。ただし、心臓疾患の既往歴はない。……らしいなあ。性交の痕跡あり。薬物の使用は認められず。ただし、血液中に興奮剤とおぼしき成分を検出」
「それって、どういうこと」
思わず幻丞が問うと、刑事も普通に答えた。
「はっきりと薬物と言えるほどではなくて、フェロモンというかアドレナリンというか、外部から注入されたものではなく、体内で生成されたのであろうと」
「それは、例の名取裕子そっくりの、K医大の法医学先生の見立て?」
「そうです」
「あの先生なら、間違いないだろうなあ」
「幻丞さん、ついでに言いますとね」
「うん」
「さっきの独り言で、僕、性交の痕跡ありと言いましたけど、女がいた痕跡はないんですよ」
「そりゃ、その場から逃げたからでしょ」
「そうじゃなくて。いいですか。陰毛とか体液とか、ホテルの室内にあったのは、すべて被害者である金谷のもので、女性のものはなかったんですよ。犯罪を隠蔽するために物的証拠を持ち去るのはよくあることですが、陰毛や体液まで残さないというのは不可能でしょう?」
「女がその場にいたという証拠がないわけか……」
「そういうことです。だからちょっと困ってます」
いつの間にか普通にやりとりをしていた刑事が手帳を閉じた。
「いや、わかったよ。いいこと聞いた。今度飯でもおごるわ。それとも、どこかいい店紹介しようか? ロリでも人妻でも、ポチャでもスリムでも、言ってくれれば」
「いやそれはあの、ちょっと警察官としては、まあ、機会があれば、まあ。……でも幻丞さん、何がわかったというんです」
「それは秘密。坊主にも守秘義務があるんでね」
幻丞は確信を持った。殺人を続けている存在は、実体を持ってはいない。いかなる姿形をしているのかはわからないが、物的存在ではないのは確からしい。
ならば。
「それなりのやりようはあるということだ」
刑事と別れた幻丞はつぶやいた。
ふと、神代冴子にもこの件を知らせておこうかと思ったが、やめた。
「お嬢はあれでけっこう潔癖なところがあるからな。あまりこういう男女のドロドロは見せない方がいい。うん」
今回の連続殺人の犯人は、言わば、
「リリスだな」
幻丞はある悪魔の名をつぶやいた。男の夢の中に現れて誘惑する、淫魔と呼ばれる悪魔だ。
5.幻丞、リリスと対峙する
相手の様子がわかってきたものの、現状では、どうしても後手後手になる。
事件が起きたときは、すでにリリスは消え失せている。
被害者がホテルに入っているのは確かなのだから、その時点ではリリスが存在しているのは間違いないのだ。そこで捕獲できればいいのだが、むずかしい。
午後6時。その日も、幻丞は「ザ・インペリアル」の応接室にいた。このところ、ここで待機することが多い。
「いざ探すとなると、写真があってもなかなか見つからないもんですね」
店長が言った。
「まして相手は化け物ですからね」
幻丞の言葉を聞いて、店長は身を震わせる。
「うちの若いのや、同業の店にも言って探させているんですがね。商売がかかっているんで、みんな必死になってます」
「見つけたとしても、自分たちでどうにかしようとは思わないでください。……と言っても無理でしょうが」
「いえ、きつく言っていますから、そこは大丈夫です。手荒なことはするなと」
「そうじゃなくてですね」
幻丞はつい笑ってしまう。
「そうじゃなくて、手荒なことをしようとしても、出来ないだろうという意味です」
「は。それは、あの」
「先ほども言いました通り、相手は化け物だからです」
店長がまた身を震わせたとき、店長の携帯が鳴った。
「俺だ。なにっいたかっ。よし、すぐ行くっ! 電話はこのままつないどけっ!」
「出ましたか」
「さくら通りで男と歩いているのを見つけました。うちの若いのが追ってます。行きましょう」
表はすでに日が沈み、黄昏時を迎えている。
幻丞と店長は店を飛び出し、さくら通りへ走った。「ザ・インペリアル」からさくら通りまでは、走れば5分もかからない。
「もうすぐそっちに着く! 女はまだいるかっ!」
走りながら店長が携帯に叫ぶ。
「今、男と歩いているそうです。ホテルに入る前に捕まえた方がいいでしょうね」
「そうですね」
幻丞が答える。
「おいっ、もしどこかホテルに入りそうだったら、適当に理由を付けて引き留めろ! 手荒なことはするなよっ!」
店長がそう言い終える前に、前方に男女四人の姿が見えた。
「二人はうちのです。間に合ったようだ」
幻丞と店長は、男女四人のそばに立った。
男は二十代後半ぐらいのサラリーマン風。
女は、服装こそ今風だが、顔立ちや体型は安部由加里の写真と同じであった。
店長は店の従業員にねぎらいの言葉をかけ、店に戻らせた。
サラリーマンと女、幻丞と店長が向かい合う。
「な、なんなんすか、あんたたちは。何を因縁つけようと言うんですか」
女の前だからか、サラリーマンは精一杯の虚勢を張った。
「お兄さん、これからお楽しみのところ、もうしわけないね。悪いが、別の店の子を当たってもらえませんか」
店長が慇懃無礼気味に言った。
「お兄さんがどうこうって言うんじゃないんだ。私たちは、そっちの女性に用があってね」
サラリーマンは横に立つ女に目をやった。女は肩を軽くすくめる。
「な、なんかヤバい子なんすか」
自分が何かやらかしたわけではないらしいと気づいたサラリーマンは、おそるおそる言った。
「それはあなたが知っても仕方ないことですし、知るべきことでもありません」
幻丞が言う。優男の幻丞であるが、190cmを越える身長には有無を言わせぬ威圧感があった。
「この界隈はホテヘルもデリヘルも山ほどありますし、なんでしたら本番ありの店もありますので、そちらを利用されてはいかがでしょうか。──店長。お兄さんをご案内してさしあげてください」
「先生。ここにお一人で大丈夫ですか」
幻丞の言葉に驚いた店長が言う。
「私はご心配なく。お兄さんをいい店に案内してあげてください。私はこちらの女性と話をしますので」
「そ、そうですか……。それでは、くれぐれもお気を付け下さい」
店長はサラリーマンを連れて、その場を去った。気になるのか、何度も何度も振り返る。その姿を見送って、幻丞は女に向き直った。
「はじめまして。あなたは……安部由加里さんとお呼びしてよろしいのでしょうか」
女がにっこりと笑い、首を横に振った。
「違います。そう呼ぶ人もいるようですけど」
あどけない顔。耳に心地よい声。女豹系とは真反対の、男の色欲と保護欲をかき立てるタイプの女だ。
「では……リリス?」
幻丞が言うと、女は目を見張り、次いでクスクス笑った。
「そんなことズバリと言われたのは初めて。あなたはお坊さん?」
「高野山の僧侶を勤めております、幻丞と申します。あなたがこの界隈でやっていることが、そろそろ問題になってまいりまして、私に話が回ってきた次第です」
「そうなんだー。でもお坊さん──幻丞さん」
「なんでしょう」
「だったら、あたしよりも注意しないといけない人がいるんじゃないかな」
20歳の安部由加里の姿をした妖し──リリスはいたずらっぽく言った。
「え?」
「あたしみたいな存在ってね、呼ばれないとダメなんだよ? 知ってた?」
「……?」
思いがけないリリスの言葉に、幻丞はとまどった。
「今度会うときまでの宿題にしておいてあげる。考えててね。じゃあね」
リリスはそう言うと、にっこりと微笑んで手を振り、何事もなかったように、歩き去った。ビルとビルの間の路地に入ってゆく。
一方、幻丞はその場を動けないでいた。
全身の気を振り絞り、リリスがぶつけてくる妖気と戦っていたのだ。
妖気──否、正確にはそうではない。色情気、言わばそういうものがリリスからあふれていた。
今この場でこの女を押し倒してでも、事をなしたい。抱きたい。柔肉の中に肉棒を突き刺し、思うさまに動かしたい。
そんな欲望が、リリスと会話している間、幻丞の心の中を吹き荒れていた。
リリスが立ち去って、その欲望の嵐が消えた。
膝の力が抜け、へたり込みそうになる。
常人であれば射精の一つや二つはしていたかもしれない。それほどにリリスが放つ色情の気はすさまじいものがあった。10月末の今、涼しくなってきているにもかかわらず、幻丞の全身は汗にまみれていた。おそらく、今の自分の体内には、K医大の女医先生が検出したという、アドレナリンやフェロモンに類した興奮物質が駆け巡っているのだろう。
数分後、ようやく動けるようになった幻丞はリリスの後を追って路地に入ったが、すでにどこにもリリスの姿はなかった。
ただ、そこで幻丞は思いがけない人物を、ある意味では、いても不思議ではない人物の姿を見た。
30年近く安部由加里のことを想い、夢を見たことをきっかけに、心が不安定になっている、安部由加里の従兄弟──仲嶋氏だった。
仲嶋氏は、無表情で路地の中央に立っていた。