東央テレビ5番スタジオそばのメイクルーム。
ノックとほぼ同時にドアが開き、AD(アシスタント・ディレクター)が顔を出した。
「あと20分でーす。スタンバイお願いしあーす」
「はい」
返事を返したのは、倉本(くらもと)ミチルのマネージャー、安倍道明(あべみちあき)であった。
「今日はミチルちゃんを一目見たいってんで、客席満杯っすよ。
席の数、5割方増やしたんすけどねえ♪ それじゃ、──ん?」
ドアを閉める手を止めて、ADは鼻をひくつかせ、眉を寄せた。
「あ、いや、えっと──じゃ、お願いしまっす」
倉本ミチル、17歳。
今人気急上昇中の、実力派シンガーだ。
デビューしてまだいくらも経っていないが、すでにシングル4枚アルバム1枚を出し、そのすべてがミリオンヒットになっている。
だが、倉本ミチルが話題になっている理由は、それだけではない。
アメリカからの帰国子女であることに加え、デビュー以来これまで、一切のテレビに出演していないということも、彼女のカリスマ性を高くしていた。
その彼女が今夜ついに生放送の「イブニング・ポップス in JAPAN」に出演する。
ジャパンポップスの話題は、このところそれで持ちきりであった。
生で歌う倉本ミチルが見られる!
ファンの期待は高まっていた。
「さっきから、お花とか、いっぱい届くの。なんか緊張しちゃうね」
鏡に向かい、メイクの仕上げをしながら、ミチルが言った。
「そう言えば、──ね、安倍ちゃん。安倍ちゃんって、あの『安倍晴明』の末裔なんだって?」
「どうしたの、いきなり」
「それがほんとなら、今日のがうまくいくように、呪文でも唱えてくれない?」
安倍は笑った。
「同じ『安倍』姓だからって、末裔とは限らないよ。
それに、僕が安倍晴明の末裔であってもなくても、今日の出演がうまくいくように祈ってるのは、同じだって」
「そうお?」
ミチルは不満げだ。
「ああもう。ファンデがのらない。なんかシミができてるー」
それでむくれてたのか。
笑いをこらえ、安倍はミチルの頬のシミを、ファンデーションで隠してやった。
この程度のメイクなら、お手の物である。
ぶうん。
どこから紛れ込んだのか、ハエが1匹、部屋の中を飛んでいる。
「ハエだ。どっから入ったんだろ」
「わかんない。さっきから飛んでるの」
ぶうん。
「ん? ミチルちゃん、これは何?」
安倍は、倉本ミチル宛に届いた花束の中に、見慣れぬ物を見た。
花束は花束だが、──黒い。
黒百合であった。
「あ、さっき持ってきてくれたの。女の子──あたしと同い年ぐらいじゃないかな」
「ファンの子が? 一般人は入れないはずだけど」
少女が持ってきたという花束を、手に取ってみる。
特に不審な点はないが、メッセージカードが添えられていた。
黄泉へ去るべき者、黄泉へと戻らん 黒
「くろ……!」
安倍の顔色が変わった。
そして、さっきメイクルームに入る直前にすれ違った少女を思い出していた。
「おはようございます」と言って頭を下げたので、スタッフかと勘違いしたが、今にして思えば、明らかに若すぎた。
安倍とすれ違うとき、少女はこうも言った。
「もう眠らせてあげたらどうでしょうか」
そのときは意味がわからなかったのだが、今なら、わかる。
あの少女は「黒」の者だったのだ。
「ミ……ミチルちゃん」
声が震えているのが、自分でもわかった。
「なーに?」
「今日の出演、キャンセルしよう」
ミチルは目を丸くした。
「安倍ちゃん、何を言い出すのよー。ドタキャンはこの業界のタブーだって、いっつも言ってるの、安倍ちゃんじゃないのー」
「そ、そうなんだけどさ……」
安倍はしばらく言いよどんでいたが、やがて、言った。
「ミチルちゃん……君はね……死んでいるんだよ」
「……あたしが死んでるって……どういうこと?」
安倍が冗談を言っていると思っているのか、ミチルの口元には笑いがあった。
だが安倍は真顔だった。
「1ヶ月前……車、運転しただろ?」
「何よー、なんのことかと思ったら、またその話なのー? もう、あのときに何回も『ごめんなさい』したじゃない」
ミチルは、うんざりした顔で言った。
「つまり、こう言いたいわけね? 『お前は、あのときの事故で、死んでもおかしくなかったんだ』って」
「そうじゃないんだ」
安倍は首を横に振った。
「そうじゃなくて、君は本当にあのときの事故で、死んだんだよ」