1.事故か事件か
荒川沿いを走る都道449号線。それに面した更地に誰か倒れているという一報を受けた向島署は、最寄りの派出所の警官を現地へ向かわせた。
現場は雑草が膝やくるぶしあたりまで伸び、更地になってからけっこうな日が過ぎていることがうかがえた。
その雑草に埋もれるように、一人の男性がうつぶせで倒れていた。
10月という季節柄、薄い生地のブルゾンにジーンズというラフな姿であった。
到着した警官は、まず「もしもーし。どうされましたー?」と声をかけた。
返事がなかったため、警官は男性の肩を揺すろうと、肩に手を置いた。
「わっ」
警官は思わず声を上げ、触れた手を引いた。
男性の身体が冷たかった。
並の冷たさではなかった。
生命を失った肉体の冷たさですらなかった。
大きな氷、それも冷凍室から出したばかりの氷に触ったような、うっかりするとてのひらの皮膚がくっついてしまいそうな冷たさであった。
あらためて男性の身体を見て、警官はその異様さに気づいた。
男性の全身は白っぽい何かにおおわれていた。
──霜であった。
男性の身体のあまりの冷たさに、周囲の水蒸気が霜となって男性の身体に付着しているのだ。
警官はただちに署に無線連絡し、応援を要請した。
2.真冬でもないのに凍死
K医大法医学部、准教授室。
名取裕子似の監察医と所轄の刑事が、テーブルでコーヒーを飲んでいる。手の空いている助手たちも同席している。
「何かで読んだことがあるんですけど、夏でも凍死ってあるんですよね」
刑事が言った。
「あるよー。泥酔して、全身ずぶ濡れ状態で冷房にずっと当たっていたりとかするとね。エアコンじゃなくて扇風機でもね」
女医が答えた。
「でも、ただ扇風機に当たってたってだけじゃ死なないわよ。なんでか、ネット上ではそういうでまかせを信じるバカが多いけど」
「あー、そうなんすか。俺もそう思ってましたよ」
「脱水症状は起こしやすいから、注意は必要だけどね」
「──こないだの、更地で亡くなっていた人の話ですか?」
助手の一人が口をはさんだ。
「そう。外傷がなくて、既往歴も無しで。それで、さっき先生から死因が凍死と聞いたもんで」
「確かに凍死なんだけどね。あの仏さんの場合は、今言った『夏の凍死』の場合とは、ちょっと違うよ」
「え。と言いますと」
飲みかけたコーヒーカップを手に持ったまま、刑事が訊く。
「さっき言った『夏の凍死』の場合、正確な死因は『低体温症』になるの。それもひとくくりで言えば凍死なんだけどね」
「あの仏さんは、違うんですか」
「身体の細胞が破壊されてたんですよ、極低温で冷凍されたみたいに。それに、そもそも全身がカチンカチンに凍りついてましたからね」
再び、助手が口をはさむ。
「冷凍マグロみたいな感じですか」
「これっ」
刑事が思わず言った比喩を、女医がたしなめる。
「でもまあ、まさにそんな感じなのは確かなのよねえ」
「どこかでカチンカチンに冷凍したのを、現場まで運んで……って、そんなことするメリットってありませんしねえ。そもそも、仏さんはヤバイ稼業でもなんでもない、普通のサラリーマンですしね。なんか、心霊マニアらしいんすけどね。──知ってます? あそこで以前、殺しがあったの。あそこにもともとあった冷凍倉庫に閉じ込められて、主婦が殺されて」
「知ってるも何も、その検死もうちでやってるし」
「死に方が死に方なんで、現場が心霊スポット扱いされて。気味悪いってんで更地になったあとも、物好きな連中が探検と称して来ていたようで」
「ははあ。あの仏さんも、そういう物好きの一人ってこと」
「そういうことです。そこで、何か事件に巻き込まれたんじゃないか……ってことで、何かこう、事件性のようなものが出るかなと」
「事件性つってもなー」
女医が頭をかく。
「状況から考えたら自然死はありえないんだけど、事故はもっとありえないし、他殺だとしても、あんな殺し方をする必然性もないしー」
「そうなんですよねー。冷凍倉庫が残っていれば、まだ、間違って閉じ込められた可能性もありますが。あの、ばかばかしいとは思ったんですが、事件当時の現場の気温も気象庁に問い合わせましたよ」
「暑かったよね?」
「10月の平均気温よりも、2度ほど高かったそうです。恥ずかしくて、現場付近が局地的に零下になった可能性があるかなんて訊けませんでしたよ」
「でどうすんの。殺人で捜査することになりそう?」
「自然死はありえないわけですから、そうなりそうですけど、頭痛いっす」
ぼやきながら、刑事は立ち上がった。署に戻るのであろう。
「それが仕事でしょ。がんばんなさいな」
「がんばー♪」
女医が冷淡に言い、助手たちは手を振って刑事を送り出した。
3.主婦・美穂さんの冒険
墨田区在住の主婦、美穂さんは、買い物帰りにふと思い立ち、寄り道することにした。目的地は、例の事件現場である。
ちょっと前、ここにまだ冷凍倉庫があった頃に殺人事件があり、そしてまた、つい先日、ここで男の人が死んでいたという。
ワイドショーなどではただ死んでいたとしか言っていなかったが、きっと何かある。
美穂さんはそう考えていた。
殺人事件が起きた冷凍倉庫はすでになくなって更地になっているし、こないだの事件も、警察が調べただろうから、今さら主婦の自分が見に行ったからと言って、何か目新しいものが見つかるわけでもないだろう。
それは美穂さんもわかっている。
──でもやっぱ、ちょっと見てみたいし。
現場となった更地は、すでにところどころ雑草が伸びていた。地面から少し顔を出しているパイプは、ガスや上下水道のものだろう。よくよく見れば建物があった部分とそれ以外で雑草の伸びが異なるので、どのあたりに建物があったか程度はわかるが、逆に言えばそれ以外はわからない。
「ちぇっ」
ぽつりと口にした美穂さんは、ふいに寒気を感じた。
──さむっ。
無意識に両肩を抱いた美穂さんは、自分の前方数メートルのところに立つ、女性らしき人影に気づいた。
「どうしたんでしょう。なんか、急に寒くなりましたねー。今日はポカポカ陽気って予報で言っていたのに」
美穂さんは、そう女性に声をかけた。──かけようとしたのだが、口がかじかんで、声にならなかった。
視界が白くなっていた。霧? いや、これは雪だ。真っ白な、粉雪。
レンタルビデオで見た映画のシーンが頭に浮かんだ。
八甲田山。それと、織田裕二主演の、あの映画。
そう、「ホワイトアウト」だ。
こういう状況のことを「ホワイトアウト」と言うのを、あの映画で知った。
ホワイトアウト? ここで? 10月の都内で?
すでに身体が動かなくなっていた。
こんなのも、ビデオで見たな……。なんだったっけ。
そう、「ターミネーター2」だ。
クライマックス近くで、悪役のターミネーターが何かの薬で凍って……
そこで、美穂さんの意識が途絶えた。
バランスを崩して、地面に倒れ込む。
堅く凍結した身体が地面にぶつかり、全身が砕けた。
あの映画と同じように。
4.ありえない死
「……やっぱ、ありえませんよねえ」
K医大法医学部の准教授室、そこの応接セットのソファで、所轄の刑事は言いにくそうに言った。向かいに座っているのは、女優の名取裕子似の監察医である。
「絶対ありえない」
女医はぶすっとして言った。
「動機とか目的は皆目見当が付かないけれど、どこかでカチンカチンに冷凍して、あそこに放り出していったというのなら、まあ、わかる。でも」
女医はむずかしい顔をした。
「あの仏さんは、間違いなくあそこで死んでる。鑑識の調べでも、さっきの剖検でも、それは間違いない。でも、そんなことってありえないのよ」
「大量の液体窒素か何かに全身を浸ければあるいは、とも思いますけど、あの場所でそんなことをしたら、目に付かないはずがないですしね」
そばに立つ助手が言葉を添える。
「まあ百歩譲って液体窒素か何かを使ったとして、それが入ったタンクに全身を浸けるとすると、……ちょっと立ってみて」
女医は刑事を立ち上がらせた。
「直立不動の姿勢で。──そうそう。こんな格好じゃないと、タンクにも入れにくいじゃない? こんな格好を維持させようとしたら、縄で縛るか、あるいは薬か何かで意識不明にするか、しかないわけよね?」
女医は助手たちに同意を求めた。助手たちが、コクコクとうなずく。
「でもあの仏さんの場合、血液中に薬物反応はなかったし、縄で縛られたあともなかった。そもそも直立不動の姿勢でもなかった。更地の中をぶらついているときに、そのまま凍結したような格好で」
「買い物籠を手に提げていましたしね」
「あ、ああっ!」
所轄の刑事が突然大声を上げたので、女医や助手たちは一瞬のけぞった。
「先生、俺、ひらめいちゃいましたっ! もしかしてこれって、警視総監賞ものかもっ!」
「殺害方法がわかったんですか?」
助手がそう言ったが、口調はあくまで冷ややかであった。
「知りませんか、こんなの。殺虫剤なんですけどね、毒じゃなくて、冷たいガスで冷やして冷凍にして殺しちゃうやつ。あれをね、こう、シューって」
「確かにそういうのがあるのは知ってるけどね」
女医がこめかみのあたりをポリポリと掻きながら言う。
「まさか、そのタイプの殺虫スプレー1本で殺せるなんて思ってないよね?」
「もちろんですよ。こう、シューって」
刑事は両手にそれぞれスプレーを持つような手つきをした。
「あほらし。2本でも同じよ。人一人カチンカチンにするのに足りるわけないでしょ。第一、そういった薬物の反応は出なかったって、さっきも言ったでしょうが」
「だめすか」
刑事が肩を落とす。
「……私、一度、現場に行ってみるわ」
女医がそう言ったので、今度は助手たちと刑事が驚いた。
「先生。現場検証ですか」
助手が訊くと、女医は手を振った。
「そんな大げさなもんじゃなくて。現場検証は鑑識さんにおまかせ。私は、現場がどんなところか見ておきたいだけ」
「大丈夫ですか、先生。なんでしたら、俺、お供に」「私も」「私も」
刑事や助手たちがさすがに心配して、女医に言ったが、女医は首を横に振った。
「正式な捜査活動じゃないし、今度のオフの日にでも、ぶらっと行ってくるから。心配しなくても大丈夫」
5.心霊マニアのブログより
東京都墨田区東墨田、荒川沿いを走る都道449号線に面した位置に、広めの更地がある。
ここには以前、近くの鮮魚業者が所有していた冷凍倉庫があった。
この冷凍倉庫で、数年前に猟奇的な事件が起きた。
行方不明になっていた、近くに住む主婦の死体が、この倉庫の中で見つかったのである。
向島署の調べで、主婦は鮮魚業者と不倫関係にあり、別れ話のもつれによって鮮魚業者が主婦を殺害し、その死体を冷凍倉庫に隠したとわかった。
新聞やテレビの報道ではそうなっているが、事実は少し異なるのである。
主婦は首を絞められたのだが、直接の死因はそれではなかった。
冷凍倉庫に閉じ込められたあとで、主婦は息を吹き返したのだった。
つまり、主婦は冷凍倉庫の冷気によって凍死したのである。
現在、件の場所に冷凍倉庫はない。前述の通り、更地になってしまい、事件を思わせる雰囲気は皆無だという。
だが、無惨に殺された主婦の無念の思いは、今もそこにあるのではないかという意見である。
殺害現場を訪れるという野次馬的な行動はいささか後ろめたいが、近いうちに訪ねてみようと思う。怪談の神に召された者の一人として、私なりに供養の真似事でもさせていただく所存である。
ある意味、鎮魂であると考える次第。
6.黒神由貴、現場へ
月曜日、黒神由貴は星龍学園からの帰宅途中に「凍死事件」の現場に足を伸ばした。
尋常ではない死がここで立て続けに起こっている。ニュースからの情報だけでも、ただの事件ではないのがわかった。いずれ祖母の千代から、調べるように、あるいは「退魔行」するように命じられるだろう。その前に、下調べをするつもりであった。
サスペンス・ドラマにあるような、鑑識の黄色いテープは貼られていなかった。
遺体発見時は現状保存のために貼られたであろうが、今は取り去られたようだ。
更地前の道路に立ち、ざっと見渡す。
建物が解体されたあとは、ほとんど手入れされていないと見えて、雑草が伸びっぱなしだ。短いものでもくるぶしまで。長いものはふくらはぎ近くまである。これでは遺体の発見も遅くなっただろう。
黒神由貴は更地に足を踏み入れ、足元に何か痕跡が残っていないか、調べ始めた。
ここで過去に何があったかは、ネットなどで調べてすでにわかっている。
ネット上で情報を集めていたとき、黒神由貴は心霊マニアらしい人物のブログを見つけた。
その人物は冷凍倉庫での殺人事件に心霊的興味を持っていたらしく、近いうちに現場を訪れるという言葉で、ブログの記事は終わっていた。以後、更新されていない。
更新されないのも道理、最初にこの更地で発見された凍死体が、このブログの主だったのだ。
ブログの記事を読んで、黒神由貴はこの人物が何かやらかしたのではないかと考えた。安い心霊ムック本の適当な記述を丸飲みして、逆に事態を大きくしたのではないかと。
記事の最後でブログ主は、「供養の真似事」でもするつもりであると書いている。
中途半端な知識を持った人間にしばしばあることではあるが、「鎮魂」あるいは「供養」したつもりで、実は「覚醒」させてしまったのではないか。
黒神由貴はそう考えたのだった。
この手の「ヲタク」は、妙に念入りなところがある。自らの「供養」がうかつに見つかって処分されてしまわないよう、目に付きにくいところに置いているはずだ。たとえば、雑草や石の陰などに──
あった。
小石を数個積み上げ、それを隠すように、コンクリート・ブロックが置かれていた。積み上げられた小石は、ちょうど「賽の河原」に積まれた石のようであった。何らかの意図をもって積まれたものであるは間違いない。
心霊マニアの死体が発見されたとき、周辺の遺留品捜索もされたはずだが、事件とは関連がないと判断されたのだろう。
黒神由貴はかがみ込んでブロックをどかし、積まれた小石も取り去った。
小石を取り去ったあとの地面に、紙片が置かれていた。石積みは重しも兼ねていたのだ。
紙片を手にとって、そこに書かれた文字を見た黒神由貴は小さくため息をついた。
思った通りであった。
心霊マニアは、自らのブログに書いたとおり、「自分なりの供養」をしたのだろう。だが心霊マニアが置いた紙片の文言は、怨霊が「自分の行動は正しい」と勘違いしてしまうようなものだった。甘やかされたガキが「あなたは悪くない」と言われるようなものだ。
──これだから、ど素人は困るってんだよ! 面倒を増やすなってんだ、バカが!
神代冴子だったら、おそらくそう毒づいたであろう。これは黒神由貴も同意見である。
状況はわかった。
今日はこれで引き上げ、あらためて退魔行のための用意を調えて、ここに来よう。
黒神由貴は思い、紙片を小さく丸め、ポケットに入れた。
立ち上がろうとした黒神由貴の視界を、何か白っぽくて小さな物が上から下によぎった。
雪であった。
あっと思う間もなく、横殴りの吹雪となった。
そして、ホワイトアウト。
7.雪女との戦い
しまった。
黒神由貴は自分のうかつさを呪った。
今日は単なる下見のつもりで、正式な退魔行は準備を整えてからおこなうつもりだったので、武器となるものは何一つ所持していない。護符すらない。
逃げるしかない。
白くにごった視界の先にぼんやりとかすむ人影を認め、それが妖しであると確信した。あれをなんとかすれば解決するのに。
我が身を護る印を結び、その場を立ち去ろうとしたとき、背後から女性らしきわめき声が聞こえた。
「ちょっ、なんなのよこれっ。なんでいきなり吹雪になんのよっ! どうなってんのっ」
──真理子っ!?
今日ここへ来ることは榊真理子には話していなかったが、どこかでそれを知って、あとをつけてきたのだろうか。
とにかく、この場を離れねば。
振り返った黒神由貴は、1メートルほど離れた場所に立っていた人物に駆けより、かばう形で前に立った。
「真理子、なんでこんなところに来るのよっ! 危険でしょっ!」
横殴りに吹きすさぶ吹雪から顔をかばいながら、黒神由貴は後ろを見ずに叫んだ。
「……寒くないですか……?」
前方から声が聞こえて、黒神由貴は伏せていた顔を上げた。視界の先にぼんやりと見えていたさっきの人影が、近くまでやってきていた。
年格好ははっきりとわからないが、女性のようであった。
おそらくは、この場所での最初の死者、殺された主婦の怨霊であろう。
「わたし、ものすごく寒くて……怖くて……一人で死にたくなくて……」
怨霊が言った。
「わたしがどんなに寒かったか、わかってもらいたくて……」
それが二人の人間を凍らせて殺害した動機か。恨みでも呪いでもなく、ただ、自分と同じような仲間が欲しかっただけ。なるほど、殺害現場であるにもかかわらず、妖気を感じなかったはずだ。ホワイトアウトになるまで、気配も感じなかった。
納得している場合ではなかった。このままでは、これまでの死者と同じはめになってしまう。
自分一人ならともかく、榊真理子と一緒に逃げるのはむずかしい。
今ここで、なんとかするしかない。
黒神由貴は右手を手刀の形にし、怨霊に向けて式神を放った。
式神は怨霊の周囲を数瞬の間ひらひらと舞ったが、消え去ってしまった。
「やめてください。ひどいことしないで」
怨霊は蚊やハエを追い払うような手つきをした。全く効いていない。
──だめか。
そのとき、いつか「電脳空間」で榊真理子がやったことを思い出した。
あれをここでやれるだろうか。
あれはあの場が「電脳空間」だったから可能だったのではなかったか。
だが、ためらっている場合ではなかった。身体が凍え始めている。
黒神由貴は大きく深呼吸し、精神を集中させて体内の気を高めていった。
何度目かの深呼吸の後、大きく息を吐くと同時に両てのひらを怨霊に突き出した。
「はあっ!」
榊真理子が「電脳空間」で放った技のような雷光は出なかったが、強烈な力が発せられたのがわかった。力は一直線に怨霊へ向かって行った。
力の直撃を受けた怨霊は、悲鳴もあげず、粉々に消し飛んだ。消し飛ぶ瞬間、怨霊は驚いたような顔をした。自分に何が起こったのか、理解する間もなかったであろう。
黒神由貴はがっくりと膝をついた。
今自分が放ったのが、自らの精神力、さらに言うなら生命力だったのだとわかった。危急であったとは言え、よくも無茶をしたものだ。
「ちょっとあなた、しっかり。大丈夫?」
女性が声をかけてきた。
「私は大丈夫。真理子の方こそ、……え?」
振り返った黒神由貴は、唖然とした。
そばにいた女性は、榊真理子ではなかった。全く見も知らぬ、中年ぐらいの年配の女性であった。こじゃれたスーツを着こなし、理知的な雰囲気が感じられた。
「早くここを離れないと……あれっ?」
女性がまわりを見回して言った。
吹雪も、ホワイトアウトも、なくなっていた。雪も止んでいる。
ごく普通の、10月の陽気に戻っていた。
「なんなのいったい……どうなってんの、これ。……あなた、立てる?」
女性は黒神由貴に手を貸して立ち上がらせた。
「ありがとうございます。……あの、失礼ですが、あなたはどういう方でしょうか。たまたま通りがかったとは思えないのですが」
黒神由貴は女性に訊いた。
「私はK医大で監察医やってるの。ここで変な事件が続いたでしょ。それで、実際の現場を見ておこうと思って。それで、来てみたらあなたがいて、急に吹雪になって。わけわかんないわ」
そうだったのか。道理で冷静だったはずだ。
「まあとにかく、長居は無用みたいね。私、車で来てるから、おうちまで送るわ」
黒神由貴が遠慮する間もなく、女性は言った。
「ところで」
女性の運転で黒神由貴の家に向かいながら、女優の名取裕子似の女性は言った。
「さっき、私と間違えたらしいマリコって人は、あなたの友達?」
「はい」
「よっぽど大事な人みたいね」
「え……」
言われて、黒神由貴はとまどった。
「だって、自分の身も危ないような状況で、守ろうとしてくれてたもんね。うらやましいわあ。青春よねえ」
「はあ……まあ」
あいまいにうなずいた黒神由貴は、寒気を感じた。
ぞっとしたわけではない。
さっきの冷気にやられたのだろうと黒神由貴は思った。
「くちゅん」
場違いなほど可愛らしいくしゃみが、黒神由貴の口から出た。
エピローグ
翌日の火曜日はそうでもなかったので、ひょっとするとこのまま何ごともないか、と思っていたが、水曜日になって体調は悪化した。
なんとか一日がんばってはみたが、喉の痛みは激しくなるばかりで、おそらくはそれなりに熱も出ているだろうと思われた。
「エヘン虫? 風邪っぽい?」
帰り道、榊真理子が言った。
「……みたい」
木曜日、やはりダウンした。
昼に榊真理子から届いたメールに短く返事して、自室のベッドの上でうつらうつらとする。
あー、しまった。週末はお祖母様から頼まれていた用事があるのに。この状態では、ちょっと無理かも知れない。
一週間、先延ばしにしてもらおう。