寝込むに至るプロローグ
本日は水曜日。
昨日あたりから、黒神由貴が具合悪そうなのはなんとなく気づいていたのだが、今日は朝から軽く咳き込んでいたので、はっきりとわかった。
早退することもなく最後の授業まで学校にいたが、どちらかと言うと、体調は悪い方に向かっているようだった。
駅へ向かう帰り道。黒神由貴は咳払いを繰り返している。
「エヘン虫? 風邪っぽい?」
私がそう訊くと、黒神由貴はしゃがれ気味の声で、
「……みたい」
とだけ言った。話すのもつらそうなので、あれこれと体調について聞くのはやめた。
翌日の木曜日。
朝、教室に入ると黒神由貴の姿がなかった。いつも私よりも早く登校してくるので、今いないということは、たぶん病欠だろう。
昼休みになるのを待って、黒神由貴に連絡した。昨日の様子からして話すのはつらいだろうから、電話ではなくメールにした。気くばり真理子さんだ。
『生きてる?』
送る相手によっては激怒されそうな文面だが、黒神由貴なら大丈夫だろう。
数分して、返信が届いた。
『ごめん。寝込んでる』
やっぱし。
まあ黒神由貴も人の子だし、そんなこともあるよね。
『わかった。お大事に。返信はいらないから』
そう送っておいた。
雰囲気からして明日は出てこれるという感じでもないし、金土日と休めば大丈夫だろう。
その日の夜。
夕食が終わって自分の部屋でネットをさまよっていると、携帯が鳴った。
手に取ってディスプレイを見ると、覚えのない番号だった。
着信音はずっと鳴っているので、今どきワン切りでもない。
誰だろう。
「……もしもし」
電話を受けた側が「もしもし」というのは本来ならおかしいのだが、基本的に、私は知らない番号からかかった電話にはいきなり名乗らないようにしている。
『恐れ入ります。そちらは榊真理子様の携帯電話でしょうか』
「はいそうです」
落ち着いた女性の声だったので、警戒することもなく私は認めた。それに、私は相手の声に覚えがあった。
『わたくし、黒神由貴の祖母でございます。先日はお世話になりました』
黒神由貴のお祖母様であった。「かまいたち」の出来事について「いえいえいえ」「どうもどうも」的なやりとりをひとしきりやったあと、お祖母様は別の用件を切り出した。
というか、そもそもはそちらが本題だったのだろうと思う。
『実は次の土日のどちらかに由貴にやってもらうつもりでいたことがあったのですが、今日連絡しましたところ、体調を崩しているらしく、そこで、厚かましいお願いと重々承知しているのですが、由貴に代わって真理子さんにお願いできないかと』
ちょっと待て。
黒神由貴の代わりって、私に黒神由貴の代理がつとまるわけないじゃないか。いくらなんでもそりゃ無茶だ。
……そんな意味のことを、私はやんわりと言った。
『ご心配には及びません』
お祖母様は言った。
『ちょっとしたおつかいのようなものです。ただ、こればかりは他に頼むことができる方がいないものですから』
「はあ」
押し切られてしまった。
もしかしたら私って、訪問販売とかオレオレ詐欺に引っかかりやすいタイプなのかも知れない。
黒神神社にて
で、日曜日。
私は、黒神家の本家とでも言うのか、お祖母様の家にいた。
これまでに二度来ているので、とくに迷うこともなかった。
以前にも入った「拝殿の間」に案内され、まずはお茶を一服。
お祖母様は「拝殿の間」の「拝殿の間」たるゆえんの巨大な祭壇を背にして正座し、私はその前に正座するという、以前と同様の緊張感バリバリの状況だ。
落ち着いたところで、お祖母様は傍らに置いてあった小ぶりな籐かごを、私の前に出した。
「お願いというのは、奥の院に行って、この榊を交換していただきたいのです」
見ると、籐かごの中には花立てにセットされた榊が二組入っていた。
「奥の院……」
私は無意識に隣にある黒神神社の方に目をやった。
「いえ、黒神神社の奥の院は、実はこちらなのです」
お祖母様は身体半分ほど振り返り、自分の背後にある巨大な祭壇を指し示した。
「この祭壇の地下に、黒神神社奥の院の社があります。そこの榊を、この新しいものと交換していただきたいと、そういうことなのです。いかがでしょう」
拍子抜けした。そんなことか。そんな簡単なことでいいのか。
いや待て。
そんな簡単なことを、わざわざ身内でもない私に頼むだろうか。
何か裏があるんじゃないのか。
「ただし、注意していただくことがございます」
ほーら見ろ、思った通りだ。
「奥の院で、あるいはその途中で、妙なものを見かけるかも知れません。もしそういうものを見かけても、知らん顔をして下さい」
私の顔が引きつったのに気づいたのだろう、お祖母様が笑った。
「そんなに怖がることはございません。知らん顔をしていれば危険なことはありませんし、万一の場合はわたくしが御守りいたします」
いや、だから、お祖母様が出なければならないようなこともありえるってことじゃないか。全然安心できんぞ、それ。
「それでは参りましょうか」
そう言ってお祖母様は立ち上がった。
どうするのかと見ていると、巨大な祭壇の前にかがみ込み、でっかい錠前を開け、扉を開いた。
お祖母様が手招きするので、籐かごを持ち、祭壇のそばに行く。
首を伸ばしてのぞき込むと、扉の中は下へ続く階段になっていた。
お祖母様がスイッチを操作すると、オレンジ色の明かりがともった。どうやら真っ暗の中を行くわけではないようなので、多少はほっとする。
「どうぞ」
そう言って、お祖母様は扉の中に入り、階段を下りていった。頭をかがめて、私もあとに続く。
階段は短いものだった。普通の家の一階と二階をつなぐぐらいの長さだろう。
階段を下りた先には、人が二人並んで歩けるほどの幅の通路が延びていて、ぽつんぽつんと明かりがともっていた。先を見渡せるほどの明るさではないが、歩くのには不自由なさそうだ。
通路は廊下のように真四角な感じではなく、ざっくりと丸っこい四角に掘った壁をセメントか何かで固めたような感じだった。足元の地面は、踏み固めたような土の道だ。
「この先、5分ほど歩いたところに奥の院がございます。榊を替えて、普通に参拝すれば、それで終わりです」
お祖母様が言った。
「えっと……神社の参拝は、『二礼二拍手一礼』……ですよね」
「そうです。普通にお参りするように、真理子さんの好きなお願い事をしてけっこうですよ」
お祖母様が笑った。
「わかりました。それじゃ、行ってきます」
「よろしくお願いいたします」
私は、通路の奥へ歩き出した。いざ、奥の院へ。
奥の院にて
うす暗い明かりの中を歩いて行く。
お祖母様は5分ほどと言ったが、考えてみれば徒歩5分というのはけっこうな距離だ。そんな通路が家の地下にあるのだから、すごい。
やがて、通路の先に、通路の明かりとは違う光が見えてきた。
きっとあれが、奥の院だろう。
頭のどこかで、この通路がずっと永遠に続いていたらどうしようなどと考えていたので、正直、かなりほっとした。
見えていた奥の院の明かりは、祭壇の明かりだった。
入ってきたときの秘密の入口とか、この地下通路とか、そんな設備のことを考えると、奥の院の祭壇は、驚くほど質素だった。信心深い家庭だったら、一般の家にもありそうな、ちょっと豪華な祭壇。そんな感じだ。ただ、ものすごく古いものだろうという印象は受けた。
火の用心のためか、祭壇そのものにはロウソクとかの灯明はなかった。祭壇の手前両側に灯籠があって、その明かりが祭壇を照らしていた。通路の照明と同様、こちらも電気照明になっていた。
祭壇の後ろは行き止まりのようだ。通路はここまでらしい。
私は祭壇に置かれた古い榊を下ろし、新しい榊を置いた。
お祖母様に言われたとおり、二礼二拍手一礼で参拝する。
取り急ぎの願い事もないので、私や家族、黒神由貴の無事を願う。
二礼二拍手一礼、最後の一礼をして、私は顔を上げた。
目の前にあったはずの祭壇が、消えていた。
しばらくの間──少なくとも10秒か20秒ぐらいは呆然としていたと思う。
状況が理解できないでいたのだ。
いやーな予感がして、私はおそるおそる背後を振り向いた。
いやーな予感が的中していた。
ここまで歩いてきた通路と、それを照らしていた照明が、なくなっていた。
私の周囲360度すべて、ものすごく広大な平地となっていた。
いや、実際に見えているのは数メートル先までで、それから先は闇に溶け込んでいて見えないのだが、そう感じるのだ。どこから来る明かりなのか、私の周囲半径数メートルぐらいがぼんやりと明るくなっていて、様子はわかる。
今立っている場所がどれぐらい広いのかはまったくわからない。ただ、感じからして運動場とか広場とか、とにかく「屋外」という雰囲気はした。
そんな広大な「どこか」に、たった一人で立っているのだ。
あとになって思ったのだが、このとき、よくパニクらなかったものだ。
てか、たぶんそのままだったら、いずれパニクっていただろう。
パニクらなかったのは、その前に、声をかけられたからだ。
「あれ? いつも来る子じゃないよね」
広大な、どことも知れない闇の中でそんな風に声をかけられたら、悲鳴や絶叫を上げても不思議ではない状況だろうと思う。
でも私は悲鳴も上げず、絶叫もしなかった。
実は、ほっとしたのだ。
迷子が誰かに声をかけられて、ほっとする。あのまんまだった。
声は若い男性のものだった。
私は声が聞こえた方を見た。
2メートルほど離れたところに、一人の男性が立っていた。声の印象と同様の、若い男性だった。私と同年配ではないだろうか。
ほっそりとした体格で、身長は私と同じかちょっとだけ低いぐらい、服装は、あまり今風ではないが、ごく普通のカジュアルなものだった。チャライ雰囲気はない。
声をかけられたときの言い方で、私はこの人は黒神由貴を知っているのだと判断し、答えた。
「くろかみは、今日はちょっと具合が悪くて、それで、私が代理で」
ほっとして正直半泣き状態だったので、つっかえながらだったのは勘弁してもらいたい。
「ああ、それで」
若い男性は笑った。
「でも君、よくここまで来られたねえ」
笑ったあと真顔になって、若い男性は言った。
「え……」
と、私はとまどう。
「普通の人は、こんなところまで来られないよ? いつも来る子や婆さんはともかく」
つまり、私が今いる場所は、黒神由貴やお祖母様クラスでないと来ることができない場所ということか。
そこでようやく、私は気づいた。
じゃあ、じゃあ、今、私の目の前にいるこの人って。
「大丈夫大丈夫。俺は普通の人間だよ。事情があって、そちらには行けないけど」
私の表情が警戒心maxになったのに気づいたのだろう。若い男性はあわてて言った。
だまされてたまるか。
お祖母様だって言ってたじゃないか。「妙なものを見かけるかも知れない」って。人がいるとわかっていれば、お祖母様はそう言ったはずだ。
「君、かなりうたぐり深いなあ。まあそういうのって、悪いことじゃないけどさ」
私が警戒心を解かず、むしろ後ずさったのを見て、若い男性は気を悪くしたように言った。
「いつもの子とは違うから、ちゃんと帰られるかどうか、心配してきてやったのにな」
そうだった。
それでパニクりかけていたときに、この人が突然現れたのだった。
「やっぱし」
私の顔に不安の色が浮かんだのに目ざとく気づき、若い男性は得意そうな表情になった。そんなときは、ほんの少し可愛く感じられた。
「あの婆さんも人が悪いよなあ。帰ってこられなくなったらどうするつもりだったんだ」
「お祖母様を知ってるの?」
ほんの少し警戒心を解く気になって、私は言った。
「顔を見たことはある。話したことはないな。婆さんも同じようなもんだろな。俺がここにいるのはわかってると思う。──あー、だから君を一人で来させたのか」
若い男性は一人で納得していた。
「じゃあ、そろそろ帰んな。あの婆さんをオロオロさせるのも面白いけどな」
若い男性はそう言うと、足元にあった籐かごを私に手渡した。
「ん。これ腕にかけて。んでそこに立って。そうそう。で、目を閉じて一二の三で、柏手を一発。OK?」
私はこくこくとうなずいた。私のすぐ前に若い男性が立って、柏手を打つ体勢になった。
「んじゃ、一二の」
「あ、ちょっと待って!」
私はあわてて言った。
「あなた誰。名前教えてよ」
「え、俺?」
「うん」
「三浦拓実(みうらたくみ)」
私が内心で首をかしげたのに気づいたのだろう。若い男性──三浦拓実は言葉を継いだ。
「初対面だよ。あのさ、それでさ、君の学校に神代冴子って子いるだろ」
「神代先生を知ってるの? 『子』って、うちの先生だけど」
「ちょっとね。三浦拓実がよろしく言ってたって伝えてくんないかな。こっちでそれなりに元気にやってるって。じゃ、一二の、」
再び、三浦拓実が柏手の体勢になったので、私はあわてて目を閉じて、両手を胸のあたりまで上げた。
「三!」
周辺の気配が変わったような気がして、私はおそるおそる目を開いた。
目の前に黒神神社奥の院の社があった。
広大な空間はなくなっていて、三浦拓実の姿も消えていた。
背後を振り返る。
通路はちゃんとあって、薄暗い照明が先の方まで続いていた。
私は古い榊の入った籐かごを持ち直し、通路の先にある拝殿の間へ向かって歩き出した。
お祖母様が階段の下に立っていた。私が帰ってくるのを待っていたのだろう。
「ただいま戻りました」
「お世話様でございました。大事なかったですか」
「おっかないお化けとかは出ませんでした」
私はそう言って、お祖母様のあとに続いて階段を昇っていった。
「向こう」で会った三浦拓実のことを、どう説明すればいいんだろうと思いながら。
回復に至るエピローグ
もうほとんど回復したのだが、大事を取って月曜日も休めと言われたというメールが、黒神由貴から届いた。火曜日から登校するという。一安心ではあるが、けっこうこじらせていたということか。
月曜日。
三浦拓実の伝言を神代先生に伝えるつもりでいたのだが、タイミングが合わず、結局終わりの時間になってしまった。帰りのホームルームが終わって、神代先生が教室を出るのを追った。
「先生」
「なに」
振り返った神代先生はそう言って、言われた私はとまどった。
どう言えばいいんだろう。ストレートに言うしかないか。
「あの……三浦拓実さんって、ご存じですか」
私がそう言った瞬間、神代先生は、ものすごく複雑な顔をした。
驚き。とまどい。怒り。悲しみ。
そんな、いろんな感情がごちゃ混ぜになったらこんな感じか、という表情だった。
目を見開き、唇をかすかに震わせて、かなりしてから、神代先生は感情を押し殺した声色で言った。
「その名前を、どこで聞いたの?」
で、私は黒神由貴のお祖母様に頼まれて、黒神神社奥の院へ行ったこと、そこで三浦拓実に会い、伝言を頼まれたことを話した。
「そうだったの……。大変だったわね」
神代先生はそう言った。肩が大きく上下していて、言葉には出さないでいるが、かなり動揺しているのがわかった。
「ありがと」
神代先生は短くそう言うと、きびすを返して、職員室へ歩いて行った。
「久しぶりに、高野に行ってくっか……」
神代先生がそうつぶやくのを、確かに私は聞いた。
結局、三浦拓実という人物が何者か、わからないままであった。
「三浦拓実」って誰? という方はこちら
黒神由貴がなぜ寝込んだか気になる方はこちら
神代冴子が高野に行ってからの話はこちら