黒神由貴シリーズ

常世の誘い ~ビギニング神代冴子~ 1


1.高野山──10年前

 和歌山県伊都郡高野町。
 宗教的な意味で「高野山」という場合、この場所を指す。
 多くの寺院が密集した巨大な宗教都市であり、真言密教の総本山である。
 季節を問わず多くの観光客が訪れ、宿坊と呼ばれる寺院に泊まって写経や瞑想体験をする者も少なくない。
 宿坊に泊まった客の中には、夜も明けぬ前から、あるいは朝食後などに、奥の院まで散策する者もいる。
 一の橋、中の橋、御廟橋と続く参道の左右には数え切れないほどの墓が並ぶ。
 その先の奥の院に、灯籠堂と弘法大師の御廟がある。
 タイミングがよければ、生身供(しょうじんぐ)に遭遇することもある。
 入定後1200年、今なお瞑想を続ける大師様に食事を届ける、毎日欠かせない行事だ。

 その日も、宿坊に泊まった信者が奥の院へ向かって歩いていた。熟年女性三人組だ。
 いつもは姦しい彼女たちも、参道の静謐な雰囲気に呑まれ、話し声もいきおい小声になっていた。

「生身供は見られるかしら」

「あれは6時頃だから。……今6時半だし、終わったんじゃないかな」

「見たかったわねえ」

 そんなことを話しながら中の橋まで来た三人は、前方から歩いてくる人影に気づき、思わず立ち止まった。
 昼間でも薄暗い参道の、まして明け方だ。
 人影の細部までは見えない。
 ただ、そのシルエットから、若い女性らしいと見当はついた。

「……幽霊だったりして」

「おっかないこと言わないでよ」

「だって、このあたりって、霊が集まるんでしょ?」

「ちょっと、よく見なさいよ。作務衣を着てるじゃないの。お寺の人よ」

 人影と三人の距離が近くなり、服装も見えるようになって、女性たちの一人が言った。
 女性の言ったとおり、人影は作務衣を着た若い女性であった。
 肩より少し長いぐらいの黒髪、すらりとした長身で、確かに、こういう場所で遭遇すればもののけと見まごうのも仕方ないと思えるほどの美貌であった。
 大人びて見えるが、まだ二十歳前だろうと、女性たちは見た。
 作務衣姿の女性は、三人とすれ違うとき、頭を下げた。
 つられて三人も頭を下げる。
 振り返って、作務衣姿の女性が歩み去る後ろ姿を見送りながら、三人は口々に印象を話した。
 多少興奮しているのか、さっきよりも少々声が大きくなっていた。

「……きれいな子だったわねえ」

「きれいすぎて、本気で幽霊かと思ったわよ」

「あたし、もし一人だったら、悲鳴をあげるか逃げるかしたと思う」

 作務衣姿の女性の名は神代冴子。17歳だった。





高野山・奥の院参道

 一の橋を渡り、通りに出た神代冴子は、建ち並ぶ寺院の一つ、遍照光院前にある鳥居をくぐった。
 細い石段には、幾十もの赤い鳥居が立っている。
 赤い鳥居のトンネルを抜けた先は小さな広場になっていて、そこに稲荷神社があった。
 だが神代冴子の目的は、その稲荷神社ではなかった。
 広場の片隅に古ぼけたベンチがあり、そこに少年が一人座っていた。
 神代冴子と同年配ぐらいに見えた。

「よおサエ坊」

 やってきた神代冴子に気づき、少年は言った。

「年下のガキに『坊』なんて言われる筋合いはねーよ」

 神代冴子はそう言いながら、少年の隣に座った。

「朝の『お勤め』?」

 少年の問いにうなずき、神代冴子は少年の顔に向け、人差し指と中指をそろえて手を突き出した。

「ヤニちょうだい」

「おいおいおい。仏に仕えるものが、いいのかよ」

 少年は笑いながら、胸ポケットのタバコを神代冴子にくわえさせ、ライターで火を点けてやった。

「線香と思えばいいのよ。──これ、メンソール?」

 数回ふかした神代冴子は少年に言った。

「メンソールを吸うとインポになるって、知ってた?」

「おめ。仏に仕える身で、まして女子高校生が言うセリフじゃねーだろ」

 少年はあきれた顔をした。

「第一、インポになるってのはアメリカの都市伝説だし。──おめ、仏教のことに関してはそこらの坊主が裸足で逃げ出すぐらい詳しいくせに、妙にそういうどうでもいいことも知ってるのな」

「ふうん」

 生返事をして、神代冴子はしばらく無言でタバコを吸った。

「──ねえ。やっぱり学校行かないの?」

「ああ」

 少年は気のない返事を返した。

「なんか、なーんもする気が起きなくってさ。とりあえず、親父の保険金があるんで、食うには困らないし」

「そんなこと言って、まともに食べてないでしょが」

「食ってるよ」

「じゃ、昨日の晩、何食べた?」

「えーと。……チーカマ1本」

「しまいにゃ死ぬぞー? まともなもん食えよ」

 神代冴子は言った。
 言葉は乱暴だが、少年を本気で心配して言っているのはわかる。

 少年の名は三浦拓実。神代冴子より一つ歳下の16歳で、幼なじみであった。
 神代冴子が少年──拓実のことを心配するのには、わけがあった。
 4月の初め、神代冴子が2年に進級し、拓実も新1年生になった頃、写真店を営んでいた拓実の父親が店に入り込んできた男に刺殺されたのだ。
 金銭が目的と思われるが、はっきりしない。
 犯人は拓実の父親を殺害したあと、何も盗らずに逃げたからだ。
 目撃者の証言やその後の調べで、犯人は町内に住む無職の若い男らしいとまではわかっている。
 以来4ヶ月、男の行方はようとして知れないままだ。
 父一人息子一人の暮らしだった拓実は、かくして天涯孤独の身となった。
 自宅が持ち家で、拓実自身が言ったとおり、父親の保険金が入ったため、すぐに生活に困窮することがなかったのがせめてもの幸いであった。
 もちろん、町内の人間は拓実のことを心配したが、拓実自身は自分の生活や行く末に興味がなさそうだった。人々はそんな拓実を見て、生きる気力を失っているように感じたが、拓実自身が動かない限り、どうしようもないことであった。
 そんな中、拓実の唯一の話し相手が、神代冴子だった。
 しかし、そんな神代冴子でも、拓実が本当に自分に対して心を開いているかどうかは心許なかった。
 事件以後の拓実の様子に、犯人の行方などが気になるようには見えず、また、神代冴子と話しているときでも、事件に関することは全く口にしなかった。
 あえてその話題を避けているのか、それとも本当に興味がないのか、神代冴子には判断できなかったし、さすがに当人には訊きかねた。

 神代冴子の胸元あたりで、電子音が鳴った。

「何?」

「携帯電話。じいさまに持たされた」

「すげえ」

「どこにいても呼び出されんだぜ。たまったもんじゃねーよ」

 言いながら、携帯電話を取り出す。
 二言三言やりとりをして、通話を切った。

「帰って来いって」

「携帯の番号、教えてくれよ」

 拓実が言い、メモ紙を持っていなかった神代冴子は、拓実が持っていたタバコのパッケージに携帯電話の番号を書いた。

「サンキュ」

「──んじゃあ、行くわ。午前のお勤めもあるし。──お昼、何か持ってってやろうか?」

「いらね」

 拓実は素っ気なく言った。
 今までにも何度か食事を差し入れたことはあったが、ほとんど手を付けていないことが多かった。
 神代冴子は小さくため息をついて、立ち上がった。
 鳥居のトンネルに入る直前、神代冴子は振り返った。
 ベンチに座っている拓実を見たとき、神代冴子は眉をしかめた。
 拓実の周囲、拓実の全身を包み込むように、黒いもやのようなものが見えた。
 目をしばたたかせ、もう一度拓実を見る。──何もなかった。

「ん? 何?」

 鳥居の前に立ち止まって自分を見つめる神代冴子に気づき、拓実は言った。

「あ、いや、なんでも。──じゃ」

 あわてて取りつくろって、神代冴子は鳥居を抜けていった。





鳥居のトンネル

2.祖父と孫娘

 最近、神代冴子は奇妙なものを見ることが多くなっている。
 奥の院への行き帰り、あるいは寺の堂内での礼拝中。
 それはたとえば、人の形をした黒い煙だったり、ピントやパースがおかしくなった人物写真のようだったり、様々だ。
 表情も、はっきりしているものも、よくわからないものもある。
 人間とは思えない形状のものもある。

 ──まあ高野山のことだし。

 神代冴子はそう考えて気にとめないようにしているが、それら妖しに気づくことが多くなったのは、実際は神代冴子自身の力によるものが大きいのであった。
 元々素質があったのか、高野山での修行によるものか、いずれにせよ、最近妖しを見るのが多くなっているということは、神代冴子の力が伸びつつあるということだった。
 最近よく見るな──神代冴子には、その程度の認識しかなかった。
 だから、神社を出るときに拓実の周囲にいた「もの」も、そういうたぐいだろうと思っていた。
 10年先、経験を積み、黒神由貴と知り合った神代冴子であれば、異なる反応をしたかも知れない。
 しかし、17歳の神代冴子はやはり若く、未熟であった。



 通りを歩いていた神代冴子は、やがて一つの寺院の門をくぐった。
 神代冴子の実家であった。
 神代冴子は本堂玄関からは入らず、脇にある勝手口へ向かった。
 勝手口から入り、自室へ歩きかけた神代冴子に声をかけた者があった。

「お嬢」

 この寺で修行中の僧侶、幻丞(げんじょう)であった。
 190センチを越える長身で、痩身。二十代後半ぐらいの年齢に見える。甘い顔立ちで、剃髪していなければ、男性モデルと称しても通用するだろう。
 ただ、頭のからっぽなモデルと幻丞が違うのは、高い知性を宿す目だった。これだけは、どんなモデルにも真似のできることではなかった。

「お帰りなさい。和尚様が書斎でお待ちです」

「……ん」

 うなずいて歩きかけた神代冴子だったが、何か思い出したのか立ち止まり、振り向いた。

「幻丞。昨日は休息日だったよな。K1200に乗って、どこ行ったよ」

「はて」

「和歌山か。大阪か」

「……久しぶりだったもので、ちょいと遠出して大阪の飛田新地へ。青春通りのナナミちゃんという娘が、もう……」

 両手でボディラインを描いて、幻丞は相好を崩した。
 神代冴子は「チッ」と舌打ちし、

「風俗しか楽しみねーのかよ。そのうち畜生道に落っこちるぞ」

「いえ。車とバイクも好きで」

 言いかけた幻丞を無視してその場を立ち去りかけた神代冴子だったが、何か思い出したのか、再び振り返った。

「幻丞。今度私のお尻触ったら、はっ倒すかんな。おまえのケツに、独鈷杵ぶち込んでやるかんな!」

 言い捨てて、神代冴子は祖父である幻妙師の書斎へ向かった。



「じいさま?」

 ふすまを開きながら、神代冴子は言った。
 祖父である幻妙師は座卓の前で書物をひもといていた。
 中肉中背。剃り上げた頭部が青々としている。齢七十になるが、十歳ぐらいは若く見える。一見すると好々爺であるが、その目は、弟子の幻丞同様、深い知性の光を放っている。
 部屋に入った神代冴子は、幻妙師のそばに正座した。
 日頃は乱暴な言葉遣いをしていても、こういう基本的な所作は身に染みついている。

「戻ったか」

 幻妙師は神代冴子に向き直った。

「……拓実の様子はどうだ」

「……あまり変わらない。食事もまともに取ってないみたいだし」

「困ったものだな。こればかりはむりやり食わせるわけにもいかんしな」

「拓実の親父さんを殺した犯人は、まだ捕まらないの」

「署長から聞いた限りでは、捜査は滞っているようだな。行方不明のままらしい」

「犯人を見つけるような呪法ってないの。じいさまだって、真言密教の高僧のはしくれでしょ」

「そんな都合のいい呪法などあるか。……で、食欲がないだけか」

「拓実?」

 幻妙師はうなずいた。
 神代冴子は「他は何も」と言いかけて、さっき稲荷神社で見たことを思い出した。

 拓実の周りを取り巻いていた黒い影。
 あれは、なんだったのだろう。
 高野山の中を浮遊する他愛もない妖しの一つ──さっきはそう思ったが、本当にそうだろうか。

「どうした」

 言いよどんだ神代冴子に、幻妙師が言った。
 はっとして顔を上げた神代冴子は、あわてて言った。

「何も。──他は、別に、何も」

「そうか。まあ、幼なじみのお前にならば話しやすいこともあろう。様子を見てやってくれるか」

 神代冴子はうなずき、そして、言った。

「──話はそれだけ?」

「あわてるな。もう一つある。んー……」

 幻妙師はかすかに眉にしわを寄せた。

「やはり、高野山大学に進む気にはならんか」

 今度は、神代冴子が顔をしかめる。

「行ってどうなるの。真言密教を学んで、そのうち適当な坊主と結婚して寺庭婦人(僧侶の妻)になるんでしょ。将来が先の先まで見えてるじゃない」

「別にそう決まったわけでもなかろうに。──儂はお前の才能を惜しんで言っておるのだ。十代で、真言密教の修行をほとんど習得するなど、並の者にできることではない。お前さえ望めば、いつでも観学会(かんがくえ)をおこなう用意があると、総本山も言っておるのだ」

「まっぴら」

 神代冴子は、幻妙師の言葉をさえぎるように言った。

「まあ、高校ぐらいは出ておくつもりだけど、高校出たら山降りるから。もう決めてるの」

「お前ならば、高野山のまたとない力となりえるのだがな。総本山も、それを望んでおる。──もちろん儂もな」

「勝手に決められるのがいやなんだってば。もういいでしょ」

 幻妙師の返事を待たず、神代冴子は立ち上がった。
 振り向きもせず、部屋を出る。

 このところ、祖父であり師でもある幻妙師とは将来のことでしばしば言い争いになっている。
 強い言葉を吐くのはもっぱら神代冴子で、幻妙師は静かに含めるように言うのだが、最後はいつも、神代冴子がかんしゃくを起こして席を立つ。
 実を言えば、神代冴子自身、修行は苦痛ではない。
 様々な教えが身についてゆくことにぞくぞくするような興奮さえ覚える。
 おそらくは、なにがしかの霊的素養があるのだろう。
 それは、神代冴子自身、自覚していることであった。
 だが、だからこそ、この強大な宗教組織に飲み込まれるのを、神代冴子は嫌った。
 街──たとえば和歌山市内にいる同年配の娘たちのように、遊び歩きたいというわけではなかった。
 現在の神代冴子の心情に最も近いのは、老舗の商店に生まれた跡取り息子というところか。
 だが神代冴子が属することを望まれている「高野山」という組織は、それよりもはるかに強大で、古い歴史があるのだった。


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