新橋駅の裏通り、午後10時。
仕事帰りのサラリーマンが多い、リーズナブルな居酒屋に、神代冴子と幻丞の姿があった。
小さなテーブルの上には、いくつかの肴と徳利酒、ぐい飲みが並んでいる。
「すみませんね、お呼びしておいてこんな安酒場で」
恐縮した顔で、幻丞が言う。
「こういうところじゃないと食べられない美味いものもあるから、それはまあいいけど……何か大きな出費があったのかな?」
木綿豆腐の上にたっぷりとかけられたモツ煮込みを口に運びながら、神代冴子は言った。
「ははっ。いやまあ、いろいろと」
短く刈られた頭をかきつつ、幻丞は言った。が、具体的にどんな出費があったのかは答えない。
「ま、いいや。ん。これ」
深く追求せず、神代冴子は小ぶりな紙袋を幻丞に手渡した。
「おや、柿の葉寿司。──え。高野に戻られたのですか、お嬢」
「しばらく戻ってなかったんで、顔出しにな。……それと、香の買い置きも少なくなってたんで、五智香堂にも寄った」
五智香堂というのは高野山にある香専門店だが、観光客相手のそれではなく、玄妙師や幻丞、神代冴子などがもっぱらの常客の、言わばプロ仕様の店である。
「五智香堂にも行かれたのですか」
「五智香堂の主人と世間話してるときに聞いたんだけど、なんか、珍しい買い物していった客がいたんだってさ。何十年に一度、売れるか売れないかって言う、どえらい高価な秘香を、なんのためらいもなく」
すまし顔で神代冴子は言い、ぐい飲みの酒を飲んだ。幻丞は無言だが、イタズラを見つかった悪ガキのように、ばつの悪い表情をしている。
「はあ」
「んで、それとは別の話で、例の東日本大震災でさ、なんか妙なことがあったってうわさを耳にした」
ぐい飲みを空けた神代冴子は、徳利の酒を手酌でつぎ足し、続いて焼きシシャモに箸をのばした。
「津波で家族を亡くした遺族のところに、突然、坊主がやってきて、『亡くした家族に会いたくなったら、この香を焚け』って言って、香を一本置いていったんだと」
シシャモを一匹食べて眼を細めた神代冴子は、ぐい飲みの酒をちびりと飲んで、続ける。
「言われたとおりにその香を焚いたら、煙の中に、亡くした家族の姿が現れたんだってさ。……さすがにあの震災の遺族すべてに香が行き渡ったわけじゃないらしいけど、香を焚いた家では、みんな同じことが起こったんだと。被災地では、しばらくはそのうわさで持ちきりだったらしいな。……でさ、私の記憶が確かなら、そんなことができる香って、『反魂香』ぐらいしか思い当たらないんだけどな」
ここで、神代冴子はちらと幻丞に目をやった。
「で。五智香堂が売った秘香ってのも『反魂香』なんだけど、これって偶然なんだろか」
「それはまた、奇妙なこともあるもんですねえ」
心底不思議そうな顔で、幻丞は言った。
「まあ癒しだの心の救済だのとうわついた言葉は願い下げだけど、実際、メンタル的に救われたって喜んでる遺族が多いらしいな」
「それは何よりですね」
「ま、その『謎の坊主』の行動はさておき、同情だけじゃ復興が進まないのもまた確かだし、足を運んで現地に金を落とさないとなー。……あっちで可愛い女の子がいる風俗はあったのか?」
「はて。なんのことですか」
「まあいいさ」
焼きシシャモをぱくぱくと平らげ、ぐい飲みの酒を飲み干して、神代冴子はニヤリと笑って言った。
「『反魂香』を買った客もどえらい出費でふところが痛んだだろうしな。今日のところは私の奢りにしてやるよ」
「いやお嬢。それはいけません。呼びつけた方が馳走になるというのは、筋が通りません。私が和尚様にお目玉を食らいます」
「気にすんなって。『かかいムン』の一件で世話になったしな。また力仕事がいるときは、頼むこともあるだろうし。先行投資だ」
そう言って神代冴子は立ち上がり、店員に「お勘定ー」と声をかけた。