黒神由貴シリーズ

邪眼の玻璃面 1


1.休み明けの教室

 夏休み明けの教室では、夏休み中のトラブルが明らかになることが少なくないという。
 たとえば誰かがケガしたり。
 たとえば誰かの「お客様」が2週間も遅れていたり。
 「願いがかなうアクセ」の出来事で知り合いになった三枝実業の大坪ミキから聞いたのだが、夏休み明けどころか、週の休み明けごとに中絶カンパが行われることもあるという。
 星龍学園ではさすがにそこまで壮絶な出来事は聞かないが、たとえばマチャミ。あれだけ彼氏とラブラブだったのだから、不慮の事故で死ぬことがなければ、「もう1ヶ月も遅れてるの」なんていうセリフを聞くことになっていたかも知れない。
 まあでも、私の周辺では、幸いにしてそういうトラブルは起きていない。
 夏休み明けの9月1日、教室で始業のチャイムが鳴るまで、私はそう思っていた。
 8時45分、予鈴のチャイムが鳴った。
 休み明け第1日はホームルームだけで終わるので気楽だ。正式に我がクラスの担任となった神代先生が教室に来るまで、クラスはまだざわついていた。
 やがて9時になって始業のチャイムが鳴り、ほぼ同時に神代先生が教室に入ってきて、委員長が「起立」と号令をかけた。

「あれ。キャミ休みだ」

 私の左横に座る永井紗由美(ながいさゆみ)が、自分の席の左横──つまり私から見ると紗由美の席をはさんだ向こう側の席が空いているのを見て声を上げた。
 喜屋武美咲(きゃん みさき)──ニックネーム「キャミ」の席であった。

 キャミはその姓で察しが付くように、沖縄出身の子だった。
 詳しくは知らないが、ものごころが付くころに東京に来たとかで、言葉になまりはない。
 ただ、沖縄言葉で「なんとかなるよ」を意味する、「なんくるないさー」はたまに口にしていた。
 キャミの印象をひと言で言うなら、「すべてに控えめな子」である。
 黒神由貴もおとなしいタイプの子だが、それとも違う。
 グループでわいわい話していても、その輪に入ってはいるものの、積極的に話したりせず、ただ、みんなの話を聞いている。そんな子だ。
 暗いとか、そういうのでもなかった。話すときは普通に話せる子だった。
 言うまでもなく、いじめられっ子でもない。
 ただ、何かしら影があるのは確かだった。
 本人に確認したわけではないが、御両親は早くに亡くなり、何かの事情で東京に出てきたのだと、ちらりと聞いたことがある。だからちょっと影があるのかな、みんなそう思っていた。

 出席を取っていた神代先生がキャミの名を呼ぶと、クラスの何人かが「お休みでーす」と言った。

「あら」

 神代先生は短く言って、出席取りを続けた。取り立てて珍しいことではないのだろう。
 私も、休んでいるのがキャミでなければ、別に何も思わなかったと思う。


2.歌舞伎町/ファッションヘルス「ザ・インペリアル」

 日本のみならず、アジアでも有数の歓楽街の一つ、新宿・歌舞伎町。
 そして、歌舞伎町が精彩を放つのは、日が落ちてからだ。
 サラリーマン、商店主、学生、フリーター、チンピラ、やくざ、ホスト、風俗店の従業員、出勤途中のホステス、デリヘルのコンパニオン、女子高校生、立ちんぼの女──歓楽街を歩く人種は様々だ。外国人も含め、どんな人間が歩いていても不思議ではない街。それが歌舞伎町だ。
 その中にあってなお、その人物は異彩を放っていた。
 190センチを超える長身の男性で、作務衣を着用し、足にはスニーカーを履いていた。髪は短髪。五分刈りがもう少し伸びたぐらいの長さだ。年齢は三十代半ばといったところか。
 和食の調理人、修行僧、陶芸家、どうとでも取れるような雰囲気であった。
 その人物は、風俗店が建ち並ぶ通りを、ぶらぶらと散歩でもしているように歩いていた。
 ときおり、風俗店の入り口に立つ店員が「先生! 寄ってって下さいよ!」と声をかけ、その人物は軽く手を挙げて、「また今度ー」と答える。それから察するに、けっこう馴染みであるらしい。
 モデルのように整った顔立ちの、その人物──高野山の僧侶、僧名「幻丞」であった。

 幻丞は建ち並ぶ風俗店の一つ、ファッションヘルス「ザ・インペリアル」に入っていった。






「やっと来てくれたー♪ どうせ他の店ばかり行ってたんでしょ」

「こう見えても、いろいろと忙しいんだよ。今日来たんだから、勘弁してよ」

 コンパニオンのミカがシャワーの湯を幻丞にかけながら言い、幻丞はニヤニヤと笑いながら答えた。
 そんな会話を交わしながらも、ミカの手は幻丞の男性自身を絶妙な指の動きで刺激している。
 二十歳を超えるか超えないかの年齢で、恐れ入ったテクニックである。
 早くも幻丞の「それ」は臨戦態勢だ。

「相変わらず先生のおっきいねー。早く入れたい♪」

「ミカちゃん、勘違いしちゃいけないな。ここはファッションヘルスなんだから、超えてはいけない線があるんだ」

「そりゃね、無理矢理はだめよ。NG。でもほら、世の中にはアクシデントが付きものじゃない?」

「勘弁して欲しいね。店長から出入り禁止を食らったらどうしてくれるのさ」

「そうなったら大歓迎よ。連絡くれれば、お店サボっても行っちゃうから。外で『する』分には、何をどこまでやろうと、自由よね? そうしてそうして♪」

 バスタオルで身体をぬぐい、幻丞はプレイルームに据え付けられた小さなベッドに腰を下ろした。ミカからもらった缶入り日本茶のプルトップを開け、美味そうに飲む。

「──最近、このあたりはどう? 何か変わったことあった?」

 缶から口をはなし、幻丞が訊いた。

「変わったことって?」

「まあその、物騒な事件とか」

「新宿の歌舞伎町だからねー。毎日、何かしら騒ぎは起こってるし。女の子が突然いなくなるなんて、日常茶飯事だもんね。客とのトラブル、ヒモとの痴話ゲンカ、何もない日の方が珍しいぐらい──あ」

 何をくだらないことを訊くのかといった調子で例を挙げていたミカが、ふと言葉を切った。

「そう言えば、ちょっと前に女の子が殺されたな」

「このあたりの店? ヘルス? ホテヘル? デリヘル?」

「ソープ。女の子といっても、そう若くもない歳だったらしいけど──新聞とかニュースとかにも出たらしいけど、あたしは知らない。新聞とか、読まないし」

「ふうん。その話、詳しく知ってる人いる?」

「店長なら、たぶん。──ねー、もういいでしょー。そんな話。しようよ♪」

 身体に巻いたバスタオルをはずし、ミカがもたれかかってきた。Fカップの胸が幻丞の肩に押しつけられ、柔らかくつぶれる。



「あ、先生。いつもお世話様です」

 プレイルームを出ると、受付前に立っていた縁なし眼鏡をかけた五十がらみの男性が、幻丞に頭を下げた。「ザ・インペリアル」の店長であった。

「お時間はどうですか? よかったらお茶でもいかがですか」

 店長は言って、店内の粗末な応接室へ幻丞を案内した。

「──景気はどうです。風俗業もいろいろ苦しいとは耳にしますが」

「そりゃあもう」

 幻丞に茶を入れて、自分はタバコに火を点け、首を横に振りながら店長は言った。

「アップアップですわ。客が他に流れるから、お遊び代を値上げするわけにも行きませんしね。10円でも経費を削りたいのが本音です。──おまけに」

 店長の口調が、微妙に変わった。

「最近は中国だの韓国だののわけのわからない連中が出張ってきましてね。これがまた物騒で仕方がない。まだ日本のヤの字の方が良かったですよ。とりあえずみかじめさえ出しておけば、見かけだけでも平穏だから」

「大変だねえ」

 幻丞がそう言ってうなずいたとき、応接室にミカが顔をのぞかせた。

「てんちょー。先生が何か訊きたいんですってよ」

「訊く? 何を?」

「ほらあの、『田園』にいた女の子が殺された話。あたし、あまりよく知らないし」

 それだけ言うと、ミカは控え室に戻っていった。

「どうしてまた、そんなことを」

 不思議そうな顔で、店長は幻丞を見た。

「いや、さっきミカちゃんからちらっと聞いてね。実際、何があったのかと思って」

「……やな事件でしたね」

 新しいタバコに火を点け、店長は語り始めた。

「お盆の頃でしたかねえ。この近くの『田園』ってソープにいた女の子なんですがね。自宅で殺されてたんですよ。──まあこういう業界ですからね、ヒモに殺されただのヒモを殺しただの、そんな話はイヤと言うほど耳にしますがね。あの子の場合はそうじゃなかった。怨恨だの色恋沙汰の殺され方じゃあなかったそうですよ。そりゃもうむごい様だったそうで」

「こっちがらみ?」

 頬に斜めに指を走らせて幻丞が訊き、店長はうなずいた。

「おそらく。銃で殺られてたそうですからね。犯人はいまだに捕まってません。警察も本気で捜す気があるのかどうか。身体を売る稼業の女が死んだぐらいで、警察がまともに動くとは思えませんしねえ」

「とりあえず、もう少し詳しく聞かせてもらえますか」

 幻丞は言った。


3.K医大法医学部/准教授室

「女医ってことで勘違いされやすいんだけど、私、あまりフェミニズム運動って好きじゃないのね」

 応接セットに座る所轄の刑事にコーヒーを勧めながら、名取裕子似の女医は言った。

「なんでもかんでも、バカの一つ覚えで『男が悪い』ってばかり言うババアがいるじゃない? あれがいやでね。──でも、さすがにあれはひどいな。女として、ああいう死体検案はつらいわ。やってて腹立って来るもん」

「こないだのソープ嬢殺しですか」

 刑事が言い、女医はうなずいた。

「こういう仕事だから、ひどい状態の遺体なんて、それこそイヤになるぐらい見てるわよ。膨れあがったの、ドロドロにとろけたの、干からびたの、骨だけの、バラバラの、……ってね。でも、あれには我慢できなかった」

「むごかったですね。暴行というよりは、なぶり殺しでした」

「高純度のヘロインを大量に注射してから、レイプ。前も後ろも。その後股間に3発銃弾を撃ち込んで、ごていねいに顔面にも3発。顔なんて、跡形もなくなってたわよ」

 話しているうちに、再び怒りがよみがえってきたらしい。

「だいたいね、どうしてあんな殺され方をされなくちゃいけないのよ。ヘロインだけでも、充分致死量だったのよ。なんなのよ、あれは。レイプされて、股ぐらに銃弾撃ち込まれて、顔面をぶち抜かれてんのよ。どんなことしたら、あんな殺され方するのよ。そういうこと詳しいんでしょ。言ってみなさいよ」

「せ、先生、落ち着いてください」

 女医の剣幕に引きつつ、刑事は言った。

「銃と麻薬がからんでるんで、4課の連中も動いてます。物的証拠も多いんで、容疑者の特定は、そうむずかしいことではないかと。被害女性の交友関係も調べているところですし」

 刑事は捜査状況を説明して女医をなだめようとしたが、女医は「ふんっ!」と鼻を鳴らした。

「実行犯だけ捕まえてめでたしめでたしなんてことないでしょうね? あれだけ高純度のヘロインなんて、並の売人じゃ扱えないでしょ。やるんなら一網打尽にしてもらいたいわね。事なかれ主義の警察に、できるとは思えないけど。──あ、交友関係と言えば、被害者の身元はわかったの? 身内の人に連絡は?」

「はい、わかってます」

 話題が動いたのでほっとして、刑事が手帳を取り出した。

「被害者は喜屋武千波(きゃん ちなみ)30歳。新宿・歌舞伎町のソープランド『田園』のコンパニオン。近親者は妹が一人。喜屋武美咲(きゃん みさき)17歳。同居はしていません。都内のアパートに一人暮らしで、そこから都内の星龍学園という女子校に通っています。ですが……」

「ですが……なに?」

「妹の喜屋武美咲と連絡が取れないんです。……というか、夏休みが明けても登校していません。要するにその、行方不明です」

「え……?」

 さすがに女医も絶句した。


4.仮面

 ガラスの仮面であった。
 仮面舞踏会で使われるような、顔の上半分を隠す仮面。
 シーサーの顔の上半分のようなデザインだ。
 ガラスといっても、クリスタル・ガラスのように高い透明度ではない。いろいろな色のガラスを材料にしたのか、濁った茶色をしている。
 この仮面にどのようないわれがあるのか、詳しくは知らない。
 だが、ひとたび装着すれば、人間として生きてきたこれまでと決別することになるのはわかっていた。
 ──要するに死だ。
 それもただ死ぬわけではない。
 忌まわしい異形となって、存在し続けることになる。
 いつかこの日が来るような気はしていた。
 平和な日々はいつかは断たれるだろうと。

 ガラスの仮面を手に取る。
 顔にあてがう。
 堅いガラスであるはずの仮面がうねうねと動き、顔に密着するのがわかる。
 身体の中に何かが入り込んでゆくのも自覚した。
 「怨念」「執念」「狂気」「邪気」「憎悪」「死」──様々な「負」の意識で身体が満たされてゆく。
 それらはやがて一つとなり、強大な力となった。

 かくして、怪物が誕生した。


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