怪奇大作戦「かまいたち」に捧ぐ
午後10時──深夜というほどでもない時刻、若いOLが帰宅の途についていた。
駅からOLの自宅までの道は、公園や神社仏閣などが点在する、日中ならいい散歩コースになる静かなエリアなのだが、ひとたび日が落ちると、かなりさびしくなる。
実際、歩行者はほとんどいない。
家路を急ぐ女性は、小走りになっていた。
夜にこの道を歩くときはいつも早歩きになるのだが、今夜はそれに加え、女性はたびたび背後を振り向いていた。その表情に、軽い焦燥感がうかがえた。
誰かが追いかけてくる。
女性はそう感じていた。
それを確認するために何度も振り返るが、後ろを歩く者は誰もいない。
なのに、誰かが自分のあとをつけているような、気味の悪い感覚はいっこうになくならない。
「うふふっ」
そんな笑い声が聞こえて何度目かに振り返ったとき、暗い街路灯の光の中に、一瞬、人影が見えたような気がした。
ん?
右の二の腕に、何かが当たったように思った。すぐに、今度は左の二の腕にも、同様の感触がした。
あれ? 何が当たったんだろう?
そう思って、無意識に右手をその感触があったあたりに持って行った。
手を持って行けなかった。
不審に思って右てのひらを顔の前に出す。
顔の前には、何もない。
右方向、自分の右腕を見る。
右腕がなかった。何かがコツンと当たったような感触があったあたりから先がなくなっていた。
左手側を見る。左腕も、右腕と同じあたりでなくなっていた。
腕がなくなった部分から液体がとめどなく噴出し、地面でびぢゃびぢゃと音を立てた。
音につられて足元を見る。
腕が落ちている。
それが切断された自分の両腕であると気づくのに時間がかかった。
地面に転がる腕に気づき、のどから悲鳴がほとばしりかけたとき、近くに誰かいるのに気づいた。
やっぱり誰かいたんだ。
街路灯が暗いため、はっきりとはわからないが、やけに小柄できゃしゃなその人影は、若い──それもかなり若い女性のように思えた。
ただ、その人影の両腕が、変だった。
街路灯の光が反射するその両腕は、金属のような光沢を放っていた。
金属みたい──ではなく、その両腕がどう見ても巨大な刃物であることに気づいた瞬間、首のあたりを何かがすっとなでた。
視界が真っ暗になった。
1.切り裂き魔
「まただ」
日曜の朝、新聞を読んでいた父親が、ぼそりと言った。
「何が?」
母親が、トーストを口に入れかけていたのを中断して訊いた。私はすでにトーストをほおばっていたので「?」という顔をして父親を見、兄貴はコーヒーを飲みかけていた手を止めた。
「ほら。例の切り裂き魔だよ。昨日の夜、S町で、若いOLさんがやられたんだそうだ」
「まあ。ひどい怪我をしたの?」
トーストを口元まで持ってきた状態のまま、母親が訊く。父親は首を横に振りながら顔をしかめた。S町というのは、となり町だ。
「いや。殺されたそうだ。ここにはあまり詳しく書いてないが、むごい様だったらしいな」
「やだ」
母親は言って、トーストをかじった。
「これで何人目だったかな」
兄貴が言い、父親が新聞を読みながら答えた。
「ここには被害者は五人目と書いてある。マスコミは同一犯と見ているみたいだな」
「ヤバげなサイトでは、『切り裂きジャック東京に現る』って言ってるよ」
と、私も言ってみる。
「なんか、けっこういいかげんな素人プロファイリングしまくってるけど」
「切り裂きジャックなあ」
兄貴が言った。
「動機は何かなあ。快楽殺人かなあ。やり方から見て、物取り目的とは考えにくいし。暴行の形跡もないんだろ?」
後半は父親に言ったらしい。父親はそれには直接答えず、(母親が気持ち悪がるからだ)
「他の事件も含めて、目撃者がまったくいないらしいな。あまり人通りのない住宅街だとしても、不審人物がいたらわかりそうなものだがな。第一、殺害方法からして、かなりの返り血を浴びているはずだが」
結局父親も気持ち悪いことを言ってしまっている。
そう。
目撃者がいない。
誰もが、そのことを不思議に思っていた。
不謹慎な話だが、被害者が一人だけなら、そしてその一人が死んでいるのなら、たまたま人通りがないときに通り魔的な殺人事件が起きた、ということになるだろう。
でも、被害者の中には、ひどい怪我は負ったものの、命は助かった人もいるのだ。その場合でも、犯人の姿を見ていないのだという。
襲われた恐怖で犯人の姿を記憶していない、というのではなく、犯人を見ていないのだ。
そんな馬鹿な、と誰でも思う。
何かの狂言ではないのか、とさえ言う人もいた。
でも、狂言のために自分の足を太もも部分から切り落とす人はいないだろう。
事件は比較的狭い地域で起きていた。現場やその周辺に住む住民は、日が落ちるとばったりと外出しなくなった。そのため、夜はさらに人通りが少なくなってしまうことになってしまった。
どうしても外出する用のある人は、複数人で行動するようになり、町内の見回りや警察官の警邏(けいら)が目に見えて増えた。
言うまでもなく、私も日が落ちてからの外出は厳禁となった。近くのコンビニさえも。おかげで、夜のおやつにアイスを買いに行くこともできなくなってしまった。
2.かまいたち
「最近、デリバリー多いっすね」
注文のピザをバイクの荷台に積みながら、バイトの鎌田くんは言った。
「だってほら、最近このあたり物騒じゃん。例の切り裂き魔のせいで。だから、晩飯をピザで済ます人がどっと増えて。まあうちとしちゃあありがたいんだけどさ」
店長が答えた。
「まあ、それでも早く捕まってほしいっすけどね。狭い道走ってたら、思いっきり警戒されるんすよ。まじめな勤労フリーター捕まえて、失礼な話っすよね」
「まあ冗談抜きでさ、鎌田くんも気をつけなよ。男だから大丈夫とは限らないんだから」
店長がまじめな顔になって言う。
「大丈夫っすよお。原チャリとは言っても、こっちはバイクっすよ? 追いかけてきたって、追いつけるわけないじゃないすか。んじゃ、3丁目の清水さん、行ってきまっす」
そう言って、鎌田くんはピザショップの50ccバイクで出発した。
「イタリアン・コンビネーションピザMサイズ1枚、和風コンビネーションピザMサイズ1枚、ポテトフライLサイズお二つ、コーラとオレンジ・ジュースお一つずつ、ご注文は以上でよろしいでしょうかー」
チャイムを鳴らすと、こわごわ、といった風情でドアを開いた主婦は、鎌田くんの顔を見るとほっとした表情になった。この家はお得意さんなのだ。
代金を受け取った鎌田くんは、すぐにバイクを走らせた。今日はまだまだ忙しいだろう。
店長は不安げな表情をしていたが、鎌田くん自身は、あまり切り裂き魔のことは心配していなかった。店と配達先の往復は店のバイクを使うし、バイトが終わってからの帰りは自分の250ccバイクで帰る。事故にさえ注意すれば問題はない。バイクに乗っている状態で襲われることはありえないだろう。
こうして車道を走っていて、どうやれば切り裂き魔が襲ってこられるというのだろう。
「ないない」
鎌田くんは軽く首を横に振って、つぶやいた。
「こんばんは」
ふいに右側から女の子の声がして、鎌田くんは声がした方向を見た。
自分のすぐ右横に、十代半ばぐらいの女の子がいた。
「え……」
鎌田くんはとまどった。
誰だっけ、この子。
店のバイトの子じゃないよな。
知り合いにこんな感じの子は……
そこまでぼんやりと考えて、鎌田くんは自分が今バイクで走行中であることを思い出した。配達用の原付バイクとは言え、女の子が50キロ近い速度で走行しているバイクと併走する異常さに、ようやく気づき、驚きの声を上げた。
「ちょ、え? ええっ!?」
にっこりと笑って、女の子が腕を持ち上げた。
その腕の、ひじから先がよく磨かれた金属のように光っているのを見たのが、鎌田くんが最期に見たものだった。
会社員の大岡さんは、マーチに乗って帰宅途中であった。道はよく流れている。10メートルほど前を、ピザの宅配バイクが走っている。
──ピザいいなあ。帰ったら注文しようかなあ。
空腹であった大岡さんは、前方を走るバイクを見ながら、何を注文するか、メニューを思い浮かべていた。
ふと、前方のバイクを運転しているライダーの挙動がおかしいことに気づいた。
右の方をずっと向いている。ちらちらとではなく、まるで対向車線で事故っているのを眺めているかのように、頭を右に向けたままだ。
──危ねえなあ。前方不注意にもほどがあるだろ。
バイクや自転車に乗ってスマートフォンなどの携帯端末の操作に没頭するバカはしばしば目撃するが、前方のバイクの場合、それとはちょっと違うように思えた。
右側にある建物とか車とかを見ているのではなく、自分のすぐ右側にいる何かを見ているように思える。
右側を見ていたライダーが、首をかしげた。
そうではなかった。
斜めに傾いた首はそのままバイクの後方に転がり落ち、大岡さんの車に向かって転がってきた。
あまりのことにブレーキもハンドルを切ることもできなかったが、むしろそれが幸いした。
道路に落下した首は大岡さんの車の真下を転がり抜け、大岡さんは気味悪い感触を味合わずにすんだ。
首をなくしたライダーが乗るバイクはすぐにバランスを崩し、転倒した。大岡さんは、今度は機敏に反応して、フルブレーキングした。転倒したバイクの、ほんの20センチほど手前で車が停止する。
背後で、後続の車が次々に急停車した。何ごとかと怒鳴るドライバーもいた。
車から降りた大岡さんは、バイクに近づいた。他のドライバーもそれに続いた。
バイクと、そのそばに倒れているライダーを、大岡さんは呆然と見つめた。
自分の車の後方あたりで、悲鳴が聞こえた。ライダーの首に気づいたのだろう。
大岡さんは、自分の股間が濡れ、スラックスの裾から大量の小便が流れ出していることに──ようするに、失禁していることにまったく気づいていなかった。
「だーかーらぁ! 何度も言わせないでくださいよお!」
取調室で、大岡さんは大声を上げた。
「ずっと後ろについていたんだから、間違いないですよ!」
デリバリー・ピザの配達スタッフが走行中に首が切断した事故(あるいは事件)について、大岡さんはもっとも近くで見ていた目撃者として、聴取されているのだった。
現場の状況から、大岡さんが犯行に関わっていないのははっきりしている。ただ、状況があまりにも常軌を逸していた。
「バイクに乗ってた人に、誰も近づいちゃいませんよ! 横を向いて走ってると思ったら、いきなり首がもげたんだから! 訊かれる前に言っときますけどね、針金とかそんなものもなかったですからね! すぐあとに通過しても、何も当たらなかったんだから!」
聴取にあたった警察官も、大岡さんが嘘を言っているわけではないのは充分承知していた。
報告書に目を通した古株の警察官が言った。
「まるで『かまいたち』だな。妖怪じゃなくて、ずっと昔にテレビでやってた円谷の特撮の、『怪奇大作戦』に出てきたやつ」
それを聞いた若手の警察官は、その場では意味がわからず、後にインターネットで調べた。「怪奇大作戦」「かまいたち」というキーワードで。
ヒットした検索結果を読んだ若手の警察官は、思わず声を上げた。
「いやいやいや、これはないでしょう!」
それでも、これまでの事件と合わせ、犯人不明の切り裂き事件は、非公式ではあるが、「かまいたち」と呼ばれるようになった。
どこからかそれが漏れたのか、まったくの偶然なのか、街のうわさでも、人々は「切り裂き魔」ではなく「かまいたち」と呼ぶようになっていた。
3.第一の対決:黒神由貴対かまいたち
夕刻。
黒神由貴は、OLが首と両腕を切断されて殺害された事件の現場にいた。「かまいたち」事件の5番目の犠牲者である。
その日、黒神由貴はこれまでの事件現場を順に訪れていた。むろん、ミーハー的な興味からではなく、事件の真相を探るためであった。
ちまたのうわさを耳にするまでもなく、黒神由貴はこの「かまいたち」事件が快楽殺人魔による単純な連続殺人ではなく、人ならざるものの仕業と推測していた。
事件現場を順にたどった今、推測は確信となっていた。
事故やケンカ、あるいは殺人といったような「感情の高ぶり」がある出来事が起きた場合、その現場には物理的な痕跡以外に、「精神的な痕跡」が残っている。
怒り、驚き、恐怖──その痕跡は様々である。
そしてその「精神的痕跡」は、それが人ならざるものの仕業であった場合にも、やはり残されているのであった。
犯人は人間ではない。また、妖しに取り憑かれた人間でもない。
そして犯行の目的は、特にない。あえて言うなら、愉快犯だ。快楽殺人者ほどには、殺害そのものを目的とはしていない。
犠牲者を分断することを楽しんでいるだけなのだ。その結果犠牲者が死のうがどうなろうが、興味はない。
事件現場の路面にはかすかにどす黒い染みが残っていた。事件後すぐに洗い流したであろうが、流しきれなかった血の染みだ。
「彼女ー。もう暗くなるから、一人でいちゃ危ないよ」
そんな声がして、路面の血痕を見つめていた黒神由貴は顔を上げた。
OLというには派手な身なりの、おそらくは出勤前のキャバクラ嬢であろう若い女性が、黒神由貴の前に立っていた。
「最近このあたりは物騒だからさー。知ってるでしょ? 『切り裂き魔』とか『かまいたち』とかって。早く帰んなよ」
口調は乱暴だが、黒神由貴のことを心配して言っているのはよくわかった。
「はい。ありがとうございます。──あのでも、お姉さんもお一人で危なくないですか」
黒神由貴が言うと、若い女性はカラカラと笑った。
「大丈夫大丈夫。ほら」
そう言いながら、女性はバッグから何か取り出した。
「ちゃんと護身用にスタンガン持ってるし。通り魔を怖がってたら、夜の仕事なんて、できないって。じゃあね。早く帰んなよ?」
「でもあの」
黒神由貴もさすがにこの場では、通り魔は人間ではないとは言えなかった。黒神由貴が言いよどんでいる間に、女性はもう一度「じゃあね」と言って、歩き去っていった。
黒神由貴が異様な気配に気づいたのは、そのときであった。
歩いて行く女性、その後ろ姿に何ものかが近づいている。明らかに女性を狙っていた。
人の姿をしているが、何かの拍子に目をそらすと、そのまま闇に溶け込んでしまいそうに、うすぼんやりとしている。華奢な体型は、ローティーンの女の子のようだった。
おそらくは、普通の人間には見えないだろう。
「かまいたち」であった。
「お姉さん、うしろっ!」
黒神由貴が叫ぶと、女性はすぐに反応して振り向いた。
相手が見えたのかどうか、女性は自分に近づく「かまいたち」にスタンガンを向けた。
もし女性を狙ったのが普通の痴漢やひったくりであったなら、スタンガンで返り討ちにあっただろう。だが、相手は妖しであった。
スタンガンを持った手が、ぽとりと地面に落ちた。
手首から先がなくなった自分の腕を、女性は呆然と眺めた。
女性が口を大きく開いた。数秒後にはあたりに響き渡るほどの悲鳴が発せられたはずであったが、女性は悲鳴を上げることができなかった。
女性に近づいた「かまいたち」が腕を振ると、女性の首とひざが切断された。
どさ、と分断された女性の身体が地面に崩れ落ちた。
黒神由貴はポケットから呪符を取り出し、「かまいたち」に向けて放った。
呪符は式神となって「かまいたち」へまっすぐ向かったが、「かまいたち」が数度腕を振ると、細切れの紙吹雪になった。
「びっくりしたー。やるじゃん」
「かまいたち」が言った。その声は、ローティーンの少女のものだった。
そこに立っていたのは、渋谷や原宿、代官山、そんな繁華街で見かけるような、普通の少女だった。白いブラウスと膝丈のチェックのスカートという、ちょっと地味な姿だが、可愛いヘアアクセサリーやバッグを身に付ければ、すぐに風景に溶け込んでしまうだろう。
そんな、どこにでもいるような普通の少女だが、ただひとつ、両腕のひじから先が巨大な刃物になっている点が、普通とは違っていた。
「お姉さんみたいな人がいるんだ-。すごいね。さっきの紙は何? なんかよくわかんないから細切れにしたけど。まあ、面倒っちいから、もう行くわ。今度会ったら、お姉さんもバラバラにするからね。じゃあバイバーイ♪」
少女──「かまいたち」はそう言うと、かき消すように消えた。
あとに残されたのは、女性の惨殺死体と、呆然と立ち尽くす黒神由貴だけであった。
まさか「かまいたち」があんな女の子だったとは。
黒神由貴は混乱していた。
「かまいたち」の正体が、人間ではなく、なにがしかの妖しであるという自分の見立てには自信があった。
だが、さっきのあの子はなんなのだ。両腕が鋭い刃物である以外は、まったく普通の女の子としか思えないではないか。
黒神由貴はのろのろと携帯電話をポケットから取りだした。
先に警察に連絡すべきか、「お祖母様」に連絡すべきか──しばらく考えて、黒神由貴は「お祖母様」へコールした。