黒神由貴シリーズ

彼女の死に関する2、3のことがら 1









 ウイークデイの午後、ある15階建てマンションの屋上から若い女性が飛び降りた。
 女性は頭部及び全身を強打し、ほぼ即死状態だった。
 血液や脳などが、遺体の周囲半径数メートルも飛び散っていたという。
 死亡したのは、都内の私立愛徳女子高校に通う女生徒であった。

 いささか不謹慎ではあるが、これだけであれば、単なる自殺で済む話であった。
 が、その女生徒が妊娠していたとなると、ちょっと困ったことになる。
 検死の結果、女生徒は妊娠5ヶ月の状態だったことがわかった。
 お嬢様高校というほどではないにしても、厳格な校風が「売り」の学校サイドからすれば、あまりことを公にしたくないのは当然であった。




 女生徒の自殺後、その女生徒の幽霊の目撃談がしばしば聞かれた。
 教室、図書館、廊下の片隅……
 ありがちな話ではある。



「神代先生」

 呼ばれて振り向いた人物は背のすらりとした若い女性で、ちょっと目を見張るような美貌だ。20代半ばといったところだろうか。
 呼び止めたのは、愛徳女子高校、すなわちこの学校の教頭であった。

「樋口真奈美の件では、申しわけないですな。ずっと不登校で、顔も合わせていないのに」

 若い女性教師──神代冴子は、ニッコリとほほえんで首を振った。

「とんでもありませんわ、教頭先生。不登校であっても、自分のクラスの生徒なんです。
悲しい結果になりましたが、担任として最後までケアしますわ」

「とは言え、臨時でいらした先生に何から何まで任せっきりで、汗顔の至りですな」

「……ところで、これから樋口真奈美の母親に会いに行こうと思っているのですが」

 神代が言うと、教頭はふっと顔を曇らせた。

「先生。おわかりかとは思いますが、例の件で、母親はかなり神経質になっておりますので、そのあたり、どうぞよろしくお願いいたします。穏便に、その──ことを大きくしない方向で」

 「例の件」という部分で、教頭は下腹部に手をやって、妊娠を意味するジェスチャーをした。

「ご心配なく、教頭先生。心得ています」



 樋口真奈美──言うまでもなく、先日ビルから飛び降り自殺した生徒である。
 状況から考えても自殺であるのは間違いなく、事件性はない。
 妊娠したことを思い詰めての自殺であろうと思われている。
 問題は、相手の男性は誰なのかということであった。
 警察の調べでも、学校内の調べでも、それらしい男の影は浮かばなかった。

 生徒が何か隠しているのではないのか。
 大人たちがそう思うのも無理からぬところではあったが、実際のところ、樋口真奈美のクラスメートたちも、彼女が誰かとつきあっていることなど、知らなかった。
 生徒たちの話では、樋口真奈美は見た目も実際も、かなり「奥手」であったらしい。
 性格もおとなしく、間違ってもナンパされるタイプではないという。

──とは言っても、聖母マリア様じゃあるまいし、相手がいたのは確かだが……

 女性教師、神代は思う。

 そして樋口家の玄関前に立った神代は、チャイムを鳴らした。



 意外なことに、母親はすでにこれ以上ことを大きくするつもりはないということだった。

「主人が──『自殺と言うだけでも情けないのに、妊娠など恥の上塗りだ』と申しまして」

 娘の死の真相よりも世間体か。
 神代は思うが、そんなものかも知れない、とも思う。

「それであの、先生あの、実は、その──」

 突然、母親が何かを思い出したように、言った。

「実は、娘が死んだとき、これを──」

 言いながら、仏壇の奥から、何かを取り出した。
 手のひらぐらいの大きさの、平たい紙包みである。

「これを、握りしめていまして……」

 母親は紙包みを開いた。

「これは……!」

 その中に入っていた物を見て、神代は目を見開いた。

「──お母様、どういうことなんですか? なぜ真奈美さんがこんな物を……?」

 母親は首を横に振った。

「わかりません。……あの子の物ではないのは間違いないんです。
身体を清めるとき、私が髪をすいてやりましたので……」

 また、娘の死に顔を思い出したのだろう、母親は嗚咽をもらした。
 神代は改めて紙包みに入っていた物に目をやった。

 一房の毛髪。

 紙包みに入っていたのは、それだった。
 紙包みを手にとって、仔細に見てみる。

 無理矢理引き抜いたらしく、毛根だけではなく、皮膚や肉らしき組織も確認できた。

(本人の物ではないが、自殺であるのは間違いない……か)

 神代はしばらくその毛髪の束を見つめていたが、やがて顔を上げ、母親に言った。

「お母様。もしよろしければ、これは私が引き取らせていただきたいのですが」

「はい。──え?」

 顔を伏せて嗚咽をもらしていた母親であったが、思わず顔を上げ、神代をまじまじと見つめた。



 神代は樋口家を辞した後、近くの公園に向かった。
 手には、たった今見せられた紙包みがある。
 結局、母親は樋口真奈美が握りしめていた毛髪を神代に託した。
 神代がそれをどうするのかということまでは、母親は考えが及ばなかった。
 無理もないことであった。

 神代は公園の隅、人目に付きにくいところにしゃがみ、紙包みを開いた。
 紙包みの中にある毛髪の上に、樋口真奈美の写真を置く。
 これも樋口家でもらってきたものだ。

 続いてショルダーバッグから、両端がとがった金属質の道具を取り出した。
 密教で使用する仏具で、「独鈷杵(とっこしょ)」と呼ばれる道具であった。



 毛髪と写真の手前に独鈷杵を置き、神代は何か小さな声で唱えた。
 そしてポケットからライターを取り出し、写真と毛髪に火を付けた。
 バチバチバチと毛髪が燃える時特有の音をあげ、写真と毛髪が燃えはじめた。

「──行きたいところへお行きなさい。会いたい人のところへ、お行きなさい。
そして……」

 神代は言った。

「想いを叶えなさい。自分の力で」

 毛髪と写真は、すぐに燃え尽きた。



 何も、いきなり死ななくてもいいじゃないか……

 自分の部屋の中で、その少年は震えていた。

 妊娠してたなんて、一言も言わなかったじゃないか……

 部屋の中、ベッドの上で自分の身体を抱え込むようにして座り込んでいる。
 眼鏡をかけて、きゃしゃな体つきだ。

 少年は、樋口真奈美の子供の父親──要するに樋口真奈美の相手であった。
 樋口真奈美とは、予備校の冬季集中講座で知り合った。
 もともと異性との交友がほとんどなかった樋口真奈美であったので、
 学校も警察も、予備校には気づかなかったのであろう。
(もちろん、自殺なので事件性がないというのも一因ではあった)

 ママゴトのような、幼稚なセックス……数えるほどしか、していない。

 樋口真奈美の自殺をニュースで見て以来、少年は自室に引きこもっていた。
 外へ出るのが恐ろしかった。
 樋口真奈美の死が自分のせいだと言われそうで、ひたすら怖かった。

 僕が悪いんじゃないぞ……

 心の中で自己弁護を繰り返していた少年であったが、ふと、奇妙な臭いが漂っていることに気づいた。

 なんの臭いだ?

 あれこれと記憶をたどり、それが「髪の毛が燃える臭い」であることに思い当たった。
 だがなぜ髪の毛の燃える臭いが?
 思わず顔を上げる。

 
部屋のドアの前に、樋口真奈美が立っていた。


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