休日の午前10時頃。
私は品川駅のホームにあるベンチに座り、電車の到着を待っていた。
しばらく時間があるので、ライトノベルの文庫本を開く。
今日は黒神由貴と一緒ではない。一人だ。
ま、たまにはこんなこともある。
だいたい、いつも一緒に行動しているものだから、
「あの二人はできている」
などと言われてしまうのだ。_| ̄|○
ベンチは三人がけ。
私は右はし。真ん中と左端には、私より少し年上の女性が座っている。
女子大生……かな?
クスクス
ふとそんな笑い声が聞こえ、私は目線を上げた。
確かに聞いたように思ったが、そんなかすかな笑い声が聞こえるような距離に、誰もいなかった。
んー?
首をかしげて、私は文庫本に目を戻した。
「そう言えば、こないだ言ってた、鬱っぽい知り合いって、あれからどうしたの?」
横に座る女性の一人がふと思い出したように言い、それが耳に入って、私の、文庫本を読む目の動きが止まった。
「んー。携帯メールであれこれ悩み事が来てねー。最初はまあ参考書とか、いろいろ教えて、次はメンタル系のクリニックを紹介したり……けっこう協力したつもりなんだけどなー」
「だめだったん?」
「だめっつーか……自分では何もしやしないのよー。ま、だからこそ『鬱』なんだけどさー。
だんだんメールの回数が増えてきて、それも、『もう死にたい』だの『つらい』だの『気力が出ない』だの、鬱にありがちなメールばかりで。もういやんなっちゃって」
「……で、相手にしなくなった?」
「ううん。その逆よ」
……逆?
私は思わず心の中で聞き返していた。
知らず知らず二人の会話に引き込まれていたのだ。
「逆って、どういうことよ」
「メールの返事で、はげましたのよ。『負けるな』『がんばれ』って」
え……?
それって、『鬱』の人にはタブーじゃなかったっけか……
私はうろ覚えの知識を探って、思った。
はげませばはげますほど、『鬱』の人にはプレッシャーとなるんじゃ。
「えと。それって、あまりよくないんじゃなかったっけ……」
「うん。よくないよ」
話している女性が、笑いながら話しているように思えた。
確認したかったが、聞き耳を立てているのがばれそうで、私は文庫本を読んでいるふりを続けた。
「私が専攻してるの精神医学だもん。常識じゃない」
「じゃ、わかっててやったわけ?」
「うん。連日、はげましメール送ってやったわよ。授業で習ってるからね。どうすれば精神的にこたえるか、よくわかってるし」
「で、あの……どうなったの? その人」
「はげましメール送るようになって2、3日ぐらいした頃かな……電車に飛び込んじゃった」
「……わ」
「だから言う通りに、勧めたクリニックに行けばよかったのにねえ。最近はいい薬だってあるんだから」
「……と言うか、その」
言いかけて、話を聞いていた方の女性が言いよどんだ。
女性が言いたいことは、私にもわかった。
「それって、だめじゃん」
そう言いたかったのだと思う。
なんか、いやな気分になった。
聞き耳を立てるんじゃなかった。
文庫本に集中しようと思ったが、そんな気分になれなかった。
クスクス
また、さっきの笑い声が聞こえて、私は思わず顔を上げた。
今度は、人がいた。
私たちが座っているベンチのすぐ前に、女性が立っていた。
若い。
横にいる二人と同じぐらいか。
かなりの細身で、どこか神経質っぽく見える。
クスクス
女性はまっすぐに立って、薄笑いを浮かべながら二人を見つめていたが、私が見ているのに気づいたのか、私の方を見て、ちょっと眼を丸くした。
「あら、あなた……あたしが見えるの? うふ。ちょっと静かにしててね」
女性は、唇に人差し指を当てて「静かに」のジェスチャーをした。
そのとき、電車が到着するアナウンスが流れた。
そのアナウンスが流れると同時に、鬱病の知り合いを「殺した」方の女性が立ち上がった。
「じゃあたし行くわ」
短くそう言うと、スタスタとホームに向かって歩き出した。
あとに残った女性は「え……」と言って、呆然としていた。
ホームへ歩く女性のすぐ後ろに、さっき私に「しばらく静かに」と言った女性がついて歩いていた。
「ね、ちょっと。『行くわ』ってどういうことぉ?」
ベンチに残された女性がそう言いながら立ち上がりかけたとき、電車がやってきた。
「しばらく静かに」と言った女性が、鬱病の知り合いを「殺した」女性の背中を押して、線路に突き落とした。
そのすぐあとに、ホームに電車が滑り込んだ。
悲鳴が上がった。
「るみ─────っ!!」
一瞬遅れて横にいた女性も悲鳴を上げ、ホームへ走った。
「飛び込みだ─────っ!!」
「女の子が飛び込んだぞ─────っ!!」
構内がパニックになった。
白線に並んで電車の到着を待っていた人たちが、口々に叫んだ。
私はというと、ベンチから立ち上がれないでいた。
女性をホームから突き落とした女が、逃げもせずにまだホームに残り、狂ったように高笑いしているからだった。
そして、口々に叫んでいる人たちの誰ひとりとして、その女に気づかないからだった。
狂ったように。
自分で思い浮かべた言葉の意味に気づき、私は凍り付いた。
鬱病で悩んでいた女性。
狂ったように高笑いしている女性。
あれは、電車に飛び込み自殺した女性なのだ。
私は、両手で力いっぱい耳をふさいだが、それでも女の笑い声が聞こえてきた。
狂った亡霊は、いつまでもいつまでも高笑いを続けた。