1.山形市内繁華街
ストーカーに悩まされるのは、夜の繁華街を仕事場にする女性でも同様だ。
いやむしろ、客商売である分、店内ではあまりきつい応対ができない彼女たちの方が、かんちがいする男は多いかもしれない。
とある雑居ビルの3階にあるラウンジ、「アフロディーテ」に勤める水越琴美も、ここしばらくストーカーに悩まされていた。
ラウンジ「アフロディーテ」は、ママがオーナーをやっていて、琴美を入れて5人ほどのホステスを置いている、このあたりではこぢんまりとした店だ。
水越琴美25歳。
水商売に入って、4年ほどになる。
「オミズ」の世界に馴染みはしたが、それほどすれっからしてはいない。
もちろん、客たちが貢ぐ物を受け取らないほどの「清らかな天使」ではないが、高価な品物をねだるようなことはしなかった。
ストーカーと言っても、今のところは実害が出ているわけではなかった。
夜、店に出勤してくるときや客をタクシーに乗せるために送り出すときなどに、近くの電信柱の陰に立っている。
存在に気づいてそちらに目をやると、その姿は消えている。
そんな程度だ。
ぼんやりとではあるが、雰囲気に覚えがあった。
名前は……なんだったっけ?
1ヶ月ぐらい前まで、週に1回程度、店に来ていた客だ。
琴美が気に入ったのか、いつも指名していた。
来なくなって、忘れかけた頃に、最近のようにストーカーのような姿を見かけるようになった。
考えてみれば奇妙な話だ。
なぜ店に来ないのだろう?
そもそも「アフロディーテ」は、ぼったくり店ではない。
カウンター席に座るだけで数万円も飛んでいくようなことはない。
こんな田舎町では、そんな商売はやりたくてもできはしない。
なんで来ないんだろう。
琴美は首をかしげる。
2度と来るななどと言った覚えもない。
来てもらってうれしい客ではないが、ストーキングされるよりはましだ。
改めて考えてみる。
来なくなって1ヶ月。(それすら、同僚のホステスに言われて気づいたほどだ)
ストーキングされるようになったのが、1週間ぐらい前から。
なんかあったっけ?
──なにも思い当たることはない。
「琴美ちゃん」
客を表まで見送った同僚が、琴美に声をかけた。
「今、表でこれをことづかったんだけど」
そう言って彼女が差し出したのは、小さな紙切れ──メモ書きであった。
もうすぐ一緒になれますね 百済雄一郎
ひゃくさい、と読みかけて、すぐにそうではないことを思い出した。
くだら、と読むのだった。
名前すら、ほとんど忘れていた客であった。
「これくれたの、どんな人だった?」
同僚の返事は、琴美が想像した通りの人物だった。
琴美は深いため息をついた。
2.思い当たる節あれこれ
同僚から渡されたメモを見て、琴美はようやく、その客のことを幾分かは思い出した。
思えば、不思議な客ではあった。
長身だがきゃしゃな体型で、おとなしい人間だった。
年齢は30少し手前と言ったところだろうか。
どう見ても、遊び慣れているとは思えなかった。
なにより酒が一滴も飲めない。
いつもウーロン茶を注文し、琴美には好きな物を飲ませていた。
ここでたちの悪いホステスならドンペリの1本も入れるところだろうが、もちろん琴美はそんなことはしない。
せいぜいリザーブの水割りだ。
男性は小一時間ほど琴美と世間話をして、現金で精算して帰っていった。
支払いが滞ったり、ツケが溜まったりしたことは一切なかった。
そういう意味では、悪い客ではなかったのだ。
ただ、なんとなく変で、気持ち悪い。
そんな客だった。
たとえば、こんなことがあった。
山形市のはずれにある住宅街、そこのマンションの7階に琴美は住んでいる。
11時──いつも通りの時間に目覚めた琴美は、冷蔵庫から取り出したペットボトルのお茶を飲みながら、玄関ドアの新聞受けから新聞を取った。
記事の見出しなどを見るともなく眺めながら、キッチンを抜けてベランダへ出る。
天気は上々だ。
店に出る前に、洗濯をしておこうか。
ふと、下を見下ろした。
あいつがいた。
マンションから10メートルほど離れた電信柱の影に立ち、こちらを見上げている。
思わず身を隠し、ベランダの手すりの陰から、おそるおそるのぞいてみる。
それらしい姿は、どこにも見えなかった。
もう一つ。
当然のことながら、琴美の帰宅は深夜になる。
琴美のマンションは、入り口で暗証番号を入力しないと開錠しない。
その日も暗証番号を手早く打ち込んで、マンションに入った。
入るときに飛び込まれないよう、周辺に人がいないのを確認してからだ。
それでも、万一を用心して、バッグにはスタンガンを入れてある。
入り口奥にあるエレベーターの△ボタンを押す。
1階にいたエレベーターはすぐにドアが開き、琴美は乗り込んだ。
乗り込み、振り返って7階のボタンを押す。
そのとき、マンションのエントランスが眼に入る。
柱の陰に、あいつがいた。
背筋に寒気が走った。
ドアの陰に身を隠す。
マンションに入るときに、誰もいないのは確認したはずだ。
バッグの中に手を入れ、スタンガンを握りしめる。
足音も何も聞こえず、こちらに来る気配はない。
勇気をふるって、ちらっと顔を出す。
誰もいなかった。
ひとつひとつは、人に話せばどれも単なる気の迷いとか疲れとか言われてしまいそうな、たわいもないことばかりだ。
だが、こう何度も続くと、さすがにおかしいと思う。
実害がない以上、警察に届けても無意味なのはよくわかっている。
警察は、あてにはならない。
3.同伴出勤
銀座や大阪のキタにあるような店と違い、「アフロディーテ」にはそれほど過酷なノルマはない。
それでも、常連客を引き留めるため、あるいは売り上げを伸ばすため、ホステスたちは週に何度かは同伴出勤をする。
たいていの場合はどこかで待ち合わせて軽く食事を取り、その後そのまま「アフロディーテ」へというパターンであるが、ごくまれに、それ以外のことをする必要も生じる。
いわゆる「大人のおつきあい」だ。
その日の琴美がそうであった。
足繁く「アフロディーテ」に通っている、加藤という50代半ばの男性(山形市内にある会社の取締役ということだ)と同伴してもらうことになっていた。
待ち合わせ時間がいつもの同伴のときよりも早かったので、加藤氏の意図は察しが付いた。
琴美自身、そろそろかな、と思っていたのだ。
おいしい寿司屋で軽く食事。
アワビやトロといった高級ネタの合間に、玉子やカッパ巻きを取るのも忘れない。
これでなかなか、同伴の食事には気を遣う。
「さで。んじゃそろそろ行くべか」
加藤氏が言った。
もちろん、行き先は「アフロディーテ」ではない。
その前に、行くところがあった。
緊張のためか、期待が大きすぎたためか、気の毒なことに加藤氏はその日、「だめ」だった。
琴美も口や手を使って努力したのだが、挿入可能な硬度にはならなかった。
時間が迫り、加藤氏の方から「もういいよ」と切り出した。
「最近疲れ気味だがらな……。ま、こういうこともあるわな」
そう言うものの、加藤氏が軽くショックを受けているのが、琴美にもわかった。
「ごめんなさい。あたしがヘタだからよね?」
琴美は加藤氏にわびた。
──が、実を言えば、内心、琴美は加藤氏の男性の状態どころではなかったのだ。
ベッドにあおむけになっている加藤氏の股間に顔を伏せ、琴美は奮闘していた。
舌を使い、歯を立てないように注意して、口を前後に動かす。
反応は今ひとつであった。
多少大きくはなるものの、十分な硬度にならない。
──だめかもね。
琴美がちらっとそう思ったとき、背後からの視線を感じた。
背筋に寒気が走った。
「加藤氏」を口に含んだままなので、目だけをぎりぎりまで動かして、肩越しに後ろを見る。
視界に入るか入らないか、見えるぎりぎりのところ、浴室入り口のあたりに、確かに誰か立っている。
恐怖のあまり、よく「加藤氏」を噛み切らなかったものだ、と琴美は思う。
そのときに加藤氏(口に含んでいない方の加藤氏)が「ありがとう。もういいよ」と言わなければ、琴美はパニックを起こしていたかも知れない。
「加藤氏」を放して顔を上げ、恐る恐る後ろを見る。
毎度のことであるが、もちろん誰もいなかった。
男性としてショックなことがあったにもかかわらず、いやむしろそのせいか、加藤氏はよく飲んだ。
ママはもちろん、今日は琴美が加藤氏と「大人のおつきあい」をしてから出勤してくることをわかっているので、琴美にこっそり訊いた。
「琴美ちゃん。加藤さん、えらくピッチ上げてるけど、なんかあったの?」
「それが実は──」と、ホテルでのことをママに説明した。
「ま。お気の毒。言ってくれれば、バイ〇グラぐらい差し上げたのにねえ」
よく飲んだものの、加藤氏はいつもよりも早めに席を立った。
「まあ加藤さん。もっとゆっくりしていってくださいな──」
ママはそういって引き留めるポーズは取るが、今日の加藤氏の事情もあるので、いつもほどは強く引き留めはしない。
ママと琴美、二人で加藤氏をエレベーターまで見送る。
「ありがとうございましたぁ」
エレベーターの扉が閉まり、ママと琴美が「アフロディーテ」に入りかけたとき、ビルの外から激しい車のブレーキ音が聞こえてきた。
一瞬遅れて、悲鳴や叫び声が届く。
「なに今の」
ママと琴美は顔を見合わせた。
「アフロディーテ」に入りかけた身をひるがえし、階段を駆け下りた。
エレベーターが来るのを待つ時間も惜しい。
ビルの外は大騒ぎになっていた。
ビル前の道路、ビルを10メートルほどすぎたあたりに、宅配便の大型トラックが止まっていた。
ママが見知った顔にたずね、どうやら人が轢かれたらしい、とわかった。
誰が?
……まさか?
琴美はこわごわ、トラックのそばまで行った。
無惨であった。
轢かれて、巻き込まれたのだろう。
後輪と車体の隙間から、腕や足がてんでんばらばらな方向に飛び出していた。
「うっく……!」
琴美は息を飲み込んだ。
飛び出している腕や足が着ている服は、まぎれもなくさっきまで加藤氏が着ていた服であった。
あまりの悲惨さに、思わず目をそらす。
目をそらした先、道路の向かい側に、あいつがいた。
一瞬立ちくらみを起こし、気を取り直してもう1度見たときには、すでにその姿はなかった。