1.ただいま選挙中です
現在、都内では都議会議員選挙の真っ最中である。
屋根に候補者の名をでかでかと掲げて走るワンボックスカー、庶民派を意識してか運動員と共に自転車で走り回る候補者、のぼりを持った運動員を何人も引き連れて商店街をねり歩く候補者、やり方はさまざまだ。
そして、駅前なんかでよくやっている、街頭演説。
星龍学園前駅でも毎日やっている。
星龍学園前駅は幹線道路に面していて、大きな駅で見かけるようなロータリー道路はなく、駅前が少し広いスペースになっている程度だ。
星龍学園の帰り道、いつもと同様に黒神由貴と二人、その日も駅前での街頭演説に遭遇した。
幹線道路の路側帯は駐停車禁止なので、道路から少し駅方向に入ったところに選挙カーを停め、屋根の上に乗って候補者が演説していた。
高校生である私たちは未成年で選挙とは関係ないし、候補者側にとっても媚びを売ってもメリットのない相手だしで、お互いスルーしているのだが、今日はちょっと違った。
選挙用に改造されたワンボックスカーの屋根に乗り、白手袋でマイクを持って選挙演説する候補者に見覚えがあって、私は立ち止まった。
知り合いではない。また、いわゆるタレント候補でもない。
それでも、その候補者はテレビで、あるいはネットで、かなり顔を知られている人物だった。
馬淵民雄 まぶちたみお
と、選挙カーの看板に書かれていた。
マタミという飲食チェーンの元社長で、身体一つでマタミチェーンを立ち上げて、ここまで大きくした人物だ。
経済関係の番組のみならず、ワイドショーのコメンテーターとしてもしばしば登場し、そのため、世間ではけっこう有名人であった。今回、都議選に出馬するにあたって社長の座をしりぞき、現在は会長だという。
それだけなら、なんとなく顔を知っているというだけで投票する、あまり政治について深く考えない人が票を入れるような、毒にも薬にもならない候補者の一人であっただろうと思う。
ただし。
ただし、である。
馬淵民雄候補のネット上での評判は最悪だった。
「馬淵民雄」「マタミチェーン」「過労死」「ブラック企業」などの単語で検索すると、テレビでは出てこない評判が、山のようにヒットするのだ。
もちろん、ネット上のうわさや評判がすべて事実とは言えないのは周知の事実だ。
それでも、その評判のほとんどは、そのあまりの生々しさゆえに、単なる誹謗中傷とは思えないのだった。
たとえば、入社数ヶ月の女性社員が百数十時間の残業を強制されて、過労のあげく自殺。それでも、当時社長だった馬淵民雄は幾ばくかの見舞金を送付しただけで、謝罪一つしなかったとか。
たとえば、部下を叱責していて、本社ビルの窓から飛び降りろと言ったとか。
ある文化人との対談で、「無茶なことでも、倒れようとどうしようと、やらせてしまえば、それは無茶とは言わないんです。だってできたんだから」と真顔で言って、文化人を唖然とさせたとか。
そんなことを言う、あるいは言いかねない人間だとわかった上で、あらためてその顔を見てみると、面長で眉が下がった、一見すると穏和な顔が逆に薄気味悪く思えてくるのだった。テレビドラマの悪役ばりにこわもてな顔の方がまだ納得できた。
そんなマタミチェーン会長が車の屋根に立って演説していたので、つい立ち止まったのだった。
「現在の景気を上昇させるためには、まず雇用です。それも、二十代の若者が安心して働ける環境を整えることが急務なのです」
馬淵民雄は力説した。
自社の従業員を過労死させておいて、そんなことを言うか。
まだ社会に出てもいない、一介の高校生に過ぎない私ですらそう思うのだから、実際に低いお給料で働かざるを得ない人たちにしたら許し難い存在なのではないか。
「ねえねえ」
そんなことを考え、ちょっぴり義憤に駆られて馬淵民雄の演説を眺めていると、斜め後ろから肩をツンツンとつつかれ、声をかけられた。なんだろうと振り向くと、そこに二十代半ばぐらいの女の人が立っていた。OLさんっぽい。
「あのね、ちょっと言っとくけど、下丸子にある慈光(じこう)電機の廃工場は行っちゃダメだからね。わかった?」
私たちが「なんでしょう」と訊く前に、その女性はそんなことを早口でしゃべった。
なんのことだか意味がわからない。言うだけ言って、女性は私たちから離れ、選挙カーに向かった。
選挙カーの周りに集まっている人の中に入って行った女性は、屋根に立つ馬淵民雄に向かって大きく手を振り、叫んだ。
「会長ー! 応援してまーす! 選挙がんばってくださーい!」
突然そばで大声を上げられた観衆が、何事かと声の方を振り向き、女性を見つめた。だが当の女性はそんな視線を受けて恥じ入るでもなく、何もなかったかのようにすたすたと幹線道路を横断する方向の横断歩道へ向かった。
横断歩道の歩行者信号は赤だった。片側2車線、往復合計4車線の、それなりに大きな駅前道路は、いつもビュンビュンと車が行き来している。
女性は横断歩道を、猛スピードで車が行き交う横断歩道を、なんのためらいもなく渡っていった。
耳に突き刺さるような急ブレーキ音を立ててファミリータイプの乗用車が横滑りしたが、女性を避けることはできず、後部のどこかで女性を引っかけた。
女性が倒れ込んだところに、停まりきれなかった大型トレーラーが突っ込んできた。
他にも数台、ぶつかりながら、トレーラーを取り囲むように車が停車し、そのせいで、見たくないことや聞きたくない音を見たり聞いたりしないで済んだ。
現場が大騒ぎになったのは言うまでもない。
通行人がわあわあと大騒ぎする中、私と黒神由貴はその場を動けずにいた。
事故はもちろんショッキングな出来事であったが、それよりも私は、事故の直前に女性が私たちに言ったことが引っかかっていたのだ。
さっきの言葉は、どういう意味なんだろう。
ちょっと「アレ」な人が自殺の直前に意味不明な言葉を残した、とは思えなかった。
さっきからずっと、黒神由貴が例の鋭い目つきで事故現場を見つめているからだ。
そのときふと、私はバカなことを考えた。
「ねえくろかみ。今の女の人、『行くな』って言ってたけどさ、あれってキーウィ倶楽部の『押すなよ! 絶対押すなよ!』じゃないのかなあ」
私は心のどこかで黒神由貴が「そんなわけないでしょ」と言うのを待っていたのかもしれない。だが黒神由貴はあっさりと「真理子もそう思った?」と言った。
ああ、と私はあきらめとも覚悟ともつかない思いを強くした。
近いうちに私は黒神由貴と共に、そのなんとか電機の廃工場に行くことになるんだろうな、と。
2.曰く付きの物件
数日後の星龍学園、昼休み。私、黒神由貴、酒井美佳の三人は図書室にいた。
星龍学園前駅での事件のあと、私は酒井美佳にメールして、慈光電機の廃工場について調べてくれるように頼んだ。今日はその調査報告というわけだ。
「で、慈光電機の廃工場って、どんなところなの」
私は酒井美佳に言った。
「慈光電機・廃工場って、心霊スポットとしてはけっこう名が知られていて、あたしもわかってたつもりだったんだけど、真理子に訊かれたんであらためて調べてみたんだけど、あそこすごいわ」
酒井美佳はそう言いながら、持っていたクリアファイルからA4サイズの紙を何枚か取り出した。画像と文章が載っている。
「真理子やくろかみも知ってるだろうけど、心霊スポットって、たいてい過去に事故とか事件とかが起こっているところなのね。慈光電機・廃工場もご多分に漏れずそうなんだけどさ、いやあすごかった」
どうやらA4用紙はネットとかで調べた情報をプリントアウトしたものらしい。
「ちょっとググっただけで、ニュース記事が山ほど出てくるんだもん。ネットには出てこない、闇に葬られた事故とか事件とかまで入れたら、とんでもないことになるんじゃないかな」
「ひどいケガしたりしてるわけ?」
A4用紙の文字を目で追いながら、私は言った。用紙には「事故」とか「労働災害」という単語がやたらと出ていた。
「ケガで済んだらラッキーって感じだったみたい。かなりの人が作業中に死んでるみたいで。それでもちゃんと見舞金とかが出たなら遺族もまだ救われるんだろうけど、本人のミスってことにされて泣き寝入りというパターンが多かったって。──ああ、これなんかとくに悲惨だな」
そう言って、酒井美佳はA4用紙の一つを手に取った。
「どんな機械なのかよくわからないんだけど、なんかこう、大きなローラーが回る機械。そこで作業していた女の人が、何かの拍子に長い髪の毛が機械に巻き込まれたんだって。ほら、シュレッダーにネクタイが巻き込まれるとかって、よくあるじゃん。あんな感じで。んで、悲鳴を上げたんだけど、周りにも機械がいっぱいあって音がすごいんで、他の人に気づいてもらえなくて」
「うわー。それで、死んじゃった?」
思わず私が言うと、酒井美佳は首を横に振った。
「命は助かった。でも、頭の皮膚が髪の毛もろともはがれちゃって、機械から髪の毛を抜こうと思って出した手も巻き込まれて、ぐしゃぐしゃになっちゃったんだって」
私は声を失った。さすがに黒神由貴も眉をひそめている。
「結局、その女の人は入院先の病院の屋上から飛び降りて自殺しちゃったって」
「ひでえなあ」
思わず私は言った。
「そんな風だから、死んだ従業員の幽霊が出るってうわさが立ってね」
「だろうなー」
「目撃した人も次々現れて、まあ普通ならそうなったら工場の偉い人が目撃談をもみ消したりするんだろうけど、生きてる従業員も多かれ少なかれ会社には恨みがあるから、あちこちで触れ回ってさ。それでまともに稼働できなくなって、結局、その工場は閉鎖されちゃった。心霊スポットとして知られ始めたのは、閉鎖されてからみたいね」
「そりゃ幽霊も出たくなるよねー」
「まあ典型的なブラック企業で、その中でもその工場はひどかったらしいわね。でさ、実はこの話、まだ続きがあってさ」
酒井美佳は思わせぶりにニヤリと笑った。
「元々、その企業って評判が悪かったのは確かなんだけど、業績が悪くなって、会社が売りに出されて、ある企業グループが買い取ったとたん、業績はともかく、事故がもっと増えたんだって。さっき説明した事故って、全部その企業に買い取られてからの話。でね。その買い取った企業グループってのが、マタミグループなんだな、これが」
「うひゃ」
さすがに驚いて、私は思わず声を上げてしまった。
「ブラック企業の元工場を買ったのが、別のブラック企業って、どーよ。ってね。今は工場は閉鎖中だけど、いずれは建て替えたりするんだろね。──でさ」
と、酒井美佳の口調が変わった。
「こんなこと調べて何するつもり? なんか面白そうなことをたくらんでない?」
いい加減に懲りろよバカチン。ついこないだ、「黄泉への扉」の件で死にかけたのを忘れたのかよ。……と思ったが、それは口には出さなかった。
「ないよそんなの。ネットで見かけて気になっただけで」
「ほんとにぃ?」
酒井美佳は疑惑のまなざしで私と黒神由貴を見つめた。
「まあいいや。なんか面白いネタが手に入ったら聞かせてよね。また投稿するんだ♪」
酒井美佳は言った。そこで、昼休み終了の予鈴が鳴った。
酒井美佳から慈光電気・廃工場の話を聞いたあと、私は黒神由貴に訊いた。
「……で、いつ行く?」
「やっぱり来る?」
すっごい困り顔で黒神由貴が言った。
「当然。あれは絶対、私込みで招待されたんだから」
ドヤアという顔で、私は言った。黒神由貴が大げさにため息をついたが、見なかったことにする。
3.廃工場へ
金曜日の午後8時を少し回った頃、私と黒神由貴は慈光電機・廃工場正面門前に立っていた。星龍学園は土曜日も午前中だけ授業があるのだが、明日は祝日なので土日連休で、今日のように夜遅くにやって来るにはちょうどよかったのだ。
慈光電機の廃工場は東急多摩川線下丸子駅から少し歩いた多摩川沿いにある。このあたりは工場地帯で、多摩川を挟んだ向かいの川崎エリアにも工場がたくさんある。ライトアップされている工場もけっこうあってメカメカした雰囲気満点で、お好きな人にはたまらないんだろうけど、あいにく私にはそういう趣味はなかった。
一方、私たちの目の前にある廃工場は、さすがつぶれただけあってライトも点いていないし、作業の音も何も聞こえない。真っ暗な建物がずどーんとそびえているだけだ。高さは3階建てのビルぐらいだが、中がどうなっているのかはよくわからない。この慈光電機・廃工場も含め、周辺のどの工場の敷地も無駄に広いので、もしこの廃工場の中で何かあっても、誰も気がつかないだろうな、と私は思った。
星龍学園高等部に入学して肝試ししたときのことを思い出す。あのときと状況は似ているけれど、おどろおどろしい雰囲気はこちらが圧倒的に上だ。なにしろここに「何か」がいるのは間違いないんだから。
廃工場入り口の前に立つ。高さが3メートルぐらいのコンクリート塀が左右に伸びて、入り口には学校の校門のような、重そうなスライドタイプの鉄格子門扉があった。当然、今はぴしゃりと閉じられている。廃工場の前は片側一車線の道路だが、行き来する車は全くない。おそらく、工場に出入りする車がほとんどだったのだろう。
ジーンズ、汚れてもいいようなシャツ、スニーカー、リュックサック。私も黒神由貴も同じような服装だ。リュックの中は探検のための装備が入っている。
黒神由貴がリュックから呪符を取り出し、私に差し出した。
「真理子、これ一応持ってて。身を守る護符だから」
「了解」
受け取って、胸ポケットに入れる。
黒神由貴は入り口の向こうにある工場建物を、いつもの鋭い目つきで見つめている。
と、その眼が一瞬驚いたように開き、すぐに元の鋭い目つきに戻った。
「どうしたの? なんか変なことがあった?」
私がそう訊くと、黒神由貴はうなずいて、すぐに首を横に振った。
「えっと、強い結界が張られていたんだけど、今、消えたの」
「え、どういうこと?」
黒神由貴は私を見つめ、言った。
「つまり、『入ってこい』って言ってるの。私たち以外は入れないつもりみたい」
身体がブルッと震えた。いいえ、これは武者ぶるいです。
私と黒神由貴はそれぞれのリュックから大型の懐中電灯を出し、肩にかけた。
「じゃ、行こうか」
私はそう言って、黒神由貴と二人、入り口をふさいでいる門扉に手をかけ、「せーの」で動かした。鍵はかかっていなかったが、さすがに重い。人一人ぐらいが通れる程度まで開けて、私たちはこそっと入り込んで元の通りに門扉を閉めた。その間、非常警報とか監視カメラのフラッシュとか、そういったことは何もなかった。
ここでもまた、星龍学園に忍び込んだときのことを思い出した。
あのときと同じだ。
本当はセキュリティがガッツリ動いているのに、私たちを呼び込むために、どういう方法かわからないけど、切ってるんだ。
私たちは門の正面にある建物入り口ドアに向かって歩き出した。
榊真理子と黒神由貴が門を開けて中に入ったあと、門扉に近づいた影があった。
怖い物知らずの実話怪談マニア、酒井美佳であった。どうやって探ったのか、酒井美佳は、榊真理子と黒神由貴が今夜ここへ来ることを知っていたようだ。
「やっぱり来てんじゃん」
酒井美佳はそうつぶやくと、門扉に手をかけ、足を踏ん張って、門を開こうとした。だが、酒井美佳がいかに力を込めようとも、門扉はびくともしなかった。
「なんでぇ? さっきは簡単に開いたっぽかったのにー」
何度目かのチャレンジが無駄骨に終わった酒井美佳は顔を上げてぼやき、腹立ちまぎれに門扉を蹴飛ばした。
「はいそこの彼女-。門を蹴飛ばしたらだめだよー」
酒井美佳が門扉を蹴飛ばすと同時に、そんな声が響いた。拡声器を通した、スピーカーからの声だった。
酒井美佳がぎょっとして顔を上げると、工場前の道路、反対側の車線にパトカーが止まっていた。運転席とその隣の警官二人が、酒井美佳を注視していた。マイクで声をかけたのは助手席側の警官のようであった。
「学生さんですかー? このあたりは人通りが少ないから、早く帰らないと危ないですよー? 送りましょうかー?」
ダッシュして逃げようか、と酒井美佳は一瞬考えた。だがそれで不審者扱いされて補導でもされたらえらいことになってしまう。ここはちゃんと挨拶すべきだと判断した酒井美佳は、両てのひらを口の左右に添えてメガホンにし、パトカーに向かって叫んだ。
「ごめんなさーい! もう帰りますー。すみませんでしたー」
そう言って、深々と頭を下げ、少し早足でその場を立ち去った。パトカーは酒井美佳を追うこともなく、そのまま走り去って行った。
パトカーが行ってしまったのを確認した酒井美佳は、深いため息をついた。
「ヤバかった……」
「今、何か聞こえなかった?」
工場建物内に入るドアを開け、中に入って、さあいよいよというときに、今入ってきたドアを振り向いて、黒神由貴が言った。
「聞こえた。なんかマイクの音っぽかった。おまわりさんか何かかも。私たちに言ったわけじゃないと思うけどな。酔っぱらいか何かがいたんじゃない? ほら、声のすぐ前にガンッて音がしたじゃん。きっとそうだよ」
私が言うと、黒神由貴は「あー」という顔をして何度もうなずき、建物内の通路の奥へ顔を向けた。
いよいよ、である。