黒神由貴シリーズ

迷宮の黒神由貴 2


4.入口での出来事

 当たり前の話だが、午後8時を過ぎて照明も点いていない廊下は、真っ暗だ。私たちはそれぞれ肩にかけた大型懐中電灯を点け、廊下を進んだ。左右には事務所らしきドアが並んでいるが、一つ一つ中を確認したりはしない。どうやら黒神由貴には何らかの目当てがあるようだった。

「どこか目的の場所があるの?」

 私は訊いた。

「そんなに確信はないんだけど、機械とかがある作業場がこの先みたいだから、そこに行けばいいかなと思って」

「なんで?」

「そこで、一番たくさん人が死んでるだろうから」

 黒神由貴はさらっと言った。うわー……

「でも、このあたりにもそれなりにいるから、注意してね。前に言ったとおり、なるべく気づかないふりで」

 黒神由貴はそう付け加えた。
 うん。
 私もすでに気づいていた。
 建物の中に入ってからまだいくらも進んでいないが、すでに、気味の悪い人影を見かけていた。
 洋画ホラーみたいに、物陰から突然襲いかかってきたりはしない。事務所ドアのすりガラスに顔をくっつけていたり、廊下の曲がり角の陰にひっそりとたたずんでいたり。そんなのが何人もいた。年齢の見当は付かないが、男も女もいた。
 工場だけではなく、事務エリアでもけっこう人が死んでいるんだろうな、と鈍い私でも想像が付いた。
 たぶん、そのほとんどは、自殺。
 だって、廊下の天井から、下半身だけがぶら下がっているのが見えたから。
 思わず顔を上げて注視しかけて、寸前に黒神由貴からの注意を思い出し、なんとか見ないようにできた。

 ──お化け屋敷と思えばいいんだ。知らんぷりしていれば大丈夫。

 いつまでもそんな対応でいいとは思えなかったが、私はそう思い込むことにした。
 見えていないふり。気づいていないふり。
 そう考えながら黒神由貴の後ろについて廊下を進むが、そう考える事で余計に気づかれるのか、「本当はわかってるんだろ」と言わんばかりに、私を見つめる人影──いやもう、はっきり認めてしまおう。亡霊が、何人もいた。
 廊下の曲がり角や片隅からじっと見つめているだけなのでまだこらえられたが、安っぽいホラー映画みたいに突然目の前に飛び出してきたら、悲鳴を上げていただろう。
 亡霊がそんなことをしないで、じっと私たちをうかがっているのは、たぶん黒神由貴がいるからだろうと私は思った。黒神由貴を恐れているからなのか、なんなのか、それはわからないが。
 やがて廊下は突き当たりになった。両開きの、ちょっと大きめのドアになっている。
 ドアの周りを電灯で照らしてみると、ドアの上に「第一作業区」と書かれたプレートがあった。

「ここが、その、作業場?」

「うん。じゃあ、入るね」

 私が訊くと、黒神由貴はそう答えて、ドアの取っ手を握り、ん、と力を込めてドアを開いた。
 ドアが開くと同時に、ドアの向こうから何かが飛びだしてきて私にぶつかり、私はふらついて、数歩ほど後ろに下がった。

 ──と、思ったのだが、そうではなかった。

 実際には何も飛び出してこなかったし、私にぶつかりもしなかった。
 ただ私がそういう風に感じただけだった。
 何かを感じたのは間違いないと思う。
 黒神由貴とか神代先生的に言うなら、何かの「気」とか「気配」を感じたということなのだろう。
 黒神由貴の方はと見ると、後ろに下がったりはしなかったようだが、両足を踏ん張っているのが、全身の力の入り具合でわかった。

「くろかみ、大丈夫?」

 私が訊くと、黒神由貴は背を向けたまま、うなずいた。

「大丈夫。……でも、ちょっと待って」

 そう言うと黒神由貴は背中のリュックを下ろし、何か取り出した。
 布にくるまれた、長さ50センチちょっとぐらいの、細長いもの。
 くるんだ布を取って出てきたのは、むき出しの刀……いや、剣だった。刃の部分の長さが30センチちょいといったところ。刃は普通の刀のように白く光る銀色ではなく、鈍い金属光沢だった。ちょうどピストルのような色、確かガンメタとか言うんだったか? そんな色をしていた。
 握りの部分も日本刀のように布や糸で巻いてあるのではなくて、ややこしい模様や文字が彫られていた。握りも刃も同じ材質でできているっぽくて、こう言っていいのかどうか、ステン一体型の包丁のような感じであった。

「それ……なに?」

「御神刀……って言えばいいのかな。お祖母様にお願いして借りてきたの。うちでは『草薙の剣』って呼んでる」

 いきなり日本神話で聞いた名前が出てきたので、私は目をむいた。だが黒神由貴はこんなときに冗談を言う子ではない。実際にこの剣にはすごいパワーがあるのだろう。逆に言うと、そういうものが必要になると、黒神由貴は考えたわけだ。
 黒神由貴はリュックを背負い直し、剣を右手で握り、「よし」と小さく言った。準備ができたらしい。

 第一作業区の中は広かった。体育館ぐらいあるだろうか。
 私たちが今いる1階部分から見上げると、2階と3階部分があるのが、吹き抜けを通してわかった。吹き抜けは二つあって、どちらも同じ大きさで、5メートル四方ぐらいで、そんなに大きくはない。吹き抜けの真上の天井にはクレーンがあるので、この吹き抜けから機械を上げ下げするのだろう。
 それぐらいのことはわかったが、照明がないので、上の階部分に誰か、あるいは何かいるかどうかまでは見えない。
 だが。
 ここに来るまでの廊下で見かけた以上に、気味の悪い存在の気配が、ひしひしと感じられた。意識して見ないようにしたが、目をやればあちらこちらに亡霊がいるのがわかっただろうと思う。
 こういう言い方が合ってるのかどうか、まわり中から息を殺して見つめられている感じだった。

「んじゃ、行く?」

 カラ元気を出して私がそう言うと、黒神由貴が「あ、ちょっと待って」と言った。
 黒神由貴は左手を挙げ、人差し指と中指をそろえて伸ばし、残りの指は硬く握り込んで、何かブツブツと唱えた。そしてフリスビーを投げるような手つきで前方に腕を伸ばした。
 伸ばした指先から、もやっとした「何か」が飛んで行った。間髪を入れず、黒神由貴は右手に持った剣を突き出し、小声ではあるが力強く「はっ!」と気合いを入れた。
 暗くてよく見えなかったが、黒神由貴の気合いと同時に、飛んで行った「何か」がパッと飛び散ったのはわかった。

 ピシッ。

 そんな音がしたような気がして、私の身体に電気が走った。
 感電ではない。この感覚は、そう、冬にドアノブを不用意に握ったときの、あの感じだ。

「ごめん。ちょっと痛かった?」

 黒神由貴が言った。とすると、今のは黒神由貴が何かやったからなのか。

「ああ、うん、だいじょう……」

 そう言いかけたとき、黒神由貴が突然抱きついて来た。うわあ、こんな状況で道ならぬ恋かよ、などとバカなことを言う間はなかった。
 黒神由貴が私に抱きつくのとほぼ同時に、ドン、と突き飛ばされるようなショックを受けた。肩とか頭とか背中とか、そういう部分的にではなく、身体全体でショックを感じた。
 この作業区に入った瞬間に感じたのとは、また違う。
 作業区に入ったときに感じたのは、もっとこう、ドロッとした気持ち悪いものの塊がぶつかってきた感じだったが、今のはそんな感じではなかった。うまく言えないが、「悪意」が感じられない。
 黒神由貴を見ると、こういう状況でのお決まりの「鋭い目つき」ではあるものの、驚いた表情をしていた。黒神由貴にとっても、今のは意表を突いたものだったようだ。
 もちろん私だって驚いたわけだが、その一方、何か奇妙な感覚があった。
 今の感じ、何か記憶がある。同じようなことが、以前、どこかであった。どこでだっただろう。
 黒神由貴はあたりを見回した。つられて、私も同じように見回す。
 作業区に足を踏み入れた瞬間の、まわりから注目されている感じ、あの感じが消えていた。
 暗闇の中でもやもやとうごめいていた亡霊も、消えていた。
 黒神由貴が何かやったからなのか、それともそのあとのショックのせいなのか、気配が消えていた。

「ね、くろかみ。気味悪いの、いなくなっちゃった?」

 私が言うと、黒神由貴は首を横に振った。

「びっくりして引っ込んだだけ。すぐにまた出てくると思う」

 そうなんだ。
 驚いた顔をしていた黒神由貴が首をかしげているのに、私は気づいた。

「どうしたの? まだなんかおかしなことが?」

「うん……。今の、前にもどこかであったような気がして……」

 あ、黒神由貴も同じようなことを思ってたんだ。

「まあいいか。じゃあ行こうか」

 黒神由貴は言って、歩き出した。私も続く。


5.うごめく怨霊たち

 そもそも。
 この廃工場に忍び込んで、私たちは何をすればいいんだろう?
 確かにこの中には、不幸な死に方をした亡霊がたくさんいる。鈍い私でも、さすがにそれぐらいはわかる。
 でも亡霊は何か悪いことをするわけでもないし、私たちは何をするために、ここに誘われたのだろうか。
 一つ思いつくのは、浄霊だ。いろいろな理由でこの場に縛り付けられている霊を解放してやること。それはたとえば、いつかの延嶺寺の遊女無惨絵や、黒神由貴の自宅マンション4階の空き部屋とか、あれだ。
 亡霊たちは恨みに満ちているはずの廃工場に縛り付けられていて、ここから逃れるために、黒神由貴を呼んだのではないか。(ついでに私も)
 そう考えれば、周囲からひしひしと感じる、私たちを見つめる気配、それがなんとなく期待されているように思えるのも不思議ではない。だから、私たちに襲いかかってきたりしないんだ。
 わかった。
 私には何もできないかもしれないが、黒神由貴の手伝いぐらいはできるだろう。できる限りのことはさせてもらおう。劣悪な環境の中、不幸な事故で亡くなったり、追い詰められて自殺した亡霊のために。

 ──あれ?

 だったら、黒神由貴がお祖母様から借りてきた「草薙の剣」なんて、別に必要ないんじゃ?
 ほんの一瞬、そんな疑問が頭をかすめたが、きっと、転ばぬ先の杖なんだろうと私は思った。



 作業区の中を進む。
 さっきの黒神由貴の「ピシッ」とか、そのあとのショックとか、そんなのに驚いていた亡霊たちが、またそろそろと様子を見に現れ始めていた。

 2階部分の床というか天井に1メートル四方ぐらいの穴があり、そこに鉄のはしごが取り付けられていて、真っ直ぐ下に降りられるようになっていた。その横を通り過ぎようとしたとき、上から何か落ちてきた。
 人だった。
 頭を下にした状態で真っ直ぐ落ちて来たその人は、床に直撃して、足とか手とか、よくわからないひとかたまり状態になった。不思議なことに、それだけのことが起こって、何も音がしなかった。
 塊がもぞもぞと動き始め、人間らしい姿に戻って、やがてゆっくりと立ち上がった。
 その人の頭は、眉毛のあたりまで平らになっていた。そして、床にぶつかった衝撃のせいか、両方の目が半分以上飛び出していた。
 その人が、笑い始めた。声は聞こえないが、大きく口を開けて、身体を揺すって、笑い始めた。
 大きく開けた口から、血と、何かドロドロとしたものがあふれ出す。
 笑っているのか、それとも苦悶に身をよじっているのか。
 やがて、その人の姿が薄れ、消えた。



 少し歩くと、今度は大きな工作機械があった。手入れもされずに放置され、真っ赤に錆び付いたその機械は、なのに動いていた。何かを切るのか、それともつぶすのか、機械本体の真ん中で、重そうな鉄の塊が上下にゆっくりと動いている。さっきのはしごからの落下亡霊と同様、なんの音も聞こえない。
 その機械の前に、中年の男の人が立っていた。
 その人は機械に上り、上下に動き続ける部分に入って行った。
 その人が入って行ってすぐに、上下に動く部分から大量の血が流れ出してきた。
 機械を覆い尽くさんばかりに血が流れ、上下に動き続けていた部分が、上に上がったところで止まった。その間から、ぐしゃぐしゃの赤黒い肉塊がでろでろとはみ出てきた。
 機械の中に入って行った、さっきの人のなれの果てだった。
 赤黒い肉塊は、元々立っていた場所に落ち、山盛りになった。かすかに動いているのがわかった。
 その肉塊も、さっきのように、消えていった。



 さらに進む。
 作業区の端まで来て、私たちはそこにあった階段を上った。階段は2階まで真っ直ぐではなく、途中で折り返している。その、途中の踊り場に、若そうな男の人が立っていた。
 その人は右手に大きな電気ドリルを持っていた。ドリルには太い刃が付いている。
 その人が電気ドリルを持ち上げ、頭に近づけた。ちょうどピストル自殺するかのように。
 その人が右手の指に力を入れ、ドリルが回転した。これまでと同様、音は聞こえない。
 激しく回転するドリルの刃を、頭に近づける。耳ではなく、その少し前、こめかみのあたりに。
 ドリルの刃が頭に食い込むと、眼球が激しく動き回り、千切れ飛んだ。
 頭の右側を粉砕したドリルの刃はそのまま進み、目と目の間を砕き、さらに左目部分も粉々にした。
 頭の中で激しく回転するドリルの振動で身体がブルブルと震えるが、その人は立ったままだ。
 両目があった部分は完全に粉砕され、そこからダバダバと血が流れ出した。
 顔の下半分から上半身がみるみる真っ赤に染まってゆく。
 頭の中にほとんど入ってしまったドリルの刃をゆっくりと引き抜くと、電気ドリルを持った手がだらんと下がり、そしてその人も消えた。



 亡霊たちのそんな様子を3度まで見て、私はようやく気づいた。
 これは、亡霊たちなりのアピールなんだと。自分たちはこんな風にして死んだのだと言いたいのだ。
 そう言えば、何かの実話怪談本で、高層ビルからの飛び降り自殺を繰り返す幽霊の話を読んだ記憶がある。
 私と黒神由貴は、亡霊たちがそんなアピールのために私たちの前に現れるたびに、その場に立って様子を見守った。最初のはしごのときこそ驚いたが、黒神由貴が特に身構えもせずに見ているので、大きな危険はないとわかった。
 階段踊り場にいた電気ドリルの亡霊が消えて、私と黒神由貴が再び歩き出そうとしたとき、作業区内に絶叫が響き渡った。
 これまで、亡霊が出てきても、なんにも音がしなかったから、あまりに突然で、全身に氷水をぶっかけられたみたいに、私はその場に固まった。さすがに驚いたのか、黒神由貴も動きを止めた。

「真理子ごめん。ちょっとだけここにいて。動かないで。懐中電灯の電気も消して」

 黒神由貴が振り返って、私に言った。

「え、なに。どうしたの?」

 いきなりそんなことを言い出したので、私は少しうろたえた。

「上に誰かいる」

 黒神由貴は短くそう言った。その言葉を聞くなり、それでなくてもドキドキしていた心臓が、ブレイクダンスを始めた。言われるままに、懐中電灯を消す。

「もし何かあったら、そのまま逃げて。さっきの護符があれば、そんなに危ないことはないと思うから」

 黒神由貴は恐ろしいことを言った。その発言は、ヤバいフラグ立ちまくりじゃないか。
 そして黒神由貴はあらためて階段を上り始めた。右手で持っていた草薙の剣を、今は両手で構えている。臨戦態勢なのが、はっきりとわかった。
 動くなと言われたが、こういう状態でただじっと待っていられない。黒神由貴から5、6歩遅れて、私は黒神由貴の後ろに付いていった。
 階段を上りきった場所の左手に、大きな機械が置かれていた。高さが天井近くまであって、2階の奥に進むには、その機械の横を回り込まなければならないようだった。
 忍び足で階段を上りきった黒神由貴は、機械に背中をもたせ、剣を構えた。
 呼吸を整えて、タイミングを計っているのがわかった。
 機械の陰から、何かが飛び出し、黒神由貴に何かを振り下ろした。
 同時に黒神由貴も足を踏み出して機械の陰から飛び出し、身体をかがめて、剣を相手に向かって突き上げた。
 黒神由貴の剣が相手を突き刺す寸前で、剣は止められていた。
 相手が振り下ろした何かも、黒神由貴の頭のすぐ上で止められていた。
 相手が振り下ろした何かは、両端が鋭く尖って、金色に光っていた。
 そしてその相手は女性で、私がよく知る人物であった。
 私がよく知る人物は言った。

「担任教師をぶった切ろうっての?」

「先生こそ、可愛い生徒を独鈷杵で刺し殺すつもりですか」

 黒神由貴はそう言って、構えていた剣を下ろした。
 機械の陰から出てきて黒神由貴に襲いかかったのは、神代先生であった。神代先生の後ろに、幻丞さんもいた。

「君たち、こんなところでなにしてるの」

 幻丞さんが言った。


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