黒神由貴シリーズ

迷宮の神代冴子


1.街角の選挙演説

 週末の夕刻。
 星龍学園前駅から二駅ほど離れたとある駅、神代冴子はその駅に降り立った。駅前飲食街にある小料理屋が目当てであった。
 星龍学園前駅周辺にもそれなりに旨い店はあるが、学園の近くで呑むのはさすがに気が引けた。
 改札を出て出口へ近づくにつれ、演説らしき声が聞こえてきた。

 ──そうか、都議選か。

 成人の義務として、選挙には欠かさず行っている神代冴子だが、今回の都議選には今ひとつ気が乗らなかった。
 各党とも論戦の的を絞りきれず、選挙民の興味を引けていない。加えて、どうにも不愉快な候補者がいることもまた、神代冴子が都議選に気が乗らない理由の一つだった。
 駅を出た神代冴子は、駅前ロータリーに停まっている選挙カーに目をやった。

 馬淵民雄 まぶちたみお

 選挙カーの屋根に付けられた看板には、候補者の名が大きく書かれていた。飲食チェーンの元社長、都議選出馬のため社長職をしりぞいて現在は会長となっている人物だ。
 神代冴子が不愉快に思う候補者が、他ならぬこの馬淵民雄候補であった。
 別に個人的な恨みがあるわけではなく、知り合いでもない。
 馬淵民雄のネット上での評判が悪臭ふんぷんだからだ。
 ネット上での悪評をそのまま信じるほど神代冴子はネットバカではないが、単なる誹謗中傷と言うには、その悪評は極めて具体的であった。
 入社数ヶ月の女性社員が百数十時間の残業を強制されて、過労のあげく自殺。当時社長だった馬淵民雄は幾ばくかの見舞金を送付しただけで、謝罪一つなかった。
 部下を叱責していて、本社ビルの窓から飛び降りろと言った。
 ある文化人との対談で、「無茶なことでも、倒れようとどうしようと、やらせてしまえば、それは無茶とは言わないんです。だってできたんだから」と真顔で言って、文化人を唖然とさせた。
 ちょっと「馬淵民雄」「マタミチェーン」「過労死」「ブラック企業」などの単語で検索するだけで、そんな事例が山のようにヒットするのだ。

「現在の景気を上昇させるためには、まず雇用です。それも、二十代の若者が安心して働ける環境を整えることが急務なのです」

 選挙カーの上に立つ馬淵民雄は熱く語っていた。
 従業員を死なせておいて、どの口がそれを言うか。
 まあとにかく、こいつにだけは投票しないだろうな。
 神代冴子はそう思い、きびすを返して目的の小料理屋に向かいかけた。
 そのときであった。

「お嬢さん」

 まさか自分が呼ばれたのだとは気づかず、反応が遅れた。声がした方向を振り返ると、五十がらみの冴えない中年男が立っていた。背広姿の、おそらくはサラリーマンであろうが、どう見てもリストラ寸前といった雰囲気を漂わせていた。右手に清涼飲料水のペットボトルを持っているが、酒瓶の方が納得できた。
 なんの用かと訊く気にもなれず、神代冴子は中年男を冷ややかな目で見つめた。

「あのね、お嬢さん。いいですか。慈光(じこう)電機の廃工場に行ってはだめですよ」

「は?」

 中年男と会話するつもりなどさらさらなかったが、男の言葉があまりに想定外で、思わず返事してしまった。

「下丸子にある慈光電機の廃工場。あそこには行っちゃだめなの。いいですね。言いましたからね」

 言うだけ言うと中年男は神代冴子への興味をなくしたように立ち去った。どういう意味かと神代冴子が訊く間もなかった。あっけにとられた神代冴子が中年男を目で追うと、中年男は馬淵民雄の選挙カーへ向かって歩いて行った。
 選挙カーを取り囲む聴衆の中に入って行った中年男は、選挙カーの上で演説を続ける馬淵民雄に向かって叫んだ。

「会長ー! 応援しています。がんばってくださいー!」

 突然そばで叫ばれたので、周囲にいた何人かが不審げな表情で中年男を見つめた。中年男はそれを気にもとめず、さらに続けた。

「ささやかながら、手向けの祝い火です! お受け取りください!」

 そう言って、手に持っていたペットボトルを持ち上げ、中の液体を自らの頭と身体に振りかけた。
 空になったペットボトルを足下に投げ捨て、中年男は背広のポケットから使い捨てライターを取り出した。くわえたばこに火を点けるように、なんのためらいもなく着火ボタンを押す。
 ボン、と低い音を立て、中年男の全身がオレンジ色の炎に包まれた。中年男のそばにいた聴衆が「わっ」と声を上げて飛びすさった。
 ペットボトルに入っていたのは飲み物ではなく、ガソリンであった。
 薄暗くなった駅前ロータリーを松明さながらに明るく照らし、人々が悲鳴を上げて逃げ惑う中、中年男は直立不動の姿勢で微動だもせずに燃え上がった。

「要するに、その廃工場に来いってことか……」

 炎を上げる中年男を見つめ、神代冴子はつぶやいた。

「行ってやろうじゃないの」


2.曰く付きの物件

「それはまた、あからさまな挑発ですねえ」

「来いってんだから行ってやろうと思ってるんだけどね。こういうの、誘い受けって言うらしいけど」

 銀座の裏通り、小じゃれたパブの奥まったテーブル席で、神代冴子と幻丞が話している。

「──なんですって?」

「いや、生徒が話しているのを耳にしただけだから私も詳しくは知らないんだけど。なんかBLとか言うんだってさ」

「なんですか、それは」

「BL。ボーイズ・ラブの略なんだって」

 幻丞は「うへ」という表情を浮かべた。

「で、慈光電機・廃工場のことはわかった?」

「まあざっくりとではありますが」

 幻丞は廃工場のことを説明した。
 劣悪な作業環境、続出する災害事故、けっこうな数の死亡者、業績悪化とそれにともなう工場閉鎖、死亡した作業員の幽霊が出るうわさ、心霊スポット化、などなど。

「で、業績が下落し始めた頃に、本社や工場をひっくるめて買い取ったのが、今絶賛叩かれ中のマタミグループでして。皮肉なことにと言いますか、あの社長なら当然と言いますか、マタミ傘下になったとたん、工場での事故や本社での自殺が激増したそうで」

「そんな連中しか買わないだろうし、さぞ足元を見て買い叩いたんだろうなあ」

 神代冴子は言って、甘鯛の香草パン粉焼きを口に入れ、「これ、塩焼きにした方が絶対美味いよな」とつぶやいた。

「それだけいろんなことが起きているんだったら、心霊スポットになる前から因縁めいた話があるんじゃないのかな」

 神代冴子が言うと、幻丞がうなずいた。

「ご明察。実際に地歴を調べたわけではないので、周辺住民のうわさだけなのですが、過去、その敷地あたりは刑場だったとか無縁仏の墓地だったとか、もっともらしい話がいろいろと」

「そういったふわふわとさまよってる連中に引導を渡せばそれで済む話なんだろか、この件は」

「どうでしょうねえ。私としては、もう少し剣呑なものを感じるんですが」

 幻丞が顔をしかめて言う。

「お嬢はどうされるんです。その挑発に乗るんですか」

「さっきも言ったとおり、来いってんだから行くつもりだけど。──行くなっての?」

「行くなと言って、はいそうですかとやめるお嬢ではないでしょう。いつ行かれるのかと思いまして」

「そうだなあ」

 そう言って神代冴子は手帳を取り出した。

「今は学校の方もそんなに行事が立て込んでないから、タイトなスケジュールを組む必要もないし……と。来週の土日はちょうど連休だから、その前の金曜あたりがいいんじゃないかな。怨霊どもも選挙前に片がついた方がいいだろうしさ」

「怨霊ども、ですか」

 神代冴子の言葉尻をとらえ、幻丞が笑いを浮かべた。

「そ。怨霊ども、だ」

 神代冴子もまた、ニヤリと笑った。


3.廃工場への侵入

 金曜日の午後8時を少し回った頃、慈光電機・廃工場の裏門前に一台のベンツMクラスが停車し、作務衣姿の男女が降り立った。神代冴子と幻丞であった。
 裏門は正面入り口にある大きなスライド型門扉ではなく、一般家庭でも見かけられるような、乗用車一台が通る程度のサイズの観音開き扉であった。

「ここから入るんですか。しかしそれにしても、早くないですか。まだ宵の口ですよ。もっと遅くなってからでもよかったのでは。人目もありますし」

 幻丞が腕時計を見て言った。

「時間は関係ないと思う。あいつらが用があるのは私たちだけのはずだから、真っ昼間だったとしても、中に入ったら邪魔は入らないだろ」

 廃工場の建物を見上げ、神代冴子は言った。

「まあそうですね。さっきまでガッチリと結界が張られていたのに、今はさっさと入れと言わんばかりに何もない。私たちが中に入ったら、すぐに結界が元通りに張られるんでしょうねえ。──それじゃお嬢、これをどうぞ」

 幻丞はベンツの後部座席に置かれていた暗視ゴーグルを神代冴子に手渡した。自らも頭に装着する。

「ここから入ったらすぐに工場の作業施設です。正面玄関から入ると事務所を通ることになりますので、こちらからの方が手っ取り早いかと」

「わかった」

 暗視ゴーグルを装着しながら、神代冴子が応える。

「ところで、ここに停めていて大丈夫ですかね」

 ベンツのドアをロックした幻丞が不安げに言った。

「何が」

「路駐が」

「あー、それな」

 神代冴子はうなずいた。

「路駐食らったらヤバいんで、私はS2000に乗って来なかったんだけどな」

「お嬢。それはあんまりじゃないですか」

「うだうだ言ってないで、行くぞ」

 そう言って神代冴子は裏門の門扉に手をかけた。あわてて幻丞も手伝う。門扉はなんの抵抗もなくガラガラと音を立てて開いた。人一人通れるぐらいまで開けて、神代冴子と幻丞は素早く中に入った。

「作業施設は3階建て分ぐらいの吹き抜けになっています。その中に機械だのプラントだのがごちゃごちゃと迷路のようになっています。建屋外の階段から上に行ってそこから入り、降りて行きながら進もうと思っていますが」

 建物外側のスチール階段を見上げて、幻丞が言った。

「わかった」

 神代冴子は短く答えて、懐から独鈷杵を取り出した。

「ではまいりましょうか」

 幻丞もまた懐から独鈷杵を取り出し、スチール階段を登り始めた。
 まもなく階段の最上段というところで、幻丞が立ち止まった。ほぼ同時に神代冴子も歩みを停め、最上段の踊り場を見上げた。

「お出迎えのようですよ」

 幻丞は言った。
 幻丞と神代冴子の視線の先、階段最上段の踊り場に、作業員姿の男が立っていた。男の頭から胸のあたりまで、ぺしゃんこにつぶれている。男がどんな死に方をしたのか、容易に想像できた。

「失礼しますよ」

 階段最上段まで上がった幻丞は凄惨な姿の亡霊にそう声をかけ、作業施設に入るドアを開いた。神代冴子もそれに続く。

 作業施設に一歩踏み込んだ瞬間、叩きつけるような妖気が二人を襲った。
 二人をピンポイントで襲ったわけではない。たとえるなら、冷房の効いた室内から炎天下の外に出たようなものであった。

「こりゃすごいですね」

「それなりだろうとは思ってたけど、それ以上だな」

 作業施設はざっと学校の体育館ぐらいの大きさで、中央部分には二つの吹き抜けがあった。吹き抜けの大きさは5メートル四方ほどで、その周囲をぐるりと取り囲むように、金属製通路が設置されていた。通路には様々な作業機械や部品棚が置かれ、小規模な作業スペースにもなっているらしい。神代冴子たちが入った3階部分と1階部分、その間にもう一段、2階に相当する部分に同様の通路があるようであった。
 通路の各所には上下をつなぐ階段があり、さらに、通路の真ん中に開いた1メートル四方の穴に鉄のはしごが取り付けられ、真っ直ぐ下に降りられるようにもなっている。作業施設内は、さながらからくり屋敷の様相を呈していた。必要があってこうなったのではなく、拡張と増設を続けた結果、こうなったのであろう。
 だが、二人が「すごい」と思わず言ったのは、そのことではなかった。
 作業施設内には、亡者の気配が充満していた。
 のみならず、うすぼんやりと、あるいは明確に姿を現して、神代冴子たちの様子をうかがっている。

「期待されてるようですよ」

 幻丞が軽口を叩くと、神代冴子は肩をすくめて、

「ご期待に添えるかどうかはわからんけどな」

 それを聞いた幻丞は、声は上げず、皮肉っぽく口の端を歪めてかすかに笑った。

「ではまいりますか」

 幻丞が言い、足を踏み出して神代冴子と幻丞が中へ進もうとした瞬間、二人の身体に軽い衝撃が走った。

「つ……!」
「ち、」

 神代冴子と幻丞の全身に一瞬で緊張がみなぎり、二人は独鈷杵を構えた。お互いの背中を合わせ、周囲からの攻撃に備える。
 衝撃は二人を襲ったものではなかった。また、二人のような能力者でなければ気づかないようなものであった。
 二人が感じた衝撃は、あえて言うならば、冬の静電気のようなものであった。
 あたりにいた亡霊どもも、うろたえたのか姿を隠した。

「なんなんですかね、今のは。ちょっとピリッと来ましたね」

 幻丞が言う。

「先制攻撃って感じとも違うようだけど……せっかくだからお返しをぶっ放すか?」

 神代冴子はそう言って、右手に持っていた独鈷杵を左手に持ち替え、右手は人差し指と中指をそろえて伸ばし、他の指は硬く握り込んだ。
 タイミングを合わせる必要はなかった。あうんの呼吸で、二人は右手で九字を切った。
 横、縦、横、縦……
 「臨」「兵」「闘」「者」「皆」「陣」「裂」「在」「前」
 唱え終わると同時に、左手の独鈷杵を突き出した。
 つい先ほど二人が感じたものとはまた異なる衝撃が、作業施設内に走った。先ほどの衝撃が冬の静電気であるなら、二人が発したのは霊的な衝撃波と言ってもよかった。言うまでもなく、どちらも常人にはまったく感じられないものであった。
 ざわついていた作業施設内の雰囲気が、一瞬で静まりかえった。

「手応えあり……といったところですかね。なんだったんでしょう、今のは」

 あたりを見回し、幻丞が言った。神代冴子はそれには応えず、むずかしい顔をしていた。

「お嬢? どうしました?」

 その声で、神代冴子はようやく我に返った。

「ああ、いや、今の感じ、なんかどこかで同じようなことがあったような気がして……どこだったかな」

「お嬢は、この手の退魔行は数え切れないほどやっているでしょう。いちいち覚えていられないのでは」

 幻丞は言ったが、神代冴子は納得していない風であった。

「いや、連中が発する気はわかる。恨みとかこの世への未練とか、まあそんなのだから。──でも今のは違ったろ」

「そう言われれば」

 はっとした顔で、幻丞が言った。

「まあいい。行こう。──いや、その前に」

 神代冴子は言って、装着していた暗視ゴーグルをむしり取った。

「これ、いらんだろ。怨霊どもにはこんなもの関係ないし、かえって邪魔だ」

「それもそうですねえ」

 苦笑いを浮かべ、幻丞も暗視ゴーグルを外した。

「でも、その分、暗さには注意してくださいよ」

 そうして、二人は歩き始めた。


4.うごめく怨霊たち

 大型の工作機械や部品棚の間を通り、作業区内を進む。機械の陰、棚の間などに、亡霊がたたずんでいたり、座り込んだりしている。
 二人が作業区内に二つある吹き抜けのそばまで来たとき、吹き抜け部の天井に設置されたクレーンが作動した。奇妙なことに、作動音は何一つしない。
 音は立たなかったが、クレーンが作動した瞬間、神代冴子も幻丞もすぐにクレーンに目を向けた。
 天井に設置されたクレーンは、太いチェーンを巻き取ってゆく。何かが上がってくると予想がついた。
 やがてクレーンの末端が見えてきた。チェーンの先には、?マークのような大きなフックが取り付けられていた。
 フックに、作業服姿の中年男がぶら下がっていた。あごの下に突き刺さったフックが左目部分から突き出している。押し出されて視神経で繋がった眼球が、ほおのあたりで揺れている。
 あごや左目部分からの出血が、男の胸元から下半身までを真っ赤に染め上げていた。
 ぶら下がった状態でビクンビクンとけいれんしている男を、神代冴子と幻丞が見つめていると、やがて顔の骨と肉が体重を支えきれなくなったのか、伸びながら裂けて、男は階下へ落ちていった。1階まで落下したはずだが、床に叩き付けられた音は聞こえなかった。






 ため息を一つつき、神代冴子と幻丞は先へ進んだ。
 前方に、円筒形の薬品タンクらしき物体が、横向きに設置されていた。直径が2メートル、長さが4メートルといったところか。薬品の注ぎ口か、上部に蓋らしきものがある。「晶化バリニウム液タンク 劇薬注意」と赤い文字で書かれている。書かれているのが薬品名であることはわかったが、それがどのようなものなのか、神代冴子も幻丞も、さすがにわからなかった。
 タンク上部から、何かが転げ落ち、二人の足元に転がった。タンクの蓋を固定しているボルトのようであった。
 二人が蓋を見つめると、他のボルトも次々に緩み、床に落下した。
 タンクの蓋が、潜水艦のハッチのように開いた。
 注ぎ口の内側から手が現れ、縁に指をかけた。もう一つ手が現れ、同じように縁に指をかける。何者かが、タンクの中から外に出ようとしていた。
 やがて姿を現したそれが人間だと判断出来たのは、神代冴子と幻丞であったからに他ならない。
 タンクの注ぎ口から這い出てきた粘液まみれのそれは、タンク本体にへばりついて、ズルズルと床に落下した。
 人間の形をした、赤黒い色をしたモズク。
 それをあえて形容するなら、そうなる。
 晶化バリニウムなる薬品の作用で、全身がドロドロに溶解しているのだった。
 床にわだかまったモズクが、ゆっくりと這いずる。モズクは床に開いた階下へのはしごにたどり着き、はしごを下りて、あるいははしごにまとわりつきながら、下へと落ちていった。

「光る通り魔……」

 モズクを見つめていた幻丞がポツリとつぶやいた。

 薬品タンクの横に、2階へと下りる階段があった。
 二人はそこから下へ降りていった。



 2階に下りると、そばに大型の加工機械らしきものがあった。中央に大きな回転ドラムがあり、ゆっくりと回転していた。何かをプレスするのか伸ばすのか、小型のロードローラーが床に固定されているようなものであった。右端に操作パネルがある。
 操作パネルの前に、長い髪の若い女性が立っていた。
 女性は操作パネルの前を離れ、回転ドラムの前に立った。上半身を傾けて、機械の手前部分の作業台に何かを差し入れるような手つきで、女性は両手を回転ドラムに近づけた。
 ふいに、女性が両手を振り回し始めた。押しのけようとしたのか、回転ドラムに触れた右手が巻き込まれた。
 絶叫が作業区内に響き渡った。
 人間がこんな声を出せるのかと思うような、叫びであった。
 これまで何一つ音がしなかった亡霊たちの事故の再現シーンの中、このときだけ、絶叫が再現された。
 女性が上半身を大きく反らし、機械から離れて、そのまま後ろ向きに倒れ込んだ。
 しばらく身動きしなかった女性が、かすかに身じろぎし、ゆっくりと立ち上がった。
 女性は、顔面そのものには損傷はなかった。その代わり、頭髪のほとんどが頭皮ごと回転ドラムに巻き取られ、頭蓋骨が露出していた。おびただしく流れる血液で、顔が真っ赤に染まっている。
 女性が右腕を持ち上げ、不思議そうに眺めた。
 右腕は肘から少し先あたりで、なくなっていた。そこから先は、ボロ雑巾のようになった肉片と、白い骨片がのぞいていた。ずたずたになった傷口から、止めどなく血があふれる。

「あいつを殺して……」

 自分を見つめる神代冴子と幻丞に、女性の亡霊はそう言って、そして姿が薄れていった。
 それを見つめていた神代冴子が、突然身を固くした。

「今の見たか」

「何か明かりが。懐中電灯っぽかったですが、誰かいるんですかね」

 幻丞が応える。
 ほんの一瞬ではあったが、白っぽい丸い光が、二人の視界をよぎったのだった。
 見えたのは、二人がいる場所から少し離れた、階下へ降りる階段付近であった。

「心霊スポット探検のバカは結界があるから入れないはずだが、用心に越したことはないな。──行くぞ」

 独鈷杵を構え、神代冴子はそろそろと階段に向かった。
 作業区の壁に背を付け、階段から距離を取りつつ、階段のそばにある大型工作機械に近づく。
 大型工作機械の陰、階段下から何者かが近づいている気配がわかった。
 息づかいも足音も聞こえない。向こうもかなり用心しているのがわかる。
 大型工作機械の角をはさんだ向こう側に、相手が潜んでいる。
 気。間合い。
 神代冴子は機械の陰から飛び出し、そこにいる何者かに、独鈷杵を振り下ろした。
 同時に、機械の向こう側から飛び出してきた何者かが、身をかがめた状態で、神代冴子ののど元に武器を突き上げてきた。
 機械から飛び出した瞬間に、神代冴子は潜んでいたのが何者か、わかっていた。
 身をかがめて、自分に対して剣を突き上げている人物に対し、神代冴子は言った。

「担任教師をぶった切ろうっての?」

「先生こそ、可愛い生徒を独鈷杵で刺し殺すつもりですか」

 そこにいたのは、黒神由貴であった。少し離れた階段下に、榊真理子もいた。

「君たち、こんなところでなにしてるの」

 幻丞が言った。


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