1.駅での事件
黒神由貴や榊真理子が利用する星龍学園前駅から上り方面三つ目の駅、そこで黒神由貴と榊真理子はそれぞれ別の路線に乗り換える。この駅は上り下りの線路をまたぐ形で駅舎があり、乗降客はいったん階段を上って目的のホームに降りていく構造になっている。3路線がこの駅を通り、ホームは上下合わせて6本の、比較的大きめの駅である。
午後2時。4番ホームに電車が到着し、開いたドアから乗客が降りてくる。
その中にいたOLらしき若い女性の前に、白い長袖シャツにジーンズ姿の、二十代半ばと思われる男が立った。
ほとんど身体を接するぐらいの距離で向かい合う二人を横目で見ながら、他の乗客たちが通り過ぎていく。
待ち合わせていた恋人同士?
そう思った者も、いたかもしれない。
それにしては無言で向かい合っているのは奇妙だと、何人かが感じ始めたとき、女性が脱兎のごとく駆けだした。すぐに男も、意味をなさない叫び声を上げながら、そのあとを追って走り出した。
女性が走った先は階段上り口の裏側であった。回り込んで階段を上がる前に、女性は男に追いつかれ、階段裏のスペースに身体を押しつけられた。
「ぐらぁ!」
「売女」
「思い知れ」
「いい気味」
切れ切れの、単語だけの叫びを上げながら、男は女性の腹部に拳をぶつけた。──否、そうではなかった。
女性の腹部に向けて拳を前後させるたびに、女性と男の足下にどろりとした真っ赤な液体が広がっていく。女性の腹部から噴き出した血液であった。
男は女性の腹部を殴打していたのではなく、刃渡り20センチはあろうかと思われる、凶悪な形状の大型ナイフで女性をめった刺しにしていたのであった。
やがて女性はズルズルと崩れ落ち、横倒しになった。
男はさらに女性の身体をまたいで馬乗りになり、大型ナイフを何度も振り下ろした。すでに女性は身動きしなくなっていた。
その場にいた乗客は、なすすべもなく凍りついていた。
馬乗りになっていた男がゆっくりと立ち上がった。返り血を浴びて全身が真っ赤に染まっている。まわりを取り囲んでいた乗客が1メートルほど後ずさった。
男は自分を恐ろしげに見つめる乗客たちを見回し、にったりと笑った。そして自らの喉元に大型ナイフの刃先を当てると、前方に倒れ込んだ。
ナイフの刃が男の首を突き抜け、うなじのあたりから10センチほども飛び出した。
びくびくとけいれんする男の身体の下から、大量の血液が流れ出す。
そのあまりの凄惨さに、ある女性客は気絶し、またある女性客は失禁し、ある男性客はその場でおう吐した。
しばらくして、駅員が呼んだのであろう警察官が押っ取り刀でホームにやってきたときは、すでにすべてが終わっていた。
榊真理子がこの駅に着いたのは、それから約1時間あまり後の午後3時半頃であった。
星龍学園の帰り道。
今日は黒神由貴は所用があるとかで学園に残り、私だけ先に帰ることになった。
取り立ててなにごともなく星龍学園前駅に到着し、いつも通りの電車に乗って、いつもならそこで黒神由貴と別れるはずの乗換駅に着き、ホームに降りた。
降りた瞬間、微妙な違和感に気づいた。
なんだろう。どうしたんだろう。
ホームに立って、あたりを見回す。
私が感じた違和感の原因は、駅舎や別ホームに行くための階段だった。
私は違和感の元を確認するため(と言えば聞こえはいいが、実質的には単なる野次馬根性である)、階段に近づいた。
階段の裏には人が何人か立てるぐらいのスペースがあり、雨風よけに、そこで電車を待つ人もけっこういる。
そのスペースに、黄色いロープが張られていて、入れなくなっていた。ロープで囲われた部分の真ん中あたり、水で流したような跡があった。
何かあったな……
私は思った。
飛び込みか何かだろうか。
でも、発車時刻表を見ても、遅れとか乱れの表示はない。
んー、ケガしたんだったら、どうぞおだいじに。
もし、──もし誰か死ぬようなことがあったんだったら、安らかに、ナムナム。
手を合わせて軽く拝み、私は乗り換える路線のホームへ行くため、階段を上った。
「真理子、大丈夫だった?」
家に帰ると、母親がいきなりそんなことを言ってきて、私は面食らった。
「大丈夫って、何が」
「あんたがいつも乗り換える駅で、すごいことがあったのよ。ひょっとしてちょうど帰りのときだったんじゃないかと思って」
「すごいことって?」
と私が訊くと、母親は微に入り細をうがって説明を始めた。
さっき、私がしげしげと眺めた階段裏スペース、あそこでなんと、殺人事件があったのだという。
ずっとストーカー被害に遭っていたOLが駅のホームで待ち伏せを受け、逃げ回ったが結局、階段裏スペースに追い詰められて、そこでめった刺しにされ、ストーカー自身も自分の喉を突き刺して自殺したのだという。
「こわー。それでなんか駅がざわざわしてたんだなー。てっきり飛び込みか何かだと思って、手を合わせて拝んじゃったよー」
それから、夕方から夜まで、ニュースのたびにその事件が話題になっていた。
そりゃそうだよな。
2.ぞわぞわとすることがいろいろと
今さら、という気もするのだが、私の盟友である黒神由貴は、なんと言えばいいか、不可思議なものや出来事に縁がある。だけではなく、黒神由貴自身、いろいろと普通ではない能力があるようだ。
ようだ、などとあいまいな表現にしてしまったが、私自身が黒神由貴と行動を共にして見たり体験したりしているので、否定のしようもない。ないのだが、「普通ではない」とか「超能力を持ってる」とか、そんな言い方は避けたいわけだ。だって、ぱっと見には普通の女の子だもんな。頭に角が生えてるとか、そんなんじゃないもんな。
いつからこうなったのかとか、小さい頃からなのかとか、そんなことは一切聞いていない。いやだって聞きにくいじゃん、そんなこと。
それに最近は、黒神由貴とずっとつるんでいる影響で、私も「そっち方面」に目覚めつつあるらしいなどと言われたものだから、正直、それどころではないのである。
もしそうなったら、見たくないものとか見るはめになるんじゃないの?
──と、そんなことを軽く悩んでいたある日のことであった。
星龍学園からの帰り、黒神由貴と二人、星龍学園前駅構内に入りかけたところで誰かの視線を感じた。視界の隅にこちらをうかがっているような人影が見えた。
いきなりガバッ! と振り返って背後を見るのもおかしな気がして、私はほんの少しだけ頭を動かし、視線だけ思いっきりそちらに向けた。
私の右斜め後ろ、数メートルほど離れたところに、ぼおうっとした雰囲気の男性が立っていた。
……ような気がしたのだが、人が立っているのを見て、はっきりと姿を見ようとして身体全体で振り返ると、誰もいなかった。
駅前だから当たり前だが、乗り降りする大勢の人がいる。だが男性が立っていたはずの場所には誰もいず、この時刻だと、いるのは私たちと同じ星龍学園の生徒か、買い物に出かける人たちばかりだ。そんな人たちと見間違えるほど、私は目は悪くない。
ところで、その男性。
確かにいたと私は自信を持って言えるのだが、ではどんな感じだったか、年格好は、髪型は、服装は、と訊かれたら困っただろうと思う。本当に、まったく、なんにも、覚えていないのだ。その男の人、今見たにも関わらず、驚くほど印象がないのだった。
いや待て。
一つだけ、印象に残っていることがあるのを、私は思い出した。
その男性は赤い服を着ていた。ごく普通の長袖シャツだが、真っ赤な色のシャツ。それだけは記憶に残っている。
「どしたの?」
私がまわりをきょろきょろと見回しているのに気づき、黒神由貴が訊いてきた。
「いや、なんか誰かに見られてたような気がしたんだけど……よくわかんない」
結局、何かの勘違いなのかなんなのかわからないまま、乗換駅で黒神由貴と別れた。
我が家最寄り駅から商店街を抜けて、家の鍵を開けようとしたとき(誰かが在宅しているといないとに関わらず、我が家は常に施錠するようにしている)、またしても見られている感覚を感じた。
右手にキーを持ったまま、あたりを見回す。
何もいない。
──いや、いた。
ただ、それは人間ではなかった。
少し離れた場所にある3階建ての戸建て住宅、その屋根に、カラスがとまっていた。
離れているから絶対にそうだとは言い切れないが、そのカラスが私を見ているように思えた。
(気持ちわるっ)
ぶるっと身震いして、あわただしく鍵を開けて玄関に入る。
玄関に入ると、今日の晩ご飯のメニューであろうカレーの香りが充満していた。あまりに美味しそうな匂いで、たった今の奇妙な出来事は頭から消え去っていた。
バカですかそうですか。
それから数日した頃。
今度もやはり、星龍学園からの帰り、星龍学園前駅でのことだった。
私と黒神由貴が駅舎への階段を上りきって改札を抜け、ホームへの階段を下りようとしたとき、黒神由貴が私の腕を握り、私が進むのを止めた。
「?」
どうしたのかと振り返った私の肩をかすめて、カツカツとヒールの足音を立てながらOLっぽい女の人が通り過ぎた。驚いて思わずその人を見ると、そのOLさんはスマホを凝視し、ごていねいにイヤホンまで装着していた。黒神由貴に腕をつかまれないでいたら、ぶつかって、けっこう危ないことになっていたかもしれない。
OLさんは私とぶつかりかけたことなどまったく気づいていない様子で、スマホを凝視したまま階段を下りていった。
「あっぶねーなあ。何かあっ」
何かあったらどうする、と私は最後まで言えなかった。
カツカツカツという足音が突然乱れ、悲鳴と、何か大きな物体が転げ落ちるような音に変わったからだ。
たった今ぶつかりそうになって私たちのそばを歩き去って行ったOLさんが、階段を踏み外して転げ落ちた、とすぐにわかった。
私と黒神由貴は顔を見合わせ、階段を下りようとした。
そのとき。
──まただ。
また、あの視線。
階段を下りようとした体勢で、私は背後を振り返った。
改札の向こう側、ぞろぞろと行き交う人たちの中、ぽつんと立っている人影があった。
前にも見た、存在感の薄い、赤シャツの男性だった。
「──真理子?」
動こうとしない私に気づき、黒神由貴が声をかけた。
「あ、うん。えと」
と生返事をして、私は「存在感の薄い男性」から目をそらして黒神由貴に顔を向け、すぐにもう一度男性がいた場所に目をやった。
そこに男性の姿はなかった。消えていた。
黒神由貴は私の目線の方向と私を交互に見て、いぶかしげな顔をした。
「真理子?」
もう一度、黒神由貴は言った。
「あ、うん。行こ」
私は言って、階段の降り口から下を見た。
OLさんは、階段を下り切ったところに倒れていた。そのそばに液晶画面が砕けたスマホが転がっていて、一目で再起不能とわかった。いや、OLさんじゃなくてスマホの方が。
OLさんの方は「痛い痛い」と声を上げているので、幸い、頭は打っていないようだ。血まみれスプラッターな状況を見なくて済んで、ほっと胸をなで下ろす。
すでに駅員さんが担架に乗せようとしているのがわかったので、私と黒神由貴はゆっくりと階段を下りていった。階段の中ほどで、OLさんを乗せた担架とすれ違う。
「……大丈夫かな、今の人」
担架を目で追いながら、黒神由貴が言った。
「頭は打たなかったみたいだから、命に別状はないんじゃないかなー。打ち身か、最悪どっかの骨は折れてるかもしれないけど」
私は言った。
電車の到着を知らせる音楽とアナウンスがホームに流れ、私は無意識に電車がやってくる方向に目をやった。
電車の電気の線、それを支える細長いジャングルジムみたいな鉄柱、そこのてっぺんに、真っ黒な鳥がとまっていた。大きさからしてカラスだと思う。
また、カラスだ。
みぞおちのあたりが、ずうんと冷たくなった。
何度かまばたきしてみたが、「存在感のない男性」のように消えたりはしなかった。
あのカラスは本物で、確かにあそこにいる。
そして、私をじっと見つめている。