3.黒神由貴が心配なので
翌日。2時間目が終わった休憩時間、私が退屈しのぎに携帯でネットを見ていると、桑原マドカが声をかけてきた。
「あの、真理子さ、今、くろかみとケンカしてる?」
まわりを見回しながら、桑原マドカは声をひそめて、とんでもないことを言い出した。
黒神由貴は、トイレにでも行っているのか、席にはいない。そのスキを狙って私に声をかけてきたわけか。
「してないよー。なんで?」
「いや、なんつか、くろかみがあんたのことにらんでたみたいだったから。こーんな目で」
と、桑原マドカは自分の両目尻に指をそえて、目をつり上げた。
ああ、と私は頭の中で納得した。
黒神由貴がときどき見せる、例の鋭い目つきだ。
「ないないない。マドカの気のせいだって。昨日もいっしょに帰ったもん」
「そうなん?」
そのとき、黒神由貴が教室に戻ってきた。桑原マドカはそそくさと私から離れて自分の席に戻った。
さて、と私は考える。
何かあった、あるいは何か妖しいものがいたときでないと、黒神由貴は鋭い目つきはしないはずだが、何があったのだろう?
やはりあの、存在感のない赤シャツ男が関係しているのだろうか。あいつが黒神由貴にまとわりついているから、黒神由貴は鋭い目つきをしているということか。
神代先生やお祖母様が言うように、黒神由貴の影響を受けて私にも「そういうもの」が見えるようになってきたから、あいつに気がついたということか。
だったらやっぱり、黒神由貴にちゃんと言っておいた方がいいんじゃないか。
黒神由貴に話を聞くのは聞くとして、別の人にも聞いておいた方がいいかも、と私は思った。
別の人──言うまでもなく神代先生である。
帰りのホームルームが終わって教室を出た神代先生を捕まえた。
「先生。ちょっと相談したいことが」
私がそう言うと、神代先生の顔色が変わり、私に顔を寄せてきた。
「……生理が遅れているんだったら、私よりも保健室の柳葉先生に言った方がいいわよ。親身になってくれるし、口が堅いから」
「ちーがーいーまーすっ! 何言ってんですか!」
「なんだ違うの。榊さんも隅に置けないと思ったんだけどな。じゃあ何」
期待はずれと言わんばかりの顔で、神代先生は言った。
「……先生は、何か得体の知れないヤツにつけ回されたり、狙われたりすることって、ないんですか」
さっきとはまた別の雰囲気で、神代先生の顔色が変わった。
「えらいまた、ストレートな質問ねえ」
「神代先生ぐらいだったら、たいていは向こうの方が怖がって寄ってこないんでしょうけど、それでも、しつっこく近寄ってきたら」
「……それって、人間の話じゃないってことよね?」
少しだけ小声で神代先生は言い、私はうなずく。
「まあ、普通に引導を渡すわね。わかりやすく言えば、ぶちのめす」
ああ、神代先生だったらやっぱりそうするだろうな。聞くまでもなかったか。私は心の中で苦笑いする。
「でも、普通はそんなにしつこくまとわりついたり、害になるようなことはしないから、こっちが無視していれば、どっか行っちゃうけどね」
「そうなんですか」
ちょっと意外だったので、妙に感心してしまった。
「で、なんでそんなことを? 何かあったの?」
いぶかしげな顔で、神代先生は私を見つめた。
「いえいえいえ。ふと思っただけで。ありがとうございました」
「ほんと? いい? 何かあったら保健室の柳葉先生に」
違うっちゅーのに。
その日の帰り道。もちろん今日も黒神由貴と二人だ。
お茶につきあってもらうことにして、コンビニで適当なドリンクを頼み、店頭のテーブルセットに座った。
「……くろかみさあ。変なものにまとわりつかれたりすることって、ないわけ?」
熱いカフェオレをちびちび飲みつつ、私は訊いた。「得体の知れないヤツがあんたのことを狙ってる」などといきなり核心的な話はしないで、遠回しに言ってみることにした。
「まあ、そういうことがないこともないけど……なんで?」
ミルクティーを飲みながら、黒神由貴が答える。
「なんつーか、怖い思い……は、あんたの場合はないだろうけど、危ない目に遭ったりとかさー。いっつも呪符を持ち歩いているわけでもないんでしょ?」
「そうだなあ」
と言って、黒神由貴は少し思案気な顔をした。どう説明するか考えている風であった。
「基本、あまり気にしないようにしてるかな。と言うかね、むしろ気にすることによって向こうがね、自分という存在が注目されていると気づいて、ますます寄ってくるようになったりね。だからまあ、見て見ぬふりするのが一番無難じゃないかな。最悪の場合は、なんとかするけどね」
私は一瞬、目を見開いた。神代先生も同じことを言っていた。
「そうなんだー。──でもさ、偶然に出遭ったとかじゃなくてさ、何かこう、相手側が意図的に狙ってきたらまずいんじゃないの?」
「そんなときはわかるから。こっちに敵意が向かってくるからね」
そう言ってから、黒神由貴はいぶかしげな顔をして私を見た。
「何かそういうことがあるの?」
「いやいやいや、そうじゃなくて、一般論一般論」
逆に黒神由貴が訊いてきて、私はあわてて否定した。黒神由貴自身が「気にしないようにしている」のなら、あえて教える必要もないかもしれない。なんたって、経験と実績は黒神由貴の方が圧倒的なんだから。
「ほんとにー? 何かあるんだったら、ちゃんと言ってよね。私だけでダメだったら神代先生にも、危ないっ」
突然、黒神由貴は叫んで私の腕をつかみ、自分の方へ引っ張って、引きずり倒した。黒神由貴自身も、いっしょに倒れ込んだ。
ほぼ同時に、何か大きなものが私のすぐそばを通り過ぎて行き、とんでもなく大きな破壊音が響いた。
コンビニ前に停まっていた車が、何をどう間違えたのか、店に突っ込んできたのだった。車はちょうど私が座っていたあたりを通過していた。もし黒神由貴が腕を引っ張ってくれなかったら、死なないまでも、それなりのケガをしていたのは間違いないところだった。
コンビニ前にへたり込んで呆然としている私と黒神由貴のまわりを取り囲むように、野次馬が集まっていた。
その中に、またあいつがいた。存在感の薄い、赤シャツ男が。
そいつの姿形をはっきりと頭に焼き付けようと目をこらしたが、またもやふうっと消えてしまった。
そして、何か黒いものが視界のはしに見えたような気がして、私は顔を上に向けた。
また、あいつがいた。存在感の薄いあいつとは別のあいつ。真っ黒なカラスが、コンビニの屋根に止まって、私を見下ろしていた。
ヤバいんじゃないのか。これは本当にヤバいんじゃないのか。
黒神由貴は何かヤバいやつに狙われているんじゃないのか。
だって、こないだから、だんだん危なさが増してるじゃないか。
気にしないでいたら、それでいいのか。
黒神由貴に、あの赤シャツ男のことを教えてやらなくていいのだろうか。
救急車とパトカーのサイレンが近づいてきた。
4.人の心配していたら
その後、大騒ぎにはなったものの、私や黒神由貴を含め、ほとんどの人は軽い打ち身とかすり傷で済んだらしい。運転していた人(60代の女性だった)もシートベルトとエアバッグのおかげで無傷だったそうだ。
ただ、パトカーに乗せられて行ったので、怒られるんだろうな。「ちゃんとバックにして動かした」とパトカーに乗せられる前に叫んでいたが、どうなんだろう。前方向に急発進したのはみんな見ているし。ニュースでよく見るみたいに、アクセルとブレーキを間違えたとか、そんなのじゃないのかなあ。
警察の人に被害届を出すかどうか訊かれたが、私も黒神由貴もちょっとすりむいたぐらいだし、出さないことにした。警察での事情聴取は簡単なものだったし、頭を打っていたらCT検査だのなんだので時間がかかったかもしれないけど、私も黒神由貴も少しひざやひじをすりむいた程度だったので、すぐに解放された。
なのに、母親や父親から、明日は休むようにと厳命されてしまった。大げさだ、と抗議したが、別に皆勤賞を狙っているわけでもないので、素直な娘を演じることにした。
学園への休みの連絡は明日入れることになり、その夜、私は黒神由貴にTELした。
「明日、休めって言われちゃった。どこも痛くないんだけどねー。そっちはどお」
『うちは何も言われなかったから、普通に登校することになると思うけど』
「残念。くろかみの方も休めって言われてたら、どっかに遊びに行こうと思ったのに」
私がそう言うと、黒神由貴が声を上げて笑った。
『補導されたらどうするのよ』
「制服着てなきゃ大丈夫だと思うけど? まいっか。寝込むような体調じゃないんだし、どっか遊びに行ってくるわ」
『どこに行くつもり?』
黒神由貴が訊いた。
「全然考えてない。我ながら、一人でぶらつくあてがないってのも悲しいね。──なんで?」
私が聞き返すと、黒神由貴は一瞬、返答に詰まった。……ように思えた。
『あの、えっと、もし原宿に行くんだったら、ジャリンズのショップでフィギュア頼もうかなって』
「あんたジャリンズのファンだったっけ。誰のフィギュア?」
『えっと』
再び、黒神由貴は返答に詰まった。
『誰でもいい。えっと、岡松クン』
「岡松クンはジャリンズじゃなくてKYOTOだし」
『岡松クンのフィギュアは売ってないかな』
「事務所が同じだから、置いてるとは思うけど……まあ了解。ポーズとかはなんでもいい?」
『うん、どうでも……じゃなくて、なんでもいい。ありがと。お願い。──あ、あと何時頃行く?』
「特に決めてないけど……たぶん、お昼食べてからかなあ」
その後、代金はあさって星龍学園で、とか、こまごましたことを話して通話を終えた。携帯を机に置いて、私はなんとなく首をかしげる。
黒神由貴がアイドルに興味を示したことって、今までにあっただろうか。
しかもあいつ、「どうでもいい」って言いかけて、あわてて言い直したけど、どういうことなんだろう。
もしかしてあいつ、何かたくらんでる?
原宿駅
で、翌日。
朝はパン、お昼は買い置きのカップ麺で簡単に済ませて、家を出た。
電車に乗って、まっすぐ原宿に向かった。
黒神由貴からの頼まれものを最優先にしたわけではなく、結局これといって行く先が決まらなかったのだ。じゃあもう、黒神由貴に頼まれたもの買って、あとは適当に原宿にあるショップをうろつこうと決めた。
電車や路線を何回か乗り換えて、原宿到着。
平日にこういうところを私服でうろうろするのって、悪いことしているわけでもないのに、妙に緊張するなあ。それにこの人出。
営業マン営業レディっぽい人ももちろんいるが、どう見ても仕事じゃなくて遊びだろ、という格好の人も大勢いる。歳も、私とタメかそれよりも低いような女の子がぞろぞろ歩いている。
あの子たち、学校は? などと思わず小姑めいたことを考えてしまう。
まあともかく、ジャリンズ・ショップへ急げ。
原宿駅表参道口から歩いて5分ほどのビルに、ジャリンズ・ショップはある。ある程度予想はしていたが、やはり店先も店の中も、女の子たちであふれかえっていた。見た感じ、入場制限はしていないようだ。混雑具合によっては入場制限することもあるらしいので、ラッキーだった。
ジャリンズ・グッズを買い求める女の子たちは、ファンシーなファッションだったりセーラー服姿だったり様々だ。セーラー服姿の子は、修学旅行か何かの自由時間なんだろうな。
見ていても仕方ないので、店内に突入する。
グッズはアイドル・グループごとに分けられているので、黒神由貴が指定したKYOTOの岡松クンのフィギュアはすぐに見つかった。ついでに、自分用に携帯ストラップなんか買ったりして、店を出た。
店を出て、紙袋から携帯ストラップを取り出して、ちょっと眺める。
──案外いい買い物したかも。
と、にへっと笑いを浮かべたとき、背中をどんっと叩かれた。突き飛ばされた、と言った方がいいかもしれない。
勢いで2、3歩ほど前にのめったが、なんとか転ばずに立ち直り、振り向いた。
セーラー服姿の女の子が、怒りの形相で私をにらみつけていた。
「岡松クンのフィギュアば買(こ)うてバカんごと喜ぶんじゃなかとよ!」
女の子は叫んだ。友達なのか、同じデザインのセーラー服の子が、そばでおろおろしている。
「しおりー、あんた暴風雨の梅井クンのファンやろ? あん人が岡松クンのフィギュアば買(こ)うたからって関係なかやなかね!」
「やかましか! 梅井クンのグッズば買(こ)うて良かとはあたしだけよ!」
いや、だから、私が買ったのは岡松クンのフィギュアなんだけど。とか、そんな反論が言える状況ではなかった。
怒りの子は反論を冷静に聞ける状態とは思えないし、私の方も、びっくりしすぎて目が点になってしまっている。
原宿の人気ショップの前、通行人は山のようにいるのだが、その人たちも、何が起こっているのか理解できないようで、びっくりした顔で私や怒りの子を眺めている。私もあの人たちみたいに呆然とした顔をしているんだろうな。
「しおりーしおりー、やめんね-、どがんしたと-、先生に怒られるばいー」
友達の子が、怒りの子の腕を取って半泣きでそう言ったが、怒りの子はそれを振り払った。
「うらああ!」
怒りの子は、肩から提げていた自分のポシェットを私に投げつけてきた。ポシェットが私の肩のあたりに当たった。小さなものだったので痛くもなんともなかったが、あまりの不条理さに、気味が悪くなってきた。
非難覚悟で言うなら、アブナい人ならば、まだ理解できるし、関わるとまずいのはわかるので、すぐに逃げる。でも今、私の目の前で激怒している女の子は、さっきまで普通にジャリンズ・ショップで買い物していたはずの子だ。普通の中学生か高校生っぽいし、普通に学校に行っている子だろう。友達の子の様子からしても、さっきまでは普通であったらしいとわかる。
じゃあなぜ急に、何かに取り憑かれたように。
取り憑かれた。
ふと浮かんだ言葉が強烈に頭を揺さぶり、そのときになって、私は怒りの子のそばに立つ人物に気づいた。
今やすっかりおなじみ、存在感の薄い、赤シャツ男であった。
あいつ。もしかして、あいつが女の子をあやつっているのか。
だったら、女の子が突然、狂ったような行動をとったのも理解できる。
なんてしつこいヤツなんだろう。こんな所にまで、黒神由貴をつけ狙って。
と、そんなことを考えて義憤に駆られかけたとき、私はとんでもないことに気づいてしまった。
今日、今、私は単独行動していたのだった。あいつが黒神由貴を狙っているのなら、星龍学園にいるはずだった。
つまり
あいつに狙われていたのは
私だ