5.援軍到着
これまでに起きた星龍学園駅やコンビニ前での事故、そのたびに見かけた存在感の薄い赤シャツ男、そんなこんなが頭の中を駆け巡った。
あれはみんな、こいつがやったことだったんだ。
怒りの子は、なおも何かわめき散らしているが、元凶がわかった以上、その子のことはもうどうでもよかった。こいつさえなんとかすればいいんだ。
それはわかっているんだが、じゃあどうすればいいのか。
私は、回線状態の悪いネット動画のように、ときおり輪郭の崩れる赤シャツ男をにらみつけながら、どうするか考えていた。
──まあ逃げるしかないだろうな。
そう思ったとき、「ギャアッ」という叫び声が聞こえた。同時に赤シャツ男の輪郭が大きく崩れた。
なんだ今の声。
私はまわりを見渡した。ビルの壁から突き出した看板に、あのカラスがとまっていた。今の声は、あいつの鳴き声だったのだ。
このややこしいときに、あいつまで。
焦った私のそばを、何か白いものが飛んでいった。
白い何かはまっすぐに赤シャツ男に向かっていき、命中した。
輪郭が崩れかけていた赤シャツ男は、ふうっと消えた。
怒り狂っていた女の子が、身体の芯が抜けたように、くたくたとその場に倒れ込む。そばでうろたえていた友達の子が、泣きじゃくってしがみついた。
あっけにとられてそんな状況を見ていると、誰かが私の肩を強くつかみ、叫ぶように言った。
「何ぼけっとしてるの! 行くよ!」
驚いて振り向くと、そこに黒神由貴と神代先生がいたので、二度驚いた。
「くろかみっ! 先生も! なんで?」
「説明はあと。とにかく走って!」
事態が理解できないでいる私の肩を叩き、神代先生が言った。
走り出した黒神由貴と神代先生のあとを追って、私も走り出す。
「どこに行くんですか?」
「明治神宮っ!」
なんでまたそんなところへと思ったが、のんきに質問できる雰囲気ではない。
明治神宮は山手線をはさんで、賑やかな竹下通りとは反対側になる。黒神由貴と神代先生は原宿駅南参道口にある歩道橋を駆け上った。私も続く。駅前には幅の広い横断歩道もあるが、信号待ちの時間も惜しいということなのだろう。
山手線を越え、明治神宮敷地に入る。このまままっすぐ本殿を目指すのかと思ったら、南門を抜けずに左にそれ、ほとんど人のいない方へ二人は向かった。ずっと先まで、明治神宮の林が続いている。
と、黒神由貴と神代先生が走るのをやめた。
「ここでいい」
神代先生は言って、ふうっと息をついた。
「やっぱり地道は走りにくいわ。ローファー履いてきてよかった」
「……この中だったら、あいつは入ってこられないんですか。というか、さっきの白いので、くろかみがやっつけたんじゃ?」
あの赤シャツ男から逃げるために神社に入ったのかと思い、私は訊いた。
「呪符でちょっと時間を稼いだだけ。ここは結界的には、あまり期待できないわね。まあ聖域は聖域だから、気休めにはなるかなあ。こっちに来たのは、人目につかないから」
神代先生が言った。
「で、なんで二人がここにいるわけ?」
と、これは黒神由貴に訊いた。
「詳しいことは、あとで説明するわ。今はこっちの問題が先」
黒神由貴は言って、入ってきた南門の方を見た。桑原マドカ言うところの「こーんな目」になっている。黒神由貴の鋭い視線の先に、赤シャツ男がいた。
「真理子。ちょっと確認。あいつが見えるのね?」
赤シャツ男を見つめたまま、黒神由貴が言った。
「あ。うん。あんまりはっきりしないんだけど。ぼやけたり、消えかかったり」
「なるほど、そういう感じなのね。わかった」
何がなるほどなのか、黒神由貴はうなずいて言った。
「あのね真理子。あいつのことをはっきり見ようと思わないで。よく見えないものを見ようとするんじゃなくて、いるのかいないのかはっきりしないものを見ようとするんじゃなくて、そこにいるのを前提で、いるはずのつもりで見てみて」
むずかしくてよくわからないことを言う。
「それでね、あいつの方からいやな感じが感じられたら、それをぶつけ返すつもりで。あいつのせいで、今まで何度も危ない目に遭いかけたんだから。何人も怪我人が出たんだから」
気味の悪い雰囲気だったら、感じるつもりがなくても、さっきからいやでも感じている。
そうだ。私や黒神由貴は危ないところで助かったものの、怪我をした人はけっこういるんだからな。
ざけんじゃねーぞ!
これまでの事故のことを思い返し、私は赤シャツ男をにらみつけた。
ピピッ
実際にそんな音がしたわけではないが、オートフォーカス・カメラがピントを合わせたような感じで、どうにもはっきりしない状態だった赤シャツ男が、はっきりと見えた。
服のシワ。ボタン。男の表情。
そんなのがくっきりとわかるようになって、わかりたくもないことまで、はっきりと見えてしまった。
男の喉元、ちょうど喉仏のあたりに、横長の傷が口を開いていた。
それで、私は自分の思い違いに気づいた。
男が着ていたのは赤シャツではなかった。
首からの大量出血によって、元は白かったシャツが真っ赤に染まっていたのだった。
シャツを染めた血は、今もなお、ぬらぬらと濡れ光っていた。
亡霊、幽霊、怨霊、亡者、なんでもいいが、とにかく、あいつはこの世のものではなかった。
「なあー。あんたは俺のことがわかるんだろ。俺、さびしくてさあ。あんた、俺のことをずっと気にしてくれてたじゃん。俺に気があんだろ? 俺のことが好きなんだろ? だったら、ずっと一緒にいてくれよ。一人じゃ怖ええんだよ」
薄笑いを浮かべ、哀願するような口調で、亡者は手前勝手なことを言った。言葉を発するたびに、喉の傷口から血がごぼりとあふれる。
横目でちらっと黒神由貴を見ると、いつの間にか新たな呪符を人差し指と中指ではさんでいた。神代先生の方は、これまでに何度も見た、両端が尖った道具を右手で握っている。
「臨、兵、闘、者、皆、陳──」
神代先生が道具を縦横に振りながら唱えはじめ、黒神由貴が腕を上げて呪符を投げようとしたとき、鋭い鳴き声があたりに響いた。
神代先生は思わず唱えるのを中断し、黒神由貴も呪符を投げようとしたフォームのまま、固まっている。その二人の間を、黒い何かが通り抜けていった。
カラス!
さっきジャリンズ・ショップ前で鳴き声を上げたカラス。
あのカラスが、まるで弾丸か矢のように一直線に亡者に向かって行き、亡者の胸を突き抜けた。
突き抜けたあと、胴体にぽっかりと大きな穴が開いたと思うと、まるで風船が割れるように、亡者がパンとはじけた。赤黒いぐちゃぐちゃしたものがあたりに飛び散ったが、見ているうちに蒸発して小さくなり、消えてしまった。
赤シャツ男が蒸発したあとには、なんにも残らなかった。
──やっつけたのか……
黒神由貴と神代先生は身構えていた体勢から力を抜き、普通に立った。
「危なかったね」
呆然としている私を見て黒神由貴は言い、呪符をていねいに折りたたんでポケットにしまった。神代先生も同様に、両端がとがった道具をショルダーバッグに入れた。
6.あのカラスはなんなんだ
「あの、えっと、どういうことなの?」
私は黒神由貴と神代先生の顔を交互に見ながら、言った。
「ちょっと前に、黒神さんから相談を受けてね」
神代先生が言った。
ショルダーバッグからタバコの箱を取り出して、1本を口にくわえたところで、黒神由貴から「先生先生」と『境内内禁煙』の立て札を示され、神代先生は口を尖らせてタバコをしまい込んだ。
「榊さんが変なのにまとわりつかれてるって。それでしばらく二人して様子を見ていたんだけど、いよいよヤバそうだったんで、黒神さんに一芝居打ってもらって、原宿で待ち伏せしてたんだわ」
「じゃあ、ジャリンズ・ショップでフィギュア買って来いっていうのも、そのための口実だったんだ」
少しむくれて私が言うと、黒神由貴があわてたように口を添えた。
「大丈夫大丈夫、岡松クンのフィギュアはちゃんともらうから。お金も払うから」
「いやそういう問題じゃなくて」
ここで、本質的な疑問が浮かんだ。
「そもそも、なんで私が狙われたの」
私が二人に向かって言うと、神代先生がこめかみを指でかきながら言った。
「それは私たちの方が聞きたいわねー。榊さん、何か心当たりはないの? 今のやつ、かなり執念深いというか、パラノイアチックな感じだったけどね。だからかなり荒っぽいことになるだろうと覚悟はして来たんだけど」
「ありませんよー。人に恨まれる覚えはないし、事故があったところを通ったら手を合わせるし」
私が言うと、黒神由貴と神代先生は顔を見合わせ、かすかにうなずきあった。
「最近、そういう現場で手を合わせたり拝んだりした?」
黒神由貴が言った。
「別に何も……あ」
否定しかけて、思い出した。
「ちょっと前の、乗換駅であった殺人事件。事件後に通って、ロープが張られていたんで、何かあったと思って手を合わせて拝んだ」
「それだ」
びしっ! と音を立てんばかりに私に指を突きつけ、神代先生は言った。
「榊さん。前にも言ったでしょ。事故現場とか殺人現場とかで、うかつに手を合わせて拝んだりしちゃいけないって。普通は何もないだろうけど、あなたみたいに経験値の高い子がそんなことをしたら、寄ってこられるんだから。今回のなんか、一歩間違えたら、命に関わるところだったんだからね」
「……そんなの聞いていませんけど」
私が口を尖らせて言うと、
「あれ? 言ってなかった? あれ? じゃあ誰に言ったんだろ。黒神さんは説明したことある?」
神代先生はそう言って黒神由貴を見た。言われた黒神由貴も「アチャー」という顔をしている。
「言うの忘れてました……」
何が「アチャー」なのか気になる方はこちら
さすがにむかついて、「なんなのよいったい……!」とわめこうとしたとき、「クワァ」という鳴き声がして、私、黒神由貴、神代先生はそろって鳴き声がした方を見た。
あのカラスが境内の木にとまって、私たちを見下ろしていた。
カラスには足が三本あった。
明らかに普通の生き物ではない。
いつか私が自宅で目撃したのと同じカラスだと、今さらながら気づいた。
赤シャツ男は消滅したが、まだ問題が残っていた。
あのカラスもまた、私を付け狙っていたのだった。
「先を越されてしまいましたね」
カラスを見上げて、黒神由貴がのんきに言った。
「あのカラスっ!」
二人がのんびりしているので、私は焦り気味に言った。
「あのカラスもっ。ずっと私のことをつけ狙っていてっ。どこに行ってもあいつがいてっ。あいつはなんとかしなくていいの!?」
赤シャツ男をやっつけて納得している場合じゃないだろう、と、私は二人に訴える。
「あれ、知り合い?」
カラスを指さして、神代先生が言った。
カラスに知り合いなんかいるわけない。私は首を激しく横に振りつつ、訊いた。
「先生はあいつのこと知ってるんですか。というか、あいつはなんなんですか」
「あれは八咫烏(やたがらす)」
神代先生は言った。
「八咫烏は熊野本宮の使いだし、熊野は高野山の近くだし、知ってて当然よね。黒神さんも知ってるでしょ?」
「はい。なんで真理子にくっついてるのかなって思っていたんですけど」
「ちょっと待ってよ。じゃ、二人ともわかってたわけ?」
私が言うと、二人はそろってうなずいた。
「勘弁してよー」
私がぼやくと、神代先生が言った。
「ぼやきたくなる気持ちはわかるけど、とりあえず八咫烏には感謝した方がいいと思うよ?」
「なんでですかー」
「あいつ、榊さんを護っていたんだから」
「はあっ?」
思わず声を上げ、私は三本足のカラス──ヤタガラスを見た。
ヤタガラスは「クワァ」と一声鳴いて、飛び去っていった。
なんかバカにされたみたいで、ちょっとむかついた。
というか、狙われているのが私だとわかっていて黙っていた黒神由貴にも神代先生にもむかついた。
あとで絶対シメる。
エピローグ
その後、今のところはおかげさまで怖い思いはしていない。
冷静になって思い返すと、あのとき、私は黒神由貴から「見る方法」をレクチャーされたことになるのではないか。
今まで以上に、怖いことに関わることになるんじゃないのか。
大丈夫なのか、私。
「あれからどう? 何か見たりする?」
黒神由貴がそんなことを言ってくる。
「幸か不幸か、ございませんわね。見えるようになっちゃって、何かあったら責任取ってよ?」
ぶすくれて私が言うと、黒神由貴はニッと笑って言った。
「真理子は護ってくれる人がいるじゃない」
「ヤタちゃんのこと?」
私がそう言うと、黒神由貴はたっぷり2秒ほどは固まっていた。
「……ヤタちゃん……?」
「あのカラス、ヤタガラスって言うんでしょ? だからヤタちゃん。可愛いっしょ♪」
黒神由貴は、ものすごく微妙な顔になって、それ以上は何も言わなかった。なんでだ。
明治神宮で赤シャツ男をやっつけてからは、ヤタガラスの姿を見ていない。
道を歩いているときに、ふと顔を上げると、遠くの空を黒い鳥が飛んでいるのを見かけたりはする。が、それがヤタガラスなのかどうか、確信はない。
神代先生が言うように、ヤタガラスが本当に私を護ってくれるのなら、いつかまた逢うこともあるだろう。
そのときは頼むぜ、ほんとに。
方言指導 あげまき様
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