7.「黄泉への扉」へ
「で、アクセスするときは、これをかぶってもらうから」
午前1時30分。アクセス可能時刻まであと30分。
中央のテーブル席に着き、眠気覚ましのコーヒーを飲んでいる私たちの前に、兄貴がドン、とそれを置いた。
ぱっと見はバイクのフルフェイス・ヘルメット。だが、本来ならば顔の部分に開いている穴は何かの機械でふさがれ、後頭部部分から、何十本もの電線が伸びている。
私はそれに手を伸ばし、持ち上げてみた。
ずっしりと重い。
「何これ。……『平和の光教団』のヘッドギアみたいなものじゃないでしょね」
「んなわけないだろ。あんなエセ科学カルト集団のインチキ器具と一緒にしないでくれ」
「じゃあ何」
「ここで作ったヘッド・マウンティング・ディスプレイを『黄泉への扉』アクセス用に改造したヤツ」
「ヘッド・マウンティング・ディスプレイだったら、普通は顔面だけをカバーすればいいはずですよね? スキーのゴーグルみたいに。でも、これって?」
ヘッド・マウンティング・ディスプレイを見つめながら、黒神由貴が言った。
「ディスプレイだけだったらそれでいいんだけど、こいつは脳波センサーも付けてあるので。簡易型だけど」
兄貴が答える。
「何を考えてるかわかるわけ?」
「いや、さすがにそこまでは。これは『黄泉への扉』アクセス用に特化して作ったヤツだから」
「なんでそんな機能を付けてるわけ?」
「忘れたのかよ。『黄泉への扉』にエンターしたら、レム睡眠のうちにログアウトしないと昏睡状態になるだろ。それを防ぐために、こちらで脳波の状態をチェックするわけ。んで、レム睡眠からノンレム睡眠になりそうだったら、こちらでログアウトするわけだ」
「じゃ、エンターできても、誰かに見ててもらわないと戻ってこられないんだ」
「そういうこと。だから、正直言うとアクセスしてほしくないんだけどな。大丈夫ということはわかっていても、万一ということもあるし。……本当にいいんですか、黒神さん」
「はい」
黒神由貴はうなずいた。
「……でもすごいな。こんな研究してるんだ」
「まあここはもともとマン-マシン・インターフェイスの研究をしているところだから」
「あー」
そう言えばそうだったと、私と黒神由貴はこくこくと首を縦に振った。
「榊君、そろそろ」
緊張を含んだ声で、後藤教授が兄貴に言った。
「はい。……じゃ、二人ともこっちに」
と、兄貴は私と黒神由貴を壁際のパソコン前に座らせた。
椅子は安いパイプ椅子ではなく、ネット・カフェにあるようなリクライニングできるタイプの椅子だった。
「深く座って、背もたれにもたれて。そうそう。その状態で、ヘッド・マウンティング・ディスプレイをかぶって」
「こんなリラックスした姿勢でいいわけ?」
ヘッド・マウンティング・ディスプレイをかぶりながら、私は訊いた。
「エンターできた瞬間に、こちら側では意識を失うから。椅子から転げ落ちたりするんで。……ちゃんとかぶれた?」
兄貴は私のヘッド・マウンティング・ディスプレイを揺すり、正しくかぶれているかどうか確認した。続いて黒神由貴の物も同様に確認した。……と思う。というのは、バイクのメットとは違って、これはかぶると前がまったく見えなくなってしまうのだった。
目の前には、パソコンのデスクトップ画像が映し出されていた。
「画面が出てる?」
突然ヘッド・マウンティング・ディスプレイの中に兄貴の声が響いたので、驚いた。スピーカーも内蔵されているらしい。
「出てる出てる。……ウインドウズ……じゃないよね、これ」
「似たような感じにはしてあるけど、実際のOSは全然違う」
「ふーん。で、これからどうすればいいの?」
「何もしなくていい。ここから先は、すべてこちらで操作するから」
「わかった」
「じゃ、まずはネットにつなぐから」
兄貴がそう言う声が聞こえると、画像が変わった。見慣れたブラウザーの画像になる。
「『黄泉への扉』のトップページに行く」
兄貴がそう言った瞬間、画像がぱっと変わり、何度か見た『黄泉への扉』のトップページになった。真っ赤な背景に白いゴチック文字で「黄泉への扉」、その下に「ENTER」の文字。
読み込み時間はほとんどなかった。恐るべしスーパー・コンピューター。
「シンクロ・ソフトを起動させるぞ」
数瞬、画面には何の変化もなかった。──いや、いつの間に出ていたのか、画面の右下あたりに、画面幅の4分の1ぐらいの長さの、タスクバーのようなバーが出ていた。中央部が緑、その左右が黄、さらにその左右が赤になっていて、仕切りなのか何なのか、黒くて細い線が赤いエリアのあたりで微妙に左右に揺れている。
「画面の右下に細いバーが出てるか? 赤い部分に黒い線は?」
「出てる」
「OK。──黒神さんはどうですか?」
「出てます」
「おし。エンターできるタイミングになったらその黒い線が緑のエリアに入る。そのときにこちらでエンターキーをクリックするから。もうそろそろのはずだから、二人ともそのまま待機しておいて」
「了解」
「わかりました」
細いバーの中でゆらゆらと揺れる黒い線が、ぴょこん、といった感じで突然緑のエリアに飛び込んだ。「ENTER」の上にあった矢印がぴくっと動き、エンターキーがクリックされたのがわかった。
一瞬で画面が変わった。
これまで何度も見た、中央に「現在は入室できない時刻です。日を改めてご訪問ください」というページではなかった。
同じような赤いページではあったが、文字は一切なく、中央に大きな唇の画像があった。
「いらっしゃいませ」
そんな声が聞こえると同時に、TVの電源を切ったように、ディスプレイの画像がぷつっと消えた。
あれっと思った次の
8.黄泉か電脳空間か
瞬間、私は奇妙な空間に立っている自分に気づいた。
周辺──四方も足元も、かすかにグレーがかった乳白色一色だった。
レンタルビデオで借りたSF映画の仮想現実空間のようだった。
そばに黒神由貴が立っていた。
黒神由貴はちょっと目を見開いて、周辺を見回していた。そして黒神由貴は私がそばにいることに気づいた。
黒神由貴の服装は、エンターする前の服装と同じだった。自分の服も見てみたが、やはり同じだったので、ちょっとほっとした。もしかしてここにきたら裸なのではないかと思っていたのだ。
「……くろかみ、大丈夫?」
「大丈夫。真理子は?」
「んー、なんか頭がぼーっとしてる。寝ぼけてるみたいな感じ」
私は言った。寝ぼけてるというか、頭も身体も、なんだかだるい感じがして、動くのがおっくうであった。黒神由貴はそんな私を見てちょっと首をかしげ、そして言った。
「……真理子、ちょっとこっち向いてくれる?」
「ん?」
言われるまま、私は黒神由貴と向かい合った。
黒神由貴は私の頭のこめかみあたりを両てのひらではさむようにして、私の目を見つめて、「んっ!」と短く気合いをかけた。
スパーン!
そんな感じで、煙が吹き払われるように、頭がすっきりした。
「うわ。な、なになに。今、何したの?」
ぼーっとなっていたのが、あまりにも突然すっきりしたので、驚いてしまい、私はうろたえ気味に黒神由貴に訊いた。
「強めに気合いを入れたの。ここが──」
と、黒神由貴は周辺を見回しながら言った。
「ここがどういう世界なのか空間なのかよくわからないけども、入った人間の精神によくない影響があるみたい。もう少しこのままだったら、たぶん昏睡状態になるんじゃないかな。私たちは真理子のお兄さんが見てくれているから大丈夫だと思うけど」
「で、ここって──黄泉の世界なの?」
私が一番気になっていることを訊くと、黒神由貴は首をかしげて言った。
「どうかなあ。そういう感じはしないんだけどなあ。絵に描いたような、作り物の世界って感じがして仕方ないんだけど」
「じゃあ本物の黄泉の世界ではない?」
「……と、言い切る自信もないの。……真理子、ちょっとごめんね」
そう言うと黒神由貴は手を伸ばし、私のほっぺたをつねくった。
「痛い痛い痛い! いきなり何すんのよ!」
私はほっぺたの肉をつまんでいる黒神由貴の手を払いのけ、怒鳴った。だが、私の怒りを気にするでもなく、探るように黒神由貴は言った。
「……ほんとに痛かった?」
「え……」
言われて、私は黒神由貴がつねったほっぺたをさすった。
……痛くない。
「あれ?」
「来たときからそんな感じはしていたんだけど、ここってSF映画であるような仮想現実とかと違って、どちらかと言うと夢に近いみたいね」
「ああ、だからつねられても痛くない──いやちょっと待て。だからってなんで私がつねられなくちゃいけないのよ!」
「ごめんごめん」
怒りさめやらぬまま、もう一度あたりを見回した私は、遠くに何か建物があることに気づいた。建物は一つではなく、どうやらビル街らしい。
「くろかみ。向こうの方に、ビルがいっぱいある。なんか、街みたいだよ」
「距離感がつかめないけど、かなり遠くね。何キロもありそう」
「まあでも、ここにいても何もないし、とりあえずあそこまで行ってみるしか──わぶっ」
街に目を向けてそう言った私は、突然ものすごい加速度を──それも飛行機が離陸するどころではないようなものすごい加速度を、ほんの一瞬感じた。
「ななななな、なに、どうなって──」
言いかけた私は、絶句した。
さっきまでそばに立っていた黒神由貴がいなくなっていた。のみならず、私はビル街のど真ん中に立っていた。
ああそうか。
黒神由貴が突然いなくなったのではなく、私の方が、どういうわけかさっきまではるか遠くにあったビル街に,瞬間的に移動したのだ。
私は呆然として、はるか遠く、たぶん私と黒神由貴がいたであろうあたりを見た。遠すぎて、黒神由貴の姿がそこにいるのかどうかもわからない。
と、何か空気が動いたような感覚があって、ふと横を見ると、黒神由貴が立っていた。
「え! え! え!」
「……すごい」
黒神由貴はぽつりと言った。さすがに黒神由貴も驚いたようだ。
「今どうなったの? まるでテレポーテーションでもしたみたいに」
「ほんとにそうかもよ」
黒神由貴が言った言葉があまりと言えばあんまりだったので、私は思わず「んな、まっさかぁー」と、否定しかけたが、黒神由貴は真顔だった。
「さっき、真理子が『あそこに行くしか』って言ったとたんに、姿が消えたの。だから、行きたいところに行こうと思うとそこに行くんじゃないかと思って、私もこのビル街に行こうと考えたら、ちゃんと着いた」
どういうわけかわからないが、実際そうなっている以上、納得するしかないようだ。
「で、どうしようかー。こんなビル街があるなんて、まさかだよねー。ますます黄泉っぽくなくなって──」
言いかけた私は、言葉を切った。
私たちがいるビル街に、なんとなく覚えがあるような気がしたのだ。
どこだろう。
ビルの壁面にはいろいろな看板が付いている。
そこに書かれた店名を見て、私はようやくここがどこか気づいた。
秋葉原だ。
JR山手線秋葉原駅そばの、家電だのパソコンだのゲームショップだのメイドカフェだのがある電脳街──その秋葉原なのだった。記憶があるのも道理であった。
「くろかみー。ここ、アキバだ」
「あーそっかー。なんだか見たような場所だと思った」
黒神由貴も同じように感じていたらしい。
「でもなんか変だよね。誰もいない」
私は言った。現実の秋葉原だったら、平日だろうと休日だろうとウジャウジャと歩行者がいるが、ここには私たち以外には動くものがなかった。車も走っていないし、高架はあっても電車は通らない。
いや、いた!
人がいた。少し離れたビルの入口近くに、何人かの人がいる。まったく身動きしないので、気づかなかったのだ。
「くろかみ。あそこに誰かいる。行ってみよう」
走りかけた私は、ふと気づいて、人がいる場所に気持ちを集中させて、その場所に行くことを考えた。さっきの瞬間移動をもう一度確かめてみようと思ったのだ。
さっきの場合と同じように、強い加速度を一瞬感じたかと思うと、私はビルの前にいた。
すぐに、黒神由貴も到着した。
「現実でもこんなことができたら、遅刻なんて絶対しないのにね」
私と黒神由貴は顔を見合わせて笑った。
──そんなことよりも、問題は、私たち以外の人だ。
私たちは近くにいる男性に駆けよった。
十代後半か二十代はじめぐらいに見える、ほっそりとした、ヲタクっぽい服装の男性だった。うつろな目で、あらぬ方向を見ている。
「あの、すみません」
私はその男性に声をかけたが、反応はなかった。声をかけた私に目を向けさえしない。続いてそばにいる別の男性にも声をかけたが、やはり同じだった。なんの反応もない。
「だめだくろかみ」
私は首を横に振り振り、黒神由貴に言った。
「要するにここにいる人たちって、エンターして昏睡状態になっている人なのね、きっと」
黒神由貴は言った。
なるほど、そういうことか。
私はまわりを見渡した。
よくよく見れば、同じようにうつろな目をして立っている人は、けっこういた。エンターのきっかけが「黄泉への扉」というサイトであるせいか、多くが十代や二十代のように見えた。ほとんどが男性であったが、何人か、若い女性もいる。
「あ、ああっ!」
私は思わず大声を上げ、その中の一人に駆けよった。
酒井美佳であった。
他の多くの人々と同じように、うつろな目をして、たたずんでいる。
駆けよった私は、酒井美佳の両肩をつかみ、揺さぶった。
「美佳っ! 私っ、私よっ! くろかみもいるよっ! 目を覚ましてっ!」
だが、いくら肩を揺すっても、酒井美佳はどんよりとした目のままで、何の反応もなかった。
「だめだ、くろかみ。心ここにあらずだわ」
私はそばに来た黒神由貴を振り返り、言った。
黒神由貴はかすかに眉をしかめ、困り顔になっていた。黒神由貴も、ここに来たものの、どうすればいいのか、考えあぐねているようだった。
「これは驚いた。この世界にいて、意識を保っていられているのは、君たちが初めてだよ」
突然、声が聞こえ、私と黒神由貴は声が聞こえた方向を振り返った。
ビル前の車道、2車線道路の真ん中、センターラインのあたりに、一人の男性が立っていた。